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不思議の森のルト 前

「いいな、あまり深追いすると怪我では済まんぞ」

「う、うん……」

 その日はゼザも付き添って狩りをしてみた。森の中を知り尽くしたゼザの言う通りにどこに流れているかも分からない小川の傍らで茂みに身を潜めていると、その近くに営巣しているというイノシシの子が顔を出した。少し怯えながらも普段通りに水を求めて川に近づくそれが、おぼつかない手で苦労して幾つも結んだ草紐に躓いた。

(行けっ!)

 足の痛くなるまで見張り続けたのだ、そこを逃すまいとルトは手近な木の棒を手に飛び掛かった。なんだかその一瞬が最高に楽しかった。これからが大事だと分かってはいるけれど、教えてもらった事を自分でやってその結果が出たのが嬉しい。ちょっと、大人になった気分になれた。

「ええいっ……や!」

 上手く当たった! 弱った所を今度は両手で押さえつける。だが、イノシシは子供だというのに想像していたよりずっと激しく暴れて、ルトの手を振りほどいてしまった。友達との取っ組み合いからルトが思っていたほど、動物は弱くはなかったのだ。一目散に逃げていくイノシシを何とか捕まえようと繰り返し跳び付くが、触れてはいるのにもう少しの所で躱されてしまう。最後には茂みの奥へ逃げ込まれてしまった。

「ああー、惜しい~……!」

 葉っぱの隙間から自分の倍は大きな親の姿が見える。自分にも分かる、引き際だ。

「うぅ~……」

 ルトはその場に座り込んで、ちょっとしょげてしまう。

(もうちょっとだったのになぁ……!)

「泣くでないぞ、泣いた所で腹は膨らまぬ」

 ゼザが自分のそばに顔を近づけて、一旦帰るぞ、と牙で背中を押してくる。寄り掛かるように立って歩き出すと、自分が少しだけ涙ぐんでいるのに気付いた。悔し涙なんていつ以来だろうか? 不思議と泣いた時の頭が重くなる感覚は無いものだ。

「簡単に泣くのは人間をおいて他に無い。悪い事とは言わぬが、我は涙で情は動かさぬ」

「ん~……悔しい、でもそれよりもっと、楽しかった! ボク、きっと一人前になる!」

「ふははは、子供にしては中々良い口を聞くな。まずは、森を少しでも知る事だ。無駄な事など無い、やれる事は何でもやってみろ。全てがお前の力になる」

 こんな絵に描いたような野生児生活をルトは苦しく思いこそすれ嫌だとは思わなかった。もし友達に話せばきっと命がけでレジャーすんなよと笑われるだろうが、自分の心の奥深くで歓喜の声が聞こえる。

 やはり一生この森でゼザと一緒に暮らしてもいいかも知れないと、その夜星を見ながら思った。リアは行方不明になってそのままなんだ、ここにいるのはただのルト・セレスなんだ、と。


 ルトはやがて水と木の実くらいは自分で確保できるようになったが、ふと自分のいた家程も大きいゼザの事が気になった。

「ねえ、ゼザはどこで水飲んでるの? すっごく沢山無いと足りないよね?」

「そうだな、それくらいは共有しても問題なかろう、乗れ」

 乗れというより、咥えて背に投げ上げられて毛皮にしがみ付くルト。さらっとした、それでいてフワフワの毛に埋もれるととても暖かく気持ちがいい。いつもこれのおかげでよく眠れている。

 すぐにゼザが走り出すと、気を抜けば吹き飛ばされそうな風が襲ってきて景色が目まぐるしく流れていく。大樹の裏へ回り込み、その先の森へ飛び込む……ゼザはその巨躯にも関わらず、鬱蒼と茂る木々に少しもぶつからずに轟々と風を切って駆け抜ける。瞬く間に視界が開けた。

「うわぁ~、すごいや、全然気付かなかった!」

 そう大した距離でもないのに今まで何故見つからなかったのだろうか、そこには向こう岸が見えない程の大きな湖が広がっていた。浅瀬には背の高い水草が生え揃い、水の中を覗けば無数の小魚が群れをなして泳いでいる。

 自分達だけでなくオオカミや熊、ワニにサイまでがここでは争う事なく羽を伸ばしている……自分が知らなかっただけでこの森にはあらゆる動物がいたのだ、それこそ普通の森にはいないはずのものまで。山中でもないのに鷹まで水浴みに来ているのがちらと見える。

(本当に不思議な森だなぁ……!)

