居候
拾われてからもうじき一月になるが、ルトは文句のつけようもない頑張りを見せていた。
件の退屈なひとときをサボる事はなく、寝起きの場を与えられている者として、常に家事雑用を買って出た――もっとも、経験が皆無らしく何度も皿を割ったり床を水浸しにもしていたが。
暇さえあれば彼女は貰った小遣いで北側の屋台通りをうろついているので、段々と知り合いも増えてきたという。
何より、ちょうど通りを挟んだ向かいに住んでいるミミルが連日のようにルトに構ってくれたのが大きかった。
シャルは初めは家に上がらせるのが不安でならなかったが、ルトが次々と教えをせがむのでミミルは彼女にかかりきり。
その指導のおかげで二週間かそこらで基本的な家事はできるようになっていた。
「この順番でボウルに入れてね、その後こっちに用意した……」
今日はルトの要望でケーキの製法を伝授しているミミルは、もう自分の娘か何かにしたような態度でルトと接するようになっている。
「なんか……ありがとな。男二人じゃ教えるのも限界があるし。まさかあそこまで何も出来ないと思ってなかったからなぁ」
ルトは箱入りのお嬢様生活でもしていたのだろうか、パンって何からできてるの?と聞かれたかと思えば、洗濯はおろか風呂洗いすらおぼつかなかった。
だが、それも最初だけ。最近ではルトがあまりに甲斐甲斐しすぎて、こちらが生活を改めなければと感じるくらいである。出来るようになったそばから、やる事がどんどん取られていくのだ。
「ううん、これはあたしが勝手にやってる事だからいいのいいの。暇は持て余してるし、何よりシャルの助けになるんだもの!」
ミミルは誇らしげに胸を叩く、だが最後の一言をシャルは鬱陶しく感じた――いつも二言目にはとって付けるからだ。
すぐに次は次は~?と粉まみれになったルトが真っ白なボウルを抱えて手招きする。
「じゃあここに書いた通りにオーブン温めて……ほら、こんなに可愛いんだもの、いつかこんな子供が欲しい、な?」
「知らねえよ、なんなんだいつもいつも。そんなに俺がいいかよ」
頭一つ二つぶん下の彼女を撫で回して、彼女は意地悪く笑う。くだらない。感謝はしているが、うんざりしてきたシャルはその場を飛び出した。
おかげさまで自分の時間は沢山とれるので、今まで通りに趣味にでも費やそうかと思ったのである。
廃屋が立ち並ぶ居住区の北西隅、古びたあばら家の一つに入っていく。
「おいジラードさん! いるかー!」
「おぅ、最近はよく来るなシャル。部屋に閉じこもってばかりいたお前が、変わるもんだな。どうだ? もう大手を振って外を歩けてんのかい?」
「残念ながら、ちょっと家がいい意味で落ち着かなくなってきたせいかな。そんな事よりさ、今日は新しいのあるか? 今のも飽きちまってさ」
カウンターの中でふんぞり返ってナイフを研いでいた長身痩躯の中年はにやりと笑うと、手元に集中したまま家の奥を指差す。
「ついさっき、オマエの好きそうなのを仕上げたとこだぜ。本番でも大事に使えよ」
「お! もしかして……」
シャルは珍しく嬉しそうにぱっと笑みを浮かべ、奥へ駆け込んでいく。
「そう! これが欲しかったんだよありがとな!」
「気に入ったんなら何より、苦労した甲斐もあるってもんだ」
戻ってきたシャルが抱えていたのは……鞘に入った長剣。
ここはジラード――物好きなオヤジが趣味が高じて構えた、一つの鍛冶屋だ。簡単な酒場でもある。
街に来る賊を追い払うのに使われる武具は無条件で徴収され、事が済めば返却されるのであるが、これが鍬から包丁からヘルメットにまな板まで、ちょっと満足のいかないものも多いので真面目に戦おうとする者は彼のような存在に頼んで好みのモノをしつらえてもらう事もある。
そう、真面目に……客は両手で数えられるほどだという。
「ふっ! とっ! せあっ!」
店から少し離れて、オルタナ北北東端。人気のない郊外の砂地にテンポよく風を切る高い音が響き渡る。
古い住宅街の中に出来上がっていた、ジラードの家の屋根を越えなければ来れない広場で、シャルが先ほどの剣を振り回していた。
「これだよこれ、やっぱ剣は違うよな」
妙な動きをしても誰かに笑われる事もなく、熱中して汗が飛ぶのも気にならない閉塞したこの空間なら、自分の好きなように鍛錬ができる。
彼は別に目的があって強くなろうとしているとか、生物を斬り裂くのが楽しくなったとか、そういう理由で武器を振っているのではない。少年の頃から、単純に長物を振り回すのが好きなのだ。
しかし、多少攻撃的ではあるが普段から現実的で冷静、言い換えれば大人しすぎる子というイメージが浸透しているシャルにとってはこうやって無駄に剣を振って喜んでいるところを見られるのは恥であった。
ジラード以外の、誰にも知られる訳にはいかない。
「ただいま、もうミミルは……」
