人狼狩り
人狼狩り
村外れの教会はかなり荒れていた。
戦に備えた、石造りの堅固な外壁に這うシダ植物も枯れ果て、最早白くなった
血管のような茎を残すのみとなっている。
窓は閉めきられ、割れ、カビていた。中を覗くと、すでに辺りに満ちている夜
闇よりも尚暗い。しかもそのほとんどは内側から板で塞がれている。
元は畑だったであろう周囲に広がる土地も、どうやらずいぶんと長い間、手入
れどころか足を踏み入れる者すらいなかったようだ。見上げる程に背の高い雑草
が一面に生えている。
その中を走る、教会の門から伸びた、獣のもののような小道に数人の男たちが
たむろしていた。
どうやら彼らはこの近くの村の人間のようで、話す言葉には独特の訛りがある。
ランタンを引っ提げてしきりに辺りを気にする彼らの腰には斧、背には槍が見
てとれた。
どこかで野犬の遠吠え……
不意に誰かが気付き、言った。
「いらっしゃったぞ。」
男たちは一つのところに集まり、小道の村の方へと延びる方に顔を向ける。
蹄の音が走ってきていた。
「お一人でしょうか?」
若い男が近くの中年の男に訊く。
答えは返らなかった。
突然目の前の背の高い雑草たちが割れ、向こうから何か大きな生き物が飛び出
してきた。
男たちは驚いて飛び退く。彼らの真ん中に、嘶きと共に着地したそれは立派な馬だった。
「すまない、暗くて良く見えなかった。」
馬上には男がいた。
武骨な鎧を着込んだ、初老の騎士だった。
「おお、フロウナム様。」
中年の男がランタンを掲げて、安心したような声を出す。
フロウナムは頷き、馬から降りた。
「すまない、遅れた。」
彼は兜を脱ぎ、その長めの銀髪を露にする。北方民族特有のそれは月光に妖し
く輝いていた。
「雑務に追われてな。」
「いいえ、来てくださっただけでも。」
男は首を降った。
フロウナムは軽く返事を返し、荒れた教会を見上げる。
小さな鐘楼が月を背負っていた。
「ここか、キース村長。」
「はい。」
中年の男が頷く。キース村長はランタンを教会に向けて掲げた。
「人狼が住み着いたのはここでございます、元は教会でしたが、私が子供の頃に
神父が変死して、それから誰も近づかなくなりました。」
「変死?」
「気でもふれたのか、己の体を調理して食べていたらしