エイル登場
アレスタリアの城下バザールにて、一人の男がフラフラと人混みを避けながら家族分の買い物を済ませ、夢から醒めきっていないようなおぼつかない足取りで歩いていく。
そしてやはり帰路の途中で子供にぶつかってしまった彼は、同じ目線の高さまでしゃがみ込んで穏やかに詫びた。
「わっと……ごめんね、ちょっとぼうっとしてて」
彼の優しい人柄はよく知れ渡っていて、その子も顔見知りの一人だ。
「うん大丈夫。ねーねーまたいつも言ってたあのお姉ちゃんの事思い出してたの? 僕が産まれる前の事でしょー? もう忘れちゃったらー?」
彼はもう三十五に手が届くくらいの歳だが、十五年前に別れた一人の女の子の事が頭から離れない。そのおかげで老いた母の面倒を一身に引き受け兄弟達を立派に家から送り出して街の人々との親睦も深い今になっても、未だ独り身である事だけが悩みだった。
「仕方ないじゃないか……一度好きになってしまったら、もうルト以外の人は身体が受け付けないんだから」
「もー、ルトの事になるとおじさんはそればっかりだなー。もう会えないんだって、いつも自分で言ってるのに何でそうなっちゃうのかわっかんないなー」
子供は彼の頭を手で掻き回してさっさといなくなってしまった。
彼は帰りの道すがら仕方なしに自分の身の振り方を考えてみたが、知り合いのどの人を思い浮かべても隣にいる自分の表情がぼやけていた。
(はあ……やっぱり僕はずっとこのままなのかな)
そこまでは、時々陥る日常の流れだった。だがこの日は違った。いつも通りに街で一番大きく最も質素な我が家に入ろうとした時、玄関口の前に心の中の娘が座り込んでいたのを見たのだ。その娘は彼に気付くと、無遠慮に顔を覗き込んで首を捻る。
「あっ、帰って来た! ん~……エイル、で合ってるよね? すごいな~、こんなに見た目変わるんだ。アルとかジュンかもとか思ったよ……あ、アルな訳ないかぁ」
「えっ、えっ……? ルト? どうしてここに……夢……じゃないよね?」
彼が現実を疑ったのも無理はない。十五年前に別れた人物が全く姿形を変える事なく、こうして自分の目の前に立っている、それも特に前触れもなしにごく自然に自分の家の前に。
「夢じゃないよ。あ……でもボクもさっきまですごく眠かったのに今全然平気だなぁ……やっぱり夢かもね? あ、ほっぺたつねってみると分かるって聞いた事あるよ? 気になるんならやってみるね……わ、今までもそうだったけどエイルもっとおっきくなったんだね~、もうちょっとで届かなくなっちゃうかも」
その子は考えこんだり面白そうに笑ったりくるくると表情を変えると、腕をいっぱいに伸ばして彼の頬を力いっぱい引っ張る。
「い、痛い痛い、そんなに強くなくていいってば。それに、僕はもう背は伸びないよ。もうとっくに大人なんだからさ。ええと……ルトも、やったほうがいい?」
目の前の彼女はとても楽しそうにしているが、頬を引っ張られながら変わらない彼女を前に苦笑いするエイルの崩れた顔を笑うのではなく、ただ頬をつねっている行為そのものを楽しんでいるだけのように見えた――いや、間違いなくそうだ。彼の知っている彼女はそういう人物なのだ。
彼がどうしたらいいか迷いながらおずおずと彼女の顔の前に両手を差し出すと、ルトはそれをううんいいよ、と小さな手を添えて下ろした。
「だって夢だってほんとだっていっしょじゃん。そうだあのね、ボクがここにきた理由だけどね……」
理由。その単語に彼は過剰に反応し、ルトの口を軽く塞いだ。抵抗しないが、せっかくだからと息で押し返してみようと頬を膨らませているのがおかしかった。手がくすぐったい。だんだん彼は困惑を払い除け、自分でも不思議なほど歓喜と勇気が込み上げてきたのを感じた。
「ごめん、できれば僕の用事を先に聞いてもらってもいいかな? できるだけ、人のいない所でさ……あ、母さんにも聞かれたくないんだよね、困ったな」
「ぷは、うんいいよ! それならボクの時代まで戻って聞くよ、ボクはそのために来たんだもん。いくよ~? でてこいLサイズ~さ、帰ろ~!」