空が赤らんできた頃に自宅に戻ると、まずミミルがすっ飛んできてタックルに近い身の投げ出し方をしてくる。
汗で湿った服の不快さが密着すると倍増するので辞めて欲しい。
「シャルゥ~! おかえり~!」
「お前、まだいたのかよ! こっの、抱き付くな! それにここはいつからお前の住まいになったんだ、おかえり言うんじゃない!」
疲弊した体はストレスに敏感で、有無を言わさず全力で振りほどく。もうさっさと風呂場に逃げてしまう事にした。
いつもの小さな湯船に腰を落ち着けて、ようやく安堵の息をつく。
(ったく、困ったもんだ。こっちの話はいい方にばっかり受け取るし……)
ミミルは二年ほど前に道ばたで偶然会ってちょっと話してから、今日までずっとあの調子だ。曰く少しひねくれた一匹狼が大好きな奴らしく、排他的で傲慢なオルタナの人間とは違ったシャルの無愛想さがぴったり「来た」ようだ。
それ以来一方的な恋を押し付けてくる。はっきり言って迷惑でしかないのだが、そこは年頃の男の子、もったいなくて完全に拒絶はしたくないという思いもある。
「クソっ、好きでこんな性格してんじゃねえってのに……!」
シャルがミミルに冷たいのは、好みじゃないから等ではない。彼が嫌がっているのには決定的な理由が……と。不意にドタドタと誰かの足音が聞こえた。
(おいミミルの奴……いや流石にないだろうな? 常識はあったはず……)
「シャル~♪」
「は、ルト!? お前なぁ……!」
戸を開けたのがルトだという事を認識するが早いか、彼女は大きく水飛沫をあげて飛び込んで来る。
彼女も異性である訳だが、髪の所々に小麦粉やクリームのこびり付いた奴が乱入してきたら、誰だって顔をしかめるだろう。
「どこ行ってたの? ケーキ冷めちゃったよ?」
――冷まして食うもんなんだけど?
「いいだろ、俺がどこで何してようと。てかあんまくっつくな、普通こんな事しないだろ」
バサバサと広がった、金の入った狐色の長髪が湯船いっぱいに浮いているおかげで目のやり場に困るような事はなかったが、それでも無意識に身を引いて明後日の方角を向いてしまう。
「シャル、もしかして家にボクがいるの嫌かな……?」
ルトは祈るように両手を組んで、いきなり押しかけてきたから……と小声で続ける。
「ん……いや、別に」
「またそれ! ルーズとは普通に話してたのに、ボクには何にもはっきり言ってくれないよ」
ルトがじれったそうに口を尖らせる。流石に悪かったかな、などと呟いて、シャルは頭を掻く。
彼はルトに特別好き嫌いを感じてはいなかったが、ルトが来てからずっとどう接するべきか迷っている節があった。こいつには自分のどの面を見せようかと……本当の性格、オルタナでやっていくための性格、この子にはどちらをどれくらい出して接しようか。
初めて見る、群れずして人懐っこい飼い犬のような性格のルト。もう少し慣れてから決めたかった。
「心配すんな、まだそんな事思ってないよ。お前は平気そうだけど、急に家族が増えて円滑にやっていける方がおかしいだろ」
「そういうもん~?」
家族にはと思っていきなり心を開いても、きっと笑われるだろう。だがそれをしなければシャルにとって他人行儀なつきあいになる。ただでさえコミュニケーションの苦手なシャルには、今は突き放すしか出来ないでいた。
彼がその場で逡巡しているあいだに飽きたのかのぼせたのか、おもむろに立ち上がるルト。
「あ馬鹿っお前少しは隠すとか……!」
「ん? どうして?」
……本当にこれはどういう奴なのだろうか。顔色一つ変えずにそのままシャルのシャンプーをゆうに十回ぶんは使って、不慣れな手つきで腕を動かすのを見ているとなんだかこちらが恥ずかしがるのも馬鹿らしくなってきて、彼は呆然とルトを眺める。
「なんかお前さ、細っこくね? その、至る所が」
「ルーズとは大違いだよね~」
――あっちにも乱入したのかよ。
ルトは女性として見なくても、少し心配になるくらい華奢な体つきをしていた。肋骨がぎりぎり分からぬ程度に皮下脂肪がついただけの胸、少々へこんだ腹、鷲掴みにできそうな細い二の腕……。
「食べれない時は食べれなかったからかなぁ?」
「……?」
「あー!! ルトってば大胆なんだから~!」
「コイツ……! 何をさも当然のようにタオル持って待ち構えてやがる!」
シャルは黄色い声をあげるミミルに思わず手を上げそうになった。実は自分を怒らせたり困らせるのが楽しくてやっているのでなかろうか。
「二人とも羨ましい~! あたしも――」
「そこは断固拒否! 色々ヤバくなるから!」
「しょうがないなぁ……じゃあルト、明日は一緒に――」
「ヤ」
即決。シャルとしてはそっちで組んでくれれば平和でよかったが、ルトは首を横に振った。
「え、なんでよ!」
「なんとなく」
それ以降も、何故かルトは入浴にミミルの同伴を許す事は絶対になかった。