獣の涙、希望に出会うために
私は旅人だ。
あてのない、旅をしている。
とても腹が減っていた。食べるものを求めて森に入り込んだ私は、あの日からのことをぼんやり考えていた。
私はアレからずっと逃げ続けていることに、自覚はあった。考えないようにしていても、アレは進行し続け、私の中に棲み続けいている。きっと、逃げることなどできないだろう。それは死をもって、終わりを告げるのだ。
空腹の限界を迎える中、朦朧とする意識の中で、果実のような匂いが、私を刺激した。そして遠くに一匹の獣が見えた。獣は倒れて動かない。もしかしたらこの獣も腹が減っているのではないか。私は獣のためにもこの匂いのもとを辿り、果実を手に入れなければならいと、最後の力を振り絞って、木を登った。
「あ、あった。」
てっぺんあたりに、頭の大きさくらいの赤い実がなっている。もう殆んど意識は飛んでいたが、一心不乱に果実をもぎ取り、私はゆっくりと木から降りた。
「獣よ、しっかりするんだ。これを食べるといい。」
私は赤い身を割ると、半分を獣の口に差し込んだ。獣はゆっくりと、咀嚼し始めた。私は安心して自分も果実を食らい始めた。
「助けて、くれたの、か。」
まだ起き上がる様子のない獣は、力なくそう言った。
「あぁ、まぁ、その、ついでというやつだ。気にしなくていい。」
私は少し元気を取り戻すと、何度か木に登り、果実をもいでは食べを繰り返していた。
「助けなくても、よかったんだ、俺なんか。」
獣はそう言うと、姿に似合わず泣き出した。危険そうに見える獣も、こんな状態では私の危機管理能力が働かないのも無理はない。それくらい、今の獣は獣らしさを失っていた。
「何かあったなら、話くらいは聞いてやるが。」
そうか、と獣は答え、暫く黙ると、やはり誰かに話したかったのだろう、堰を切ったように話し始めたのだった。
つまりは、こういうことであった。
両親と森に暮らす獣は、代々人食い獣として恐れられていた。人間を喰らい、生きていた獣は、ある日、人間の罠によって、突然父親を失う。父親が人間を狩っていた為、狩に不慣れな母親も、人間を狩る最中、やられてしまう。一緒にいた獣は、一度殺されかけたが、人間の少女によって助けられた。
少女は、この幼い獣ならまだ教育して、ゆくゆくは立派な村の用心棒になると、獣を殺さず、一緒に生活することを提案した。
言葉を覚え、人間に馴染んでいった獣は、少女に絶対的な信頼を築いていった。それはもう愛情にも似た、感情だった。獣は果物や家畜の肉を食べ、人間の味は忘れていき、両親と変わらぬ大きさまで育った。
そんなある日、少女と獣は、果実を取りに森に出かけた。しかし不運なことに、木から落ちた少女は、獣の目の前で頭をうち、死んだ。ちょうど狩をしていた村人が偶然それを見つけると、獣が人間を殺した!と勘違いして、村中に伝えたのだった。獣が弁解を求めても、もう無駄だった。
その日から、獣は村人に、恩を忘れて少女を殺した烙印を押され、森の中で追い回された。寝る間も与えらず、腹も減っていた。獣はとうとうボロボロな状態で村人に囲まれてしまったのだ。
その時の記憶はあまり覚えていないようだったが、とにかく本能の赴くままに、人間を片っ端から喰らい続けたという。あっという間に村人は死体となって、獣の周りに溢れた。血の匂いが、いつまで経っても取れない。あんなに腹が減っていたはずだったのに、獣は胃の中のものを全部、吐いた。
「俺は、人間を喰らいたいなんて、もう微塵も感じていなかったんだ。あの時食べた人間の味はもう、食べ物ではなかった。血の匂いも、肉片も、俺にとっては愛しい少女のそれと、同じものなんだから。だけど、意識がなかったにしろ、もう二度と人間を食べないと誓った少女との約束を裏切って、人間を食べた。この後悔は、俺の生きる意味を、無くしたんだ。」
獣はそこまで言い終えると、また小さく泣いた。
少女との生活は、獣にとって全てだったのだろう。幼い頃、両親を殺した人間の少女。しかし、またも少女も亡くしてしまった獣。獣は何度も失っては、這い上がって生きてきたのだ。
「なぁ、旅人。俺はどうして生きているんだ?」
私はすぐには答えられなかった。生きれば生きるほど辛い時間が増えるだけではないか。いっそ死んでしまえば、もう何も考えなくて済むのに。そう思って、ふと我に返った。
「私も生きる意味を探している。どんなに不幸な出来事があっても、生きていればそれ以上の幸せに出くわすこともあるんだ。君が両親を亡くし、絶望の淵にいた時少女に出会ったように、少女を亡くした君は、また新しい希望に出会うだろう。私は今日君に出会って、逃げていたことに向き合おうと、少し思えたよ、ありがとう。」
獣はまさかありがとうをもらえるとは思っていなかったようで、目を丸くして驚いていた。
「まだ希望が、俺にもあるのか。こんな俺にも、出来ることが、あるのか。」
あるさ、と私は微笑んで見せた。つられて獣も微笑んだ。
「それなら今は、旅人の言うことを信じる。希望を求めて、俺は生きてみる。旅人も、生き抜いて欲しい。」
二人は強く握手をし、互いの決意を胸に、それぞれ歩き出した。
時に出会いは、迷いを封じ、未来の扉を開け、また歩き出す勇気をくれるのだ。私は、まだ生きている。生きていれば、必ず希望に出会うだろう。私の中に棲まう悪魔にだって、きっと敵う日が来るはずだ。
私は、希望を探しに、あてのない旅を続けている。