Last Regret
市内の繁華街の、入り組んだ細い路地の途中に、果たしてその店は有った。
「Regret」という金文字プレートが貼られた黒いドア。
確か3日前に通った時、ここはコンクリート壁だったはずだ。
私は少し緊張した面持ちで、ドアノブに手を掛ける。
「カラン」
少し乾いたドアベルの音とともにドアが開く。
10年前と同じく中はカウンターのみのバーだった。
相変わらず無表情なマスターが、カウンター内でグラスを磨いている。
客が来たのに無言なのも相変わらずだ。
先客が一人、カウンターの一番隅に腰を下ろしていた。
私の想像が正しければ、よく知っている男のはずだ。
私は先客の隣に腰かけると、マスターに注文を通した。
「ブランデー水割りで」
先客は私と同じくブランデーをチビチビ飲っていた。
そのグラスがほとんど減ってないのに少し安堵すると、
改めて彼に話しかける。
「久しぶりだなライター。」
「ああ10年ぶりくらいかな。調子はどうだい、サラリーマン。」
彼はそういうと、初めてこちらに顔を向けてきた。
毎朝、鏡で見る顔。そう先客は「私」だっだ。
「まあ、浮きも沈みもしないよ。
元々、それが目当てで今の仕事を選んだんだし。」
「そうか、こっちは金塊を掘り当てたぜ。
今度、作品が映画化するらしい。」
「すごいじゃないか!!」
私は彼の成功を素直に祝福した。
そういえばくたびれたスーツの私と異なり、
彼のスーツはかなり高級そうで、
腕に付けた時計も、有名ブランドの品だった。
カランという氷の音と共に、
私の目の前にブランデーの水割りが置かれる。
「映画化を祝して。」
持ち上げたグラスを私は彼に差し出した。
「二人の再開を祝って。」
乾いた音を立てグラスがぶつかる。
ただ、ある理由から私たちはこのグラスを
文字通り「乾杯」にすることはできなかった。
グラスで揺れる氷を、二人してしばし観察する。
「ここ十年・・何かあったかい。」
長い沈黙の後、やがて彼が聞いてきた。
「ああ、結婚して子供が生まれた。
今年、小学校に入学するよ。」
「そうなんだ。それおめでとう。」
「そっちはどうだい。」
「ああ、女房とは5年前に離婚した。
ただ、今は愛人が5人いるよ。」
「男としては、
そっちの方がおめでとうと言いたくなるね。」
「どうだかな・・・」
彼は自嘲めいた口調で、グラスの氷を見つめていた。
「で、宿題はやってきたかい??」
「宿題??」
「ああ、この店に来る鍵の話さ・・・」
そういえば、そんな話をしたな。
私は初めてこの店を訪れた10年前の事を思い出していた。
・
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・
10年ほど前、私は仕事で大失敗をしでかした。
そしてその失敗を忘れる為、しばし夜の酒場を彷徨った。
数件の酒場をハシゴした後、たどり着いたのがこの店だった。
興味を惹かれたのは、ドアに刻されたその金文字の店名だった。
「Regret」(後悔)か今の自分にピッタリの店だ。
少し乾いたドアベルの音とともに店に入ると、
中はカウンターのみのバーだった。
店内には客一人とマスター一人。
客はマスターに話しかけるでもなく、チビチビ一人で飲っていた。
年恰好からして私と同年代だろう。
私はその客から椅子二つ隔てた場所に腰かけると、
マスターに話しかけた。
「すみませんメニューを下さい。」
「メニューは有りません。」
「はい??」
いきなりの対応に面食う。
「ここはバーじゃないんですか?」
「バーです。ただここで注文できるのは。
そのお客さんが飲んでるのと同じ、
ブランデーの水割りだけです。」
「じゃあ、それを一つ。」
言いながら、
私は改めて椅子二つ向こうのお客に目を向けた。
その手には確かにブランデーの水割りがあった。
ただ・・・・その男の顔を見た瞬間、
私は驚愕せざるえなかった。
カウンター席に座っていたのは、
紛れもなく「私」だったからだ。
私の驚愕の表情を見て、彼も私の顔を見つめ返し、
同様に驚愕の表情を浮かべた。
私たちはしばし同じ顔に同じ表情を浮かべ、
お互いを見つめ合った。
そこに置いてあるのが鏡なら何の違和感も無いだろう。
ただ、残念ながら彼はTシャツにジャケットというラフな格好で、
私はスーツ姿だった。
「名前、聞いて良いですか。」
私は彼の隣の席に移動すると、意を決して話しかけた。
「佐藤XXです。」
驚いた事に同じ名だった。
これで瓜二つの他人という線はほぼ消えた。
私は胸ポケットに入れていた名刺を彼に差し出した。
そこに書かれた同じ名前を見て、彼も驚愕した様だった。
その後、生年月日、出身地、家族構成について情報を交換したが、
全てが同じだった。
つまりあり得ないが、私たちは同一人物という事になる。
私たちは互いに同じ顔を見合わせ、やがてある違和感に気が付いた。
そう、マスターの存在だ。
マスターは私たちには何の関心も抱くでなく
ひたすらグラスを磨いているが、これはありえない反応だ。
目の前に同じ顔の人間が二人いるのに、無関心という事があり得るだろうか?
