人間論1
今この文章を読んでる貴方達は、人間だ。
当然のことを目の前に突き付けられ、貴方は今きっと、少々の困惑を覚えているか、何も感じずに文章を読み上げていることだろう。
「何故この人物は、そんな当然を突きつけるのだろうか」or「書いてある文を文字の語列とし認識し、理論として読み上げ前置きととらえる」その現状であろう。いや、もs化したら例外もいるかもしれないので、断定はしないでおこう。
私は心理学者でもないので、自分の価値観、観点、感情、自分の人間理論からといったそれでしか物事を語るなどといったことはしないし、きっとできないであろう。
…というか人間そんなもんだ。人の身を考えるといったって、結論は自分だったらどうか、等といった自分の感情を秤にする。心理とは、同種の生物に似通った本能の根端を突くことにあるのだ。
ソレこそ、万人にアンケートでも取って、一々感情を聞くわけでもなしに。
自分の感覚を頼りに目隠しをされた中で手探りで相手の心理という鍵穴に埋まりそうな鍵を、自分の所持しているかぎの中から探す。基本的に人間とはそういう生き物である。
No.1 「Moral」
モラル、基、道徳、基、倫理
人間とは、非常に差別的な生き物である。
平和、正義を語る割にして、非常に頑固で、そして悪質で、陰湿で、正しさという名の生存方法を自己解釈し、傷を舐めあう生き物である。
人間の中で言葉とは、とても大事な方法である。
「有難うございます」「いただきます」「おはようございます」
言語はまず違えど、誰しもが、人生で必ずしも使う言葉だ。
いやむしろ、これを使わないとなると集団行動をしないようなもので、ほぼほぼ野生動物なのではないかとさえも疑えて来る。
これを人間は今や当然のこととして言葉を紡ぐ。否や、これが私たちにとって、できなくてはいけないこと、に分類されているといっても、過言ではないだろう。
そんな中での言葉とは何だ、
言わば、動物が集団に如何に適合し、そして数少ない子孫の中を守って、団結し生と存続をかけるかといった其れの中で生まれた語列、基、パターンは動物社会では非常に多いものに分類される鳴き声にすぎない。
そう、鳴き声に過ぎないのだ。
じゃあ、例題の話をしようか。貴方達は、意識的に、言葉の根端を一々根掘り葉掘り見つめ返し、そして言葉を紡ぐだろうか、何かをしてもらった感謝により「有難う」、朝会ったから「おはよう」といった感覚なのではないだろうか?
いや、逆に、「有難う」ならば「滅多にないことを、していただいて感謝する」などといったことをいちいち考え、語源どうこうを考えられるのだったらば、人のことを考える、というよりも、一周廻ってそれは相当に暇な人間なことだろう。
やはり人間も動物、筋道があるか無いかに過ぎないだけで、根本的な原理は同じなのだ、所詮は、それは意味は辛うじて存在する「鳴き声」に過ぎない。この時点での、「人間も一動物」と言う事を、踏んでほしい。
貴方達は、動物愛護の名目で、犬猫を可愛がるものも少なくない。いや、人間の八割ぐらいは、そんなものだろう。しかし、人間という生き物はあまりにも理不尽に、生命を殺す。
いや、この時点では、人間という生き物の、食料である動物を殺している、ソレに聞こえるのかもしれない。いや、これが無ければ自然界のルールは成り立たないので、そっちが連想されて当然のことだろう。
しかし、どうだろうか、考えてほしい。
貴方達の中で、肉を食べることに毎度躊躇する人は居るだろうか。
ああ、無論のこと、好き嫌いなどは例外である。
有名な話である。
人間は、其処に自然なる差別を行うものなのだ。それの真理が、自己解釈の過程と、食い違いかけ離れたとしていても、それをひた隠しにする。
人間は、一例だが、食人を行うその文化に至って、ひどく批判し、殺人現場には不快感を覚え、殺人犯を忌避の目で見る。
ましてや、他の動物でも、自分の食料になる前の動物が殺されるその現場にさえも不快を覚える人間でさえいる。
そして、動物であるにもかかわらず、頭脳によって別世界の何かのような自惚れをし、自分の欲を正当化し、そして私情により他の生物の命というモノを奪い、そして贔屓をするのだ。
どうだろうか、大きな矛盾に、これは誰彼もが気づくことだろう。
「なぜ人間という動物は、此処まで慈悲や道徳をなぞる割に、矛盾だらけで不平等な世界で平和を語り、そしてそれに気付いても尚、視線を外し、それをひた隠しに愛を語り、差別を批判できる立ち位置にあるのだろうか。」
これが、第一の私の疑問である。
oh…こっれはひどい、中学にもなってこの文才とは…そして解りにくい。
解釈としては、見てくださってるお方々、お願いします。
私なりの世界についての独り言を、たまーに語ってこうかと思って、やってみました、
閲覧、有難うございました!!