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エアハルトの伝

「ううぅ……や、やっぱり怖いよ……! もう渡りたくない!」

 少年から教えて貰った農地を見に、街の上へ上へと坂を登り古びた吊り橋を渡り、谷底から八割ほどの高さまで街を上がって来ただろうか。その辺りでルトがもう何本目か分からない吊り橋に足をかけ縄が軋んだ音を立てたのを聞いて、その場にうずくまったまま動けなくなってしまったのである。

「毎回下を見て歩くからだよ、大丈夫? ゆっくりでいいからね」

「だって下見なきゃ、どれくらい危ないのか分かんないよ!」

 優しい声をかけるエイルに泣きじゃくりながら何とか返すが、もうすっかり腰が抜けてしまっている。近くの空中を通りかかった街の人達も思わず微笑ましそうにしていた。

「誰かに頼んで、抱えて飛んでいってもらう?」

「むむ、むり! もし途中で離しちゃったら……!」

「あるかも知れない危険から目を背けるよりは、危険が振りかかった時にどう対処できるかをしっかり管理しとくタイプなんだよね、ルトは。ま……ここじゃ大変だわな」

 テオリアが崖から身を大きく乗り出す。真下は所々にある温泉からくる湯気も手伝って地面がぼんやりと霞んで見える高さだ。もしテオリア以外が落下すれば、確かに川に着水しない限り粉砕骨折は免れないだろう。

「実は俺もそうだから……すげぇ心臓に悪ぃな、これは」

 それでも八割は登って来たあたりルトも頑張って耐えたと言うべきなのかもしれない。それを見て橋の途中まで先行する影が一つ――。

「ルトちゃん高いとこダメなんだー? ほれほれ、頑張ってー」

 面白がったミナが吊り橋を上下左右に揺らしてみせる。ルトはびくっと体を弾ませるとシャルの足を抱え込んで、彼にもしっかり伝わるほど震えだした。

「おいこらふざけんな! ボロいのは本当なんだからマジで落ちたらどうしてくれんだ!」

「ないない、そんな簡単に落ちる訳が……」

 ギリ、ビリビリビリ……ガシャァン。

「えっ……きゃあああ!!」

 ミナの言い終わらない内に彼女の向こう側の柱に結び付けられていた縄が一本耐え切れずに千切れ、ミナの立っていた辺りまでの橋板がねじれて横倒しになり、崩れ出す。当然彼女はあっという間に空中に投げ出されてしまった。

「ったくもーしかたないにゃあ、あの仔猫ちゃんは」

 一つ溜め息をついて瞬間的に空中に飛び出したテオリアがあっさりと彼女の体を抱え上げ、岩壁を二度、三度と蹴って元の位置まで跳び上がってくる。

「ちょっと調子に乗り過ぎた、そうだよね?」

 驚きのあまり地面に足をつけても肩で息をしているミナ。流石に効いたらしい、その時ばかりは少ししおらしくなっていた。

「あ、ありがとう…………ございます」


「はえーっやるもんだねぇ」

 ルトはテオリアにおぶって貰って、何とか一番上まで辿り着いた一行はあっけにとられる。雪の薄く積もる厳しい環境ではあるが、目の前にはしっかりとした耕作地が広げられていたからだ。

 崖の縁に沿うように一定の幅でどこまでも続いている長方形の土の地面。それを囲うように雪を積み上げ踏み固められた氷のバリケードが激しい吹雪から果樹や作物を守っていた。少しでも熱を届けてくれる陽射しのあるうちに沢山の人が楽しそうに草木の世話をして、所々にある用水路は崖下の温泉を汲み上げているのか白い蒸気をあげており、辺りは最低限の温度が保たれている。

「いったいここでこれだけのものを作るのにどれだけの苦労があったのか……創設者の熱意が感じられますね」

「ああ、ものを一から作るってのは並大抵の事じゃない、作業員だっていつも思い通りに動いてくれる訳じゃない。ましてやこんな不利な環境じゃあよほど人望がないと……」

「オルタナを作り直すのも、すっごく大変だったもんね」

 周りをきょろきょろ見回すシャル達が物珍しかったのか、女の子が一人パタパタと近付いてきた。

「お兄ちゃんたち、ここは初めて?」

「うん、ここを作った人はすごいんだろうなって話してたんだ」

「そうだよ、ここを最初に作ったのはあのエアハルトさまだもん!」

「エアハルト様……? そういえばフィズもそんな名前出してたね。どんな人なの?」

 ミミルが土まみれの彼女を抱き上げて尋ねる。自力で羽ばたくのもあってとても軽かった。

「ずっと昔の偉い人だよ! とっても優しくていい人で、フィアレスのために色々頑張ったんだって。温泉をしっかり整えたのもエアハルトさまだし、羽根のない人の使う橋をかけたのもエアハルトさまだし、貧しい人には自分の物を売ってでも助けを出してあげたんだって!」

「はは、名君じゃないか。この町の功労者って訳か」

「今見ても凄く平和ないい町ですよね。フィズ君が自警団のリーダーのようですけど、彼の物腰を見ればよく分かります」

 その名を聞きつけた周りの大人達も集まって来て口々にエアハルト様は民衆の事をよく分かってた、町のためにこの畑を作り出したエアハルト様は凄い、と屈託のない笑顔で聞かせてくれた。


「しっかし、三十半ばでお兄ちゃんか……まあ子供っぽい顔のままなのは認めるけど」

「ん~、あの子ボクを見て言ってたと思う」

「ああ、なるほど……さて、ミナを止めたからこの時代ですべき事って正直ないんだよな。そろそろ一旦吹きだまりの世界に戻るか?」

「ちょっと待ってシャル、誰か飛んで来るわよ」

 ようやく人だかりが収まった頃、畑の脇に立ち尽くす彼らの元に槍を背負った青年が一人飛んで来た。

「ああ、見つかってよかったっす皆さん」

「あたし?」

「いやあんたじゃなくて……」

 純朴そうな青年だが、ミナにはやはり少し怒気の籠った声で接する。

「確かさっき橋に来た自警団の人ですよね、やっぱりミナさんに何か言われましたか……」

「そりゃあもう、じゃなくてそれはいいんっす。シャルさん達には言いにくい話になるんすけど……あの石橋、何ヵ所か派手にぶっ壊してくれちゃいましたよね」

「……あっ」

 一瞬ルトの目が泳ぐ。

「どっちが壊したかはともかく、特に用事なければ責任もって直して貰えないかなーって事なんすけど。エアハルト様の造った物だから急いで元に戻さないとすぐ苦情がくるんすよね」

 人気すぎる名君がいたのも大変だ。フィズにはお金も持たせてもらってここに登って来るまでに腹ごしらえもしてしまったから、少し申し訳ない気でいたのも事実。

「仕方ない、引き受けるよ。ただまた一番下まで往復するのはな……」

 シャルはルトの方をちらりと見やる。笑ってはいるものの心なしか目に光が灯っていない。

「ああ歩きじゃ大変っすよね。じゃ送り迎えはしますよ、どうせ俺も手伝いますから」

 そう告げて彼は飛び去り、すぐに数人の仲間と農具屋で見かけたバスケットを吊り下げて飛んで戻って来た。乗れということなのだろう。

「は、離さないでよ、絶対ぜったいね!?」

「役得なんだけど、さすがに僕は不憫で見てられないよルト……」

 ゆっくり谷底まで降りていくバスケットの中ルトは、今度はシャルとエイルの両方に深々としがみついて足を震えさせていた。

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