やがて「カラン」という音と共に、
私の目の前にブランデーの水割りが置かれた。
私たちはとりあえず恐る恐る、
マスターに話しかけてみることにした。
「マスター・・とりあえずこの店について
何か教えてもらえるかい。」
「ええ、この店にはいくつかのルールが有り、
そのルールを守って頂けるなら何しても構いません。」
「わかった。話してくれ。」
彼はマスターの返事を促した。
「まず一つ
ここで頼める飲み物はブランデーの水割りのみです。
お金は一切頂きませんが、おかわりも出来ません。」
お金が要らないというのには驚いたが、
とりあえず先を促すことにした。
「わかった。次は」
「この店に滞在できるのは、
そのブランデーの水割りが無くなるか、
グラスの氷が解けきるまでの時間だけです。」
私は慌てて、先に来てた彼のグラスに目をやった。
幸いブランデーそのものは4分の1ほどしか減っておらず、
氷もほとんど解けていなかった。
「時間過ぎて、お店に居ようとするとどうなるんだい。」
「それは出来ない事になっています。」
なぜ出来ないのか意味がよく分からないが、
とりあえずそういうルールらしい。
「こちらからマスターに幾つか質問しても良いかい。」
「ええ、答えらえれる範囲なら答えます。」
「自分で言うのもおかしいが、どうやったらこの店に来れる。」と彼
「その質問は答えられません。」とマスター
「ここは一体どこだ。」と私
「答えられません。」とマスター
「あんた何者だい。」と彼
「答えられません。」とマスター
どうやら店やマスターそのもの関する質問は、
木で鼻を括った反応しか返ってこない様だ。
マスターの話が事実なら時間が勿体ない。
私たちはとりあえずお互いの情報を交換することにした。
彼はどうやら職業作家をやっている様だ。
サラリーマンの自分とは対極の仕事だ。
私と彼はお互いの進路を比べてみることにした。
その結果、私と彼は同じ小、中、高校を出てて、
大学の入学までは全く同じだった。
そして、私たちは同じように19歳の時に父を亡くしていた。
そう、そこまで私と彼は同じ人生を歩んでいたが、
その後の進路が大きく異なっていた。
父が亡くなった後、私は大学を辞め、専門学校に入学した。
そしてそこを卒業した後、今の会社に就職しSEの仕事を始めた。
ただ彼はそのまま大学に残り、職業作家になる道を選んだらしい。
職業作家という選択は、私も検討しないわけでは無かった。
ただ自分の才能に自信が無かった事と、
当時の経済的な都合もあり、断念せずには居られなかった。
彼はどうやらかなり売れっ子作家の様で、
様々な雑誌に連載を抱え、本も20冊以上出版していた。
自分の人生とは全く関係ないとはいえ、
彼の成功について何故か我が事の様に誇らしかった。
「じゃあ、今は特に悩みはないんだな。」
仕事で大失敗した自分にとっては羨ましい話だ。
「そうでも無い。実は2年前に結婚したんだが、
忙しすぎて女房と上手くいってない。」
「いいじゃないか、こっちは出会いが無さ過ぎて、
付き合っている相手も居ないぞ。」
「結婚なんて、しないほうが良い。時間の無駄さ・・・」
彼はそう言って嘲る様に呟いた。
どうやら彼は彼で、様々な悩みを抱えているらしい。
ただ、滅多に無いこの出会いを、
悩みの打ち明け合いで終わらせたくない。
私は話題を変えることにした。
「で、ここに関する仮説なんだが。」
私は思いついた仮説を彼に話してみることにした。
「ああ、それなら俺にも一つ有る。」
幸い彼も乗ってきたようだ。
「フレドリック・ブラウン「発狂した宇宙」」
中坊の頃に読んだな。」
私が読んだのなら、絶対に彼も読んでいるはずだ。
「ああ、俺もそいつが浮かんだ。つまりは「平行世界」か。」
そう、もし宇宙に無限の可能性が存在するのなら、
今いる自分の世界とほぼ同じような設定で、
少しだけ異なる世界が存在する可能性もある。
「そう通常その並行世界は絶対に交わらないはずだ。
ただ何かの拍子に交わったとすると。」
「それがこのRegretという場所か。」
「そう考えれば辻褄が合うはずだ。」
「ただ、並行世界が交わるには、
何かしら鍵となる条件が必要になるはずだ。」
「ああ「発狂した宇宙」だと、確か
バートン式電位差発生機とやらの暴走だったな。
「じゃあ、次に会う時までに、
お互いその鍵を探しておく事を宿題にしよう。」
そう、上手く鍵さえ見つかれば、
私たちはここでいつでも会えるようになるかも知れない。
「そうだな。マスターは教えてくれそうも無いし。」
ただ、私の厭味ったらしい文句を、
マスターはシレッと無視した。
改めて彼のグラスに目をやる。
ブランデーはもうほとんど無くなっていた。
「じゃあ、達者でな。
近くに来たら、なるべくここを通る事にするよ。」
「わかった。俺もそうするよ。」