彼女が一言呼びかけると、その足元に虚空から巨大なブーメランが現れる。その刃から漂ってくる水色の光子の束が、彼――エイルを包み込み、慣れない感覚に彼は面食らう。
「え、ちょっと!? うわっ……?」
エイルは軽い目眩のような感覚と共に、その場から消え失せた。その様子を遠くで見ていた通りすがりの人々は口々にこう言い合った。
「よかったなぁエイル、意中の女神様に選定してもらえて」
ルトが父であるシャルと再会を果たした日から、だいたい十四、五年前の日の事である。
「とうちゃく~」
「お、戻ってきた。心配したんだぞ、ちょっと見てみたい所があるからって勝手にどっか跳んじまうから」
「つか、場所の指定もできるよって言う前に飛び出したよね」
テオリアによると二つの得物は時球の塊になっているのでそれだけ磁力的な力も強く、安定したルートを引ける為位置情報も自在らしい。今までのは不安定だったのか、と寒気も覚えたが。
「ルト何やったの!? いきなり、草原に……向こうに見える町は、アレスタリアじゃあないよね……あ、お二人とも初めまして……」
ルトは見覚えのない男性を連れていた。自分と同じくらいの歳だろうか、全体的に質素な格好の、ほっそりとしたちょっと気弱そうだが人当りのよさそうな人物。灰色の髪が、よけいにそう思わせた。
「ルト? その人はナニさ? もしかしてお仲間のアテがあったの?」
しかし俺達ほんとにバトルもののストーリー追いかける事になるのな、とシャルが誰にともなく呟く。
「エイルだよ! 前に昔のアレスタリアに行ってた時、エイルと一緒にひどい王様をやっつけたんだ! でね、ボクに人の少ない所で用事があるって言ってて……」
「ふ~ん……?」
「あ、あの! いきなりでなんですけど、出来ればルトと二人にして頂けると……」
年甲斐もなく顔を真っ赤に紅潮させて意気込むその男性の様子に、さすがにシャルでもピンときた。
「なるほどな。でもそういう事なら尚更ルトだけにしておけない。絶対に茶化さないから、安心して下さいよ」
シャルは彼の心配する部分を瞬時に見抜き、口のあたりを押さえてみせた。それでも彼は幾度か迷ったが、すぐに覚悟を決めてルトの方に向き直る。
「ル、ルトっ! もし、キミさえよかったらだけど……僕と、婚約して欲しいんだ!」
彼は震える声で一気にそう言い、紅い顔を誤魔化すようにルトに大きく頭を下げた。
「こん、やく……?」
特に目立った反応を示さないルトはその態度を不思議がってしゃがみ込み、彼の顔を覗き込もうとする……と、逆に肩を押さえられ視線を突きつけられた。
「これだけ歳の差が開いてから言うのもおかしいけど、あの時からずっと、ずっと考えて。やっぱりキミ以外にいないんだ! 絶対に伝えておきたくて……そんな時にキミが目の前に現れたんだ、今度は逃したくない!」
「え、えぇっと……こん~……?」
ルトは視線を泳がすばかりでしどろもどろになっている。返答に迷っているのだろうか? それとも――。
「……まさか」
シャルは何だか凄く不穏な空気を感じて、即座にルトが森暮らしが長かった事に頭を回す。ルトにとってこの手の話は旅の宿やテントの中でルーズに吹き込まれた事が全てのはず。急いで耳をとって、助け舟を出してやる。
(お前もしかして婚約って何かすら分かってないんじゃないのか……?)
(う、うん~……さっぱり~……?)
(んーとだな……どう言ったもんかな……つまりあれだよ、「つがい」になろうって言ってるんだ。よく考えて答えてやれ)
「つがいかぁ! いいじゃない、どんどん作ろう!」
「え、えっ!?」
あっけらかんとしてそう言い放つルトに、エイルが困惑している。普通の人ならありえない発言だろう……。
「それには~、そうだ! まず交尾しなきゃはじまらな」
「こらこらちょっと待て!!」
(これも知らないだろ……教えといてやるからこれだけは絶対覚えとけ、人同士のつがいはたった一人だ! ほいほい作るもんじゃないの。いいか? あと子供はもっと後!)
