花の丘、悪魔の本について
私は旅人だ。
あてのない、旅をしている。
春満開のとある野原で、私はゆっくりと花を眺めながら歩いていた。どれも主張しすぎず、可憐な野の花は、平和そのものであった。
ふと視線を遠くにやると、一人の婦人が、丘の上の大きな木ノ下でしゃがみこんでいた。様子がおかしい気がして、私は近寄り、そっと声をかけた。
「ここは花盛りですね、とても綺麗だ。」
婦人は静かに泣いていた。あまり刺激しないよう、ゆっくりと腰を下ろすと、空を見上げた。
「こんなに静かで美しい場所に、涙は似合いませんよ。」
婦人はそれを聞いて、小さく頷いた。袖で涙を拭くと、こちらを見ずに口を開いた。
「空はとても晴れ渡っているのに、心は全く晴れません。主人が、先日なくなって、私はどうしたらいいか、途方に暮れているのです。」
私はその美しい横顔に見惚れながら、悲しみの淵にいる婦人をなんとか笑顔にしたいと思った。
「そうでしたか。事故、ですか?それとも病気?」
決して焦らず、軽い世間話をするように問いかけた。
「いえ、自殺です。」
その言葉に少し驚き、自殺した経緯を知りたいと思った。こんな花の似合う婦人を残して自殺するとは、一体どういうわけなのだろうか。
「私には、主人が自殺する理由がわかっています。ただ、おかしいんです。自殺する理由が消えた途端、主人は命を絶ったのですから。」
私は不思議に思った。そしてその真意がますます知りたくなっていた。
「自殺する理由とは、なんだったんです?」
「借金です。主人は小さな帽子屋でした。毎日長い時間帽子を作ったり、修繕したりしていましたが、ここのところ、辺りの村全部、不景気で。最低限の買い物しかしない村人が、帽子など買うはずもありません。そうして主人は多額の借金を抱えながら、希望を捨てず、毎日帽子を作っていたんです。」
なるほど、と私は小さく相槌を打つと、想像してみた。
不景気な村。廃れていく店。それでも必死に働く村人。しかしその未来は、いずれも絶望に到達してしまう。そして問いかけた。
「しかし、その理由は消えたんですよね。その後自殺された訳は、一体なんだったのでしょう。」
婦人は暫く俯いて、考え込んでいるようだった。いや、答えはわかっているが、答えにくいといった様子か。
「多分。多分、悪魔と契約、したんだと思います。」
その声は震えていた。まさか、という顔を隠せない私。
悪魔と契約。
その言葉が脳を刺激する。
私は、悪魔との契約について、何か知っている。しかし細かなところが思い出せない。
「どうして、そう思われたんです?」
私はそう言うのが、精一杯だった。なんとか気を落ち着かせて、婦人を見つめる。
「これを、主人の作業部屋で。」
婦人は一冊の分厚い本を、私に差し出した。これはかなり年期の入った本だ。それを受け取り、ページをめくる。中には意味不明な図や、読むことのできない呪文のようなものが書かれている。私はその本に見入ってしまった。
「私には、全く意味はわかりませんでしたが、それを主人が熱心に読んでいたとしたら、関係があるんじゃないかと思って。」
私は次々とページをめくりながら話を聞いていた。
「借金は、ある日完全に返済され、それどころか、多額の金を持って、主人が帰ってきたのです。どこから手に入れたかは教えてくれませんでした。でも返す必要のない金で、これからはお金のことを気にせず生活できる、と、とても浮かれている様子でした。しかし、その夜から主人は、眠っている間はうなされ、起きていてもソワソワして落ち着きがなく、一週間もしないうちに首を吊ってしまいました。」
その流れであれば、あながち契約したのも間違いではなさそうだった。主人はきっと、金と引き換えに、何かを差し出した。耐えきれなくなって、自ら終わりにしたのかもしれない。
そしてそれは、私自身、身に覚えがある事案であり、非常に興味を引くが、一方でとても怖くて、手が震えだした。
「大丈夫、ですか?」
心配そうに婦人が私を見ていた。大丈夫です、と伝えると、本を閉じ、深呼吸をした。
「何にしても、ご主人は貴女の為に、必死でお金を用意したんだと思います。これから生活に困ることのないよう、きっと。だから、貴女は泣いていちゃいけない。しっかり生きなければ、ご主人は浮かばれないのではないですか。」
わかっています、と強く答えた婦人は、スッと立ち上がった。
「旅人さん、貴方にいろいろ話して、私の考えが間違いでないと確信しました。主人の意思を、把握したつもりです。なのでもう迷いません。少し、スッキリした気持ちです。あ、その本は差し上げます。私にはもう必要のないものなので。」
私はそれを聞き、女性というものは本当に強く、立ち直りの早い生き物であると感じた。自分の中のモヤモヤが解決されると、前を向いて歩いていけるのだな、と羨ましくも思った。婦人の表情は先ほどとは比べものにならない程、凛々しく、吹っ切れたようだった。
「これからは私が、主人の後を継いで、帽子屋を守ります。やらなければならないことが山ほどありますし、泣いていてはしょうがないですよね。本当に、ありがとうございました。」
そう言い終えると、丁寧に頭は下げたが、すぐに振り返ると、小走りで野原に消えていった。その背中を、あっけらかんとした顔で、私は見送った。あまりに切り替えの早い婦人であるなと、少々驚きながら。
しかし、この本。十中八九、悪魔との契約などが書かれているに違いない。もしかしたら、この中に私の求める答えがあるのかもしれない。偶然にも手に入れたこの本を、運命の導きと感じ、私はリュックにしまい込んだ。
「さて、どうするかな。」
そう小さく呟くと、私はまた歩きだした。あてのない旅は、続くのだ。