彼はそう言って、一足先に店から出ていった。
数分後、完全にブランデーを飲み干した私は「Regret」を後にした。
今から10年ほど前の出来事だった。
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・
「で、鍵は見つかったかい。」
彼は再び聞いてきた。
「ああ、多分見つけた気がする。」
100%とは言えないまでも、私はある程度の確信があった。
「ぜひ、聞かせてほしいな。」
彼は身を乗り出して来た。
「鍵は恐らくこの店の名前だよ。」
「Regret(後悔)か・・なるほどな。」
関心したところを見ると、彼にも思い当たる節があるらしい。
「で、あんたは何を後悔しているんだい。」
「サラリーマンがつくづく嫌になった。
毎日毎日、同じことの繰り返しだ。」
「贅沢言うなよ。給料ってのは、その我慢代だろう。」
「簡単に言うなよ。俺はあんたが羨ましいよ。」
「俺が??」
私の言葉に彼は意外な反応を示した。
「自分の才能が試したかった。
他者の尊敬が欲しかった。
たくさんの女性に愛されたかった。」
私は心の底に隠し持っていた正直な願望をここで吐露した。
恥ずかしくて今まで誰にも明かしたことは無いが、
自分に明かすくらいは構わないだろう。
「冗談だろ??俺はあんたこそ羨ましいよ。」
「俺が??」
彼の言葉は私にとって意外過ぎた。
「平穏な生活に憧れていた。
嘘のない仕事がしたかった。
一人の女性を死ぬまで愛したかった。」
そう、彼の願望は私の願望の対極だったのだ。
私たちは二人してチビチビとブランデーをやりながら、
互いの顔を覗き込み、そこにあり得たかもしれない
自らの可能性を探りあった。
話したいことは有る様で無かった。
ただ、そうこうするうちに時間はどんどん過ぎていき
やがてグラスに残った酒もほとんど消えかけていった。
「違う世界に生きる自分に、何かアドバイスは無いかい。」
正直、このまま別れても良かったが、
最後一言二言、彼とは会話を交わしておきたかった。
「酒は好きか??」
彼は意外なことを聞いてきた。
「ほとんど飲まない。
このブランデーが一か月ぶりくらいの酒かな。」
「じゃあ、良かった。
俺からいうことは何もないよ。」
彼はそういうとグラスの底に残った最後の酒を飲みほした。
「じゃあな、サラリーマン。達者でな。」
彼はスツールから足を下すと
出口に向かって歩き出した。
「ああ、またなライター。」
私は振り向かずに言った。
「残念ながら、または無いよ!!」
彼は大声でそう言い残すと、バーから姿を消した。
「ちょっと待て!!どういう意味だ!!」
私は慌てて彼の後を追おうとしたが、
すぐにそれが無駄な行為である事に気が付いた。
そう、彼の後を追ってバーを出ても、
私は私のいる世界に戻るだけだ。
改めてスツールに腰かけ、
残ったブランデーをチビチビと飲りはじめると、
グラスを磨いていたマスターがその手を止め、
私に一片の紙切れを差し出した。
「さっきのお客様からです。
帰ってから渡せと、言付ってました。」
どうやら折りたたまれたメモ用紙の様だ。
少し緊張して開くと、そこにはこう書かれていた。
「酒の飲み過ぎで、肝臓がもうダメみたいだ。
医者には余命半年と言われたよ。
今日のこれが末期の酒になりそうだが、
あんたに逢えて良かった。
達者に暮らせよ。」
私は100%意味が無い事を承知でドアの方を振り返った。
もちろんそこには何も無かった。
「肝臓なら半分くらいくれてやったのに・・・」
同一人物なら移植手術でも拒絶反応の心配はない。
もっともそれは無理な話だった。
手術のやりようがないし、
他にもう一つ絶対に覆せない理由もあった。
私はグラスに残った酒を飲み干すと、
マスターに「ありがとう」と一言残し、
彼の消えた出口に向かった。
「カラン」
店から一歩出た瞬間、「Regret」のドアそのものが消え、
そこはただのコンクリート壁になっていた。
10年前に目にしたのと同じ現象だった。
改めて手にした彼のメモを眺めてみる。
ただ、そいつは掌に落ちた雪の欠片の様に、
たちどころに小さくなり、間もなく消えてしまった。
そう、並行世界からは何一つ持ち出せない。
10年前、彼に貰った小説もそうだった。
例え仮に肝臓の移植手術をしたとしても、自分の世界に戻った瞬間。
「私」の肝臓は彼の中で消えてしまうだろう。
ただ、
掌のメモとともに、
私の心の中に有った後悔も羨望も綺麗に消えさっていた。
私はもう二度と「Regret」の扉を開くことは無いだろう。
そう、
私が私の人生を悔いた様に、彼も彼の人生を悔いていた。
そして、
私が彼の人生を羨んだ様に、彼も私の人生を羨んでいた。
ただ、
後悔しても、羨望しても、人は自らの一生を生きるしかない。
二度と無い。故に人はそれを一生と呼ぶのだった。