戻らない訳
まだ希薄な意識の中で、慣れない木の床の感触からシャルは自分がどこにいるのかだんだんと思い出す。そうだ、僕はハウルのところにやってきてそのまま力尽きたんだっけ。床に横になっていたからか凝り固まった腕をかばいながら、焦って体を起こす。
「お、お目覚めか」
幸いそこまで時間は経っていないのか、大判振る舞いされたお菓子をあらかた片付けた二人がまだ和やかに世間話をしていた。
「悪い悪い、せっかく来たばかりだったのに」
「いいってことよ、そのおかげでルトちゃんと二人っきりで楽しかったぜ~」
「はぁ、そいつはよかったことで。そうだ、ルーズを待たせてるからこんなゆっくりもしてられないんだった」
にやりと笑うハウルに適当に返すと、急いでルトの手首をとって立たせようとする。しかし彼女は動こうとはせず、代わりにそのお腹がゴロゴロと鳴った。
「ぐぎぎ……ちょ、ちょっとまって。だめぇ……トイレ貸して……」
「やれやれ一人であんなに食べるから。いいよ、外にあるから行ってきな」
よろめきながら壁を伝ってゆっくり歩いていくルト。いつもああなのか? と尋ねるハウルに頷き返してついつい額に手を当てる。
ルトは食べ物にかなり執着している。我が家で暮らしている時も、出されたものは出されただけどれだけ時間がかかっても平らげた。好き嫌いがないのはいいじゃないかと父は言っていたが、行儀はかなり悪くてよくテーブルが食べかすまみれになったものである。しかし人の皿からは絶対に取らず、食の細いシャルが何か残さないかと隣で待ち構えているのがいつもの光景だった。
「ありゃしばらくは出てこないな」
「お前ももう少し食ってけよ。寝る前もあの子にほとんど分けてあげてただろ。その間に俺が探して声掛けといてやるから」
「ああ、頼む……あの子?」
「いやあルト、だっけ? あの子けっこうかわいいよな。子供らしく素直でさ。ああいう妹って少し羨ましいぜ」
彼女は人によく好印象を与える、と思う。自分が睡眠時間を取り戻している間に、確かに二人は目に見えて仲良くなっていた。
「少し頭が弱いだけだよ。妙に明るいのは何か訳があるかも知れないがな……ああそれから、よくある勘違いをお前もしてるみたいだから一応。あいつは十五だ。俺の一つ下」
「えぇ? どんな育ち方したらあんなに幼くなるんだよ?」
ルーズが村の隅で見つけたのは、台座に四角い石板を突き刺しただけの簡素な作りの墓標だった。少し寂しげなそれに拙い字で名前が彫ってあるのを見つけて、指で追いかけていく。
「R、E、C……もしかしてこれが」
「リコリス。長い間一緒なら知ってるだろ? あいつの母親さ」
振り向くとシャル達と話しこんでいるはずのハウルがすぐ後ろの壁にもたれかかって座っていた。
「あれ、もうお話は済んだんですか?」
「ああ、ちょっと顔を合わせたかっただけだしな。こんな村寄るところは限られてるしさっさと切り上げた。そしたらお連れさんが腹壊してよー。俺が代わりに呼びに来た」
「はあ、なんかすいません、あの娘いつもああで……家でも粗相をしませんでした?」
「そんな事ねえぞ、楽しかったよ」
「そっか。ところでこのお墓、なんでこんな所に? 普通もっと開けた場所に沢山あるものじゃないの?」
墓地にはふさわしくない、住居の間を縫って進まなければ近付けない路地裏。そこにぽつんと佇むたった一つの墓石は、誰かさんのように孤独感に溢れていた。
「それはな、そいつが出来た少し後に墓地を別の場所に移したんだ。ちょうど真南だな。墓が増えてきて邪魔だって苦情が親父にきて――そのころあいつは余程きつかったんだろう、毎日毎日暇さえあればここに来てそいつにしがみ付いてすすり泣いてた――いちいち村はずれまで通わなくちゃいけなくなるのが不憫で仕方無くてな、無理言って残してもらったんだ」
「あのシャルがねえ……今の姿からは想像出来ないけどなあ」
「ま、一ヶ月もしたらあんたの所に行っちまったけどな。その頃には落ち着いてて親がどうしたって泣いたりはしなかっただろ?」
「ええ、むしろ母親の事は何も言わなかった」
「はは、そうだろなあ。付き合い始めでそんな情けない事教えちまったら、今頃あんなクールでいられないもんな」
ハウルは自分で言って、いたずらっぽく高笑いする。こちらの気持ちを考えて、わざわざ明るくさせようとしてくれているのだろうか。ルーズは彼の方に向き直ると、昔から抱いていた疑問を投げかけてみた。
「あの、シャルはこの村に戻ってくる事はできないの?」
彼の笑みが、ぴたりと止まった。
「あんた、あいつと仲良くしてくれてんだろ? あんたはきっと今いくらも友人がいて家もあって、あの街で楽しくやってんだろう?」
少し考えてから、頷く。シャルと一緒にいると街の汚い所ばかりが目立って、それが耐えられないものとはいえ、やはり自分にとっては育った街だ。
「あいつ昔っからよー、なるべくなるべく人に迷惑がかからないようにって一度は考えちまうフシがあるんだよね。悪戯に誘い出すのも一苦労。それに一度気に入った人にはとことん懐くんだ、おおかたあんたや親父さんの事一番に考えて我慢しちまってるんじゃないのかね」
ルーズは急に胸が苦しくなって、一つ強く歯軋りをする。彼の言う事は確かに当たっていた。彼は一時期自分に依存性のように頼ってくる時期があったし、現在の無難な性格も周囲に何かにつけて否定された結果行き場を見失って自分の殻に閉じこもってしまったようなものだ。ルーズは抑圧され続けた彼がいつか破裂するのではと不安でならなかった。
去り際、手を合わせるだけで行ってしまうのは憚られたので、挨拶と礼も込めて、安物ながら髪飾りを一つ残していく。なんだか彼とそのお墓に対して非常に申し訳ない気持ちになってしまって、気が付けばそうしていた。無論、シャルに昔貰った花形の髪留めとは別の物だ。
(こんな物くらいしかないですけど……「こっち」は、もう一生外すつもりありませんから、安心して下さい……)
――バタバタバタ、バンッ。
よたよたと歩いて行った帰りは打って変わって騒がしい。ルトは子供のように廊下を走り、シャルの所に戻ってくる。
「ごめん! 遅くなって……あれ? ハウルは?」
「お前が残ったから親切で呼んで来てくれてるとこだよ、ほらちょっと落ち着いてろ」
そして何度目か、続きの菓子を盗み取ろうとする奴の手をはたき落としているうちにふらりと戻ってきたハウルから声がかかる。
「お待ち。村の入り口で待ってるそうだ」
「わかった。悪いな、手間かけて。今度来るときは二人でちゃんと話そうか。あールト、お前は先に行っててくれ」
「おう、お前も腹壊したか?」
「アホか。大した事じゃない……ちょっと手を合わせにだけな」
「あ~! きたきた! シャ~ル!」
「おいおい、そんなに喜ぶ程待たせてないだろ?」
急いで待ち合わせ場所に行けば、大した時間は経っていないにも関わらずルトは諸手をあげての大喜びをした。
「……何も聞かないよ」
神妙な顔で立ち尽くしていたルーズは文句一つ言わず、めざとく彼の目に泣き跡を見つけるとルトに気付かれないように拭った。
「ルーズ、ありがとな」