 住むとなるとただ時間を流すだけでも大変な努力が要るし、ゼザも話し相手にこそなれ本気で死にかけた時にしか助けてはくれないが、こんな風に自然の空気に触れているだけで楽しく、何も知らなかった大きな世界は毎日が発見の連続だ。

 それに、何の気兼ねもなく自分を出せて、自分の事は自分で、というのをまだまだ下手だがやらせて貰えるのが子供心に嬉しかった。要するに生きた心地のする場所なのだ。両親や友達と離れたのはもちろん寂しいが、今はこの地で苦労と引き換えに手に入る爽快な感覚に憑りつかれていた。

「そうだな、人間は特に定期的に水浴びをした方がいいのであったか。今まであまり気にしていなかったがルト、ずいぶん泥にまみれているぞ……何も言わぬので自力で似た場所を見付けたのかと思っていたわ」

「あはは……汚れなんて気にするヒマもなかったからなぁ。今までは壁とかベッドとか汚しちゃうのが気になっていつもキレイにしてたんだけど、もうそんな事もないからね」

 ルトはざぶざぶと湖に入っていく。とても、綺麗な水だ。分け入るにつれどんどん深くなるのだがいつまでも底がくっきり見えている。いや、岩の隙間の小魚の模様すら水面から判別出来る。それを見ると、体が勝手に水に潜っていた。

(わあ……!)

 ほのかに冷たくて心地いい。澄んだ水の中では眼を開けても全く痛みを感じなかった。大小様々な魚達に囲まれて泳ぎ、深い所まで行くと耳がキンとする。やがて底まで行けずに息が続かなくなり、慌てて水面から顔を出す。町にいては絶対に出来ない体験だ。

「分かったゼザ! これ、幸せって言うんだ!」

 それからルトは時間に余裕が出来る度にこの湖まで走ってきて、水の中を漂うのを楽しんだ。服など、とうに破れてしまっていた。


「ええい愚か者、何故これほど幼稚な問題が解けぬのだ!?」

 ある日の夕刻――と言ってもこの大樹の広場はいつでも陽が差し込んできて暖かな明るさに包まれているだが――ルトは巣の前で一冊の本と格闘していた。

「うえぇ、だって何でこんな答えになるか……」

 勉強は嫌いだ。出来ない、というより、何故そうなるのかを納得したいのに解法は覚えるしかない事が多くて嫌になる。

「我の話す言葉を全て理解しているかも怪しいなこれでは……」

 昨日の事、ゼザに頼んで森の外まで乗せていって貰ったのだが――。

「よし、抜けたぞ。さっさと行って来い。我は動くのを嫌うが待つのは更に嫌う」

「はぁい。いつもごめんね」

「構わん……それだけの面白みは提供して貰っているからな。それにそう思うなら、すぐにでも走って行けばよかろう?」

 ルト・セレスになった今でも、やはり町に行かないとどうしようも無い事もある。ルトは町まで一息に駆け抜けてしまうと、屋根の上までひょいひょいと上がって目当ての所まで跳び渡っていく。

 最初は知り合いにリアとして怖がられても無視するつもりで道を歩いたのだが、何しろ親に家を追い出された子がひょっこり顔を出した上に、髪は伸び放題で服もろくに着ていなかったのであらゆる人が色んな意味で集まってきてしまった……それ以来こうしている。樹の枝に楽に上がる為のジャンプに比べれば造作もない。

「おばあちゃ~ん、いる~?」

 ルトは住宅街のとある一角で止まり、二階の窓を叩く。

「はいよ、ルトちゃん。そろそろかと思ってたからねえ、今日はどんなお話が聞けるのかと楽しみだったんだよ」

 そこからは皺だらけで腰の曲がった、昔話に出てくるような優しそうな人がいつものように顔を出す。事実いい人で、始めそうして人に囲まれた時に匿ってくれた女性だ。人当りの良い雰囲気を醸し出し、ルトも人を疑う事をしない上困っていた所を助けて貰って、ゼザは人間という設定で色々と話をした。ちゃんと約束は守る。

 彼女は揺り椅子に腰かけたまま、ルトの言う事を楽しそうに聞き入れては目を閉じて想像を膨らませていた。話の内容のせいもあるが、ルトはこれまで人に話を聞いてもらうのがその時程楽しいものだと思っていなかった。そのお婆さんは何でも抵抗なく飲み込んでくれたし、上手く言葉に出来ずにしどろもどろになってもちゃんと笑って待ってくれる。父親の所に戻るべきではないかと無理に勧めてくる事もなかった。ただただ自分の話を楽しんでくれるのだ。

 その日もそれまであった事を覚えている限り話した。喋り疲れて喉が乾燥する感覚が、例えようもなく爽快だった。

「今日もありがとう、面白かったわぁ」

「ん~ん、ボクも面白いからさ。それじゃあ今日は……」

「あっ、ちょっと待ってルトちゃん。頼まれた物、忘れてるわよ。持って帰らないと明日から困っちゃうでしょう?」

 そうだ。目的を忘れる所だった。ルトは慌てて戻り、大きなバスケットを受け取った。中身は簡単な石鹸やらトイレットペーパーやら、歯磨き粉等の最低限必要な消耗品。話を聞かせるお礼にと、買い集めておいてくれるのだ。

 更に、いつも入りきるだけの日持ちする料理を入れてくれている。「さすがにそこまでしなくてもいいのに……」と言っても、「子供が遠慮しちゃだめよ、あなたぐらいの子に何かしてあげるのがお婆ちゃんは一番楽しいんだから」と言われるのがいつもの事、もちろん今日も同様だった。

 しかし、服だけは断固として断った。どうせすぐにボロボロにしてしまうし、見る目のない自分にはどれだけ値が張ったか分からないから彼女が無理しても気付けない。第一、自分で店に行けるようになったらここに来る口実が無くなってしまうではないか。

「ルトちゃん、もしうちに来られなくなっても、私の事は気にしなくていいのよ。便りがないのはいい便りって言うし、きっと、もっといい所で元気にやってると思えるから」

「うん、ありが……んっ? これは……?」

 底の方に、何冊か薄い本が入っている。一冊取り上げてみると、「やさしい算数」と書いてある……。

「もしも普通の女の子に戻る事があったら、それくらいはやっておかないといけないでしょう? 頑張ってみてね、成果を楽しみにしてるから」

 さすがにこう言われては、断る訳にもいかないだろう。だから、時々ゼザに見て貰って取り組んではいるのだが、リアの頃から何かを覚えるのはてんでダメなのであった。

「お前がここまで無学だったとは思わんかったわ! 毎日進めてそやつに早く次を買って貰え!」

「やさしくない! やさしくないよ~っ!」


「ルト。お前も大分この森に溶け込んで来たな、あとは狩りさえ出来るようになればいいのだが」

「そうだね~まだゼザのを分けてもらってるんだよねボク~……」

 今日は自分で釣って来た川魚とゼザの獲った犬の肉で腹を満たし、いつの間にか一通りの事はこなせるようになってきた自分に二人ともしみじみとしながら巣――ゼザの普段いる大樹の洞に戻っていく。

 慣れとは怖いものだ。もう食べ物を焼く火も簡単に起こせるようになったし、木々を次々と飛び移って果物も集めて来れる。もう持ってきた図鑑も要らなくなってしまったし、ここだけの話森の中で用を足すのに何の躊躇もなくなった(もちろんそのあたりの常識が抜け落ちた訳ではないが)。