(う、うん、分かった……)
そこからルトはじっくりと考えてみた。それこそ目の前で待たされるエイルと呼ばれた男性の肩に、シャルが気の毒そうに手を置くくらいまで。
(ん~、そういえばあんまり見た事無かったなぁ……。あ、でも一回だけ……)
ルトは以前ゼザの背から鳥の求愛行動を見た時の事を思い出す。
「あれ……どうしたのかな、あの鳥、朝からずっと向こうの鳥の所に飛んでってるけど。何もないまますぐいなくなっちゃうし……ねぇゼザぁ、分かる?」
「知らなかったか。あれは発情期の雄が雌に餌を運んでいる所だな……上手く行くのかな」
「それで何の意味があるの?」
「雌は単なる意地悪で無反応なのではなく、あれを何度繰り返せるかで雄の辛抱強さを試しているという事だ。あの程度で諦めるようでは、その先生きて子を守り残せんからな」
「へぇ~、そんなに後の事まで考えてるんだ……」
(うん、よし! その方がいいよね!)
「エイル、お返事!」
「あっうん、それでどう……?」
「こんやくしない!」
「おお、珍しいな……」
どちらにしてほしいという訳でもなかったのだが、シャルはルトが今まで何かを拒否するのを滅多に見ていなかっただけに驚きの色を示した。
「そんな……うん、やっぱりそうだよね、もうおじさんだしな、元々大した取り柄も……」
「わわっ、ちょっと待ってよ! それでね……!」
がっくり肩を落としたエイルをルトは慌てて諌める。そして続きを一気にまくしたてた。
「いいよって言うまで頑張ってくれたらいいよ! 何回も言ってくれて、もういいかなって思ったらちゃんとつがいになるからさ! ボク達と一緒に戦ってみようよ!」
「戦う……? よく話が掴めないけど、何だってやってみせるよ! 僕がどれだけ本気か、君に見せなくちゃ始まらないか」
エイルはルトから出された曖昧な条件に、このチャンスを逃すまいと強く拳を握った。彼女の手助けをしつつプロポーズを繰り返せばいいとは、承諾してもらえたも同然の答えだ。
「うん! 実はボクのほうもそのために行ったんだ、エイルなら一緒に来てくれるかもって。すっごく危ないけど、出来るとこまでやってみよ! そしたら、エイルもこれから家族かな。また一緒だね!」
全く事情の呑み込めないテオリアが、両脇から生やした狐のような尻尾で軽く拍手する真似をする。ルトがこちらの事情をうまく説明しきれていない点は不安だったが、その男性からは火の中にでも飛びこまんという決心が見て取れる。
「おー……よかったな二人共。特にルト、お前に男はなかなかできないと思ってたのに。しょうもない事でトラブル起こさないように気をつけろよ?」
「そ、そうだルト、この人は一体何なんだい? 随分君と仲良さそうだけど……」
エイルがシャルに訝しげな視線を向ける。歳が同じくらいな事もあって、恋敵だと疑われてはいないようであった。
「ふふ~ん、誰だと思う?」
「さぁ、俺はルトの何だと思う?」
ルトはシャルの背におぶさってみせ、二人でエイルに意地悪く笑いかける。
「え、えっ……? 今付き合ってるって訳でもなさそうだし……でもそれにしては打ち解け過ぎ……あっ……もしかして!?」
「うん! シャルだよ! ボクのお兄ちゃんで実はボクのお父さんだったんだ!」
「な、おと……す、すみません初対面なのに目の前でお見苦しい所を!?」
エイルは顔を真っ青にして何度も平謝りする。
「いやいや、いいんすよ寧ろ嬉しい限りで。それよりも……」
「ん? どったんお父さん~?」
横で欠伸しながら聞いていたテオリアが、シャルの言いかけた続きに興味を示す。
「「普通の」「まともな」人がやっと俺らのそばに来たぁ……!」
「あははは……シャルっちお父さんいつもツッコミ続きだったもんねぇ……」
エイルを加えて、テオリアが剣を再びふんだくって号令をかける。
「んじゃ、歪みの大きい所を適当に探しながら跳びまくるよ~」
「僕すごい所に来ちゃったかもですね……まさかこれからそんな旅を始める所だなんて……まあだからルトが来たんですけど、僕なんかに務まるんでしょうか……」
「各自忘れ物とかやっときたい事はないね~? バスが出る前に済ませちゃいなよ~?」
「うん、ある~!」
引率のちび先生にルトが手を挙げて答える。
「ま、まだ何かあるのかお前?」
「うん、シャルの忘れ物だよ! すぐ済むかなぁ~でも?」
「は? お、俺の?」
ルトがシャルの顔を指差して、もう片方の手で自分の頬に人差し指をあてる。
「そうだよ。ず~っとず~っと前からの忘れ物。たぶんだけどね」
彼が何かし忘れている事があったかと思案していると、ルトはとても嬉しそうに、とても優しく微笑んだ。