「髪も伸びてきたな、最初会った時とは別人のようだぞ。もう威嚇にも使えているのではないか、それは?」

 前は時々ゼザの鋭い爪で切り裂いて貰っているが、ルトの髪は引き摺る程の立派な長さになっていて、服が無くとも寒さに困る事はもうあまりなかった。まだ一年も経っていないというのに異常なスピードで伸びていく髪を始めは少々不気味に思ったものだが、その恩恵は計り知れないものだった。

「あははは、そうかなあ? こんな風にばさばさしてるのは町ではだーれもいなかったけど、すっごく気に入っちゃった。触るとゼザの毛皮と似た感じでさ、温かぁい」

「む、我の毛皮はもう少し流麗でだな、そんなすぐに絡まるような髪とは格が違うわ。毎日触れて分かっておらんのか。ほれ、もっと良く見てみよ」

「ん~! ボクだって見た目ほどメチャクチャな毛じゃないよ~!? ほら……ぁいづづづづっ……!」

「フ、わははははっ。そう簡単にこの毛並は手に入らぬわ小娘」

 ちょっと手で梳いてみせて、ひどい枝毛が絡んで何本か抜け落ち涙目になるルト。それを見てゼザはまた笑い出す。

 最近、ゼザはよく笑うようになった。そろそろ自分も単なる興味からそばにおいてくれているペットではなく、自分の子供みたいに思ってもらえていると言う事だろうか。


「この森だな? リアが向かったのは」

「うん、速すぎて追い付けなかったけど方向は間違ってないはずだよ」

「やめようよイクト~、ここ怖いよ、こんなにおっきな森じゃなかったじゃないのよ」

 リアが姿を見せなくなってからもう季節が一周したかの春、ある日一人の子が町を出て走っていくリアの後ろ姿を遠目に見ていた。

「いいじゃねえか、冒険の匂いがするぜここ!」

「リアちゃんも人が悪いよね~、こんな所秘密にしてたなんてさ~」

「……イクト達、妙に張り切ってる……理由は森だけじゃない筈」

「だってよ、もしリアがここにいてばったり会えたら……!」

「「裸が見られるかも知れないもんな~っ!」」

「う~わ、男子って……アタシ冷めちゃったわ、ばからしい」

「……ここまで堂々としてると、むしろ清々しいね……」

「何だよ、別にリアを見たって何ともねーよ! ちょっと、そう、からかってやるだけだっての!」

「何にせよずいぶん久しぶりだもの、会えるなら会ってみたいわ~」

「で、でもさ、怒って蹴られたりしたら……」

「まだそんな事気にしてんのかよ? リアはそんな暴力女じゃなかっただろ、アスミと違って~」

「何ですってぇ! イクトそこに座んなさい、そのひん曲がった根性叩き直してやるから!」

「……なんでこのメンバー、あの時逃げたんだろうね……」

 しかし、どこまで歩いてもリアは見つからない。いや、森の反対側すら見えない。それでもこんな小さな森いつか抜けるだろうと思って歩き続けたが、似たような風景が延々と続くばかりで、やがて夜を迎えてしまった。

「ね~イクト~もう帰ろうよぉ~」

「オレだって帰りてぇよ、でもどっちにいけば早く出られるかさ……!」

「……いわゆる、遭難」

「うはぁ~マジかよ、こんなちっこい森で~?」

「アンタらが邪念ばっか持ってるから罰が当たったんじゃないの~?」

「ん……ちょっと待ってみんな」

「「どうしたどうした?」」

「なんかこう……気配がしない? 誰かに見られてるみたいなさ」

「お、おおおい、やな事言うなよ、俺はそんなん信じてねぇからな……!」

「……いや、もっと酷い、かも……」

 七、八人の男女は一か所に集まって神経を集中させた。今まで動物らしい動物は見かけなかったが、それは自分達がうるさくしていたせいだけではなかったのかも知れない。互いの顔も満足に見えない闇の中で、小さく息遣いが聞こえる。

 一匹……二匹……十匹……? いや、そんなものではない、囲まれている!

「「うわあああぁぁぁっ!!」」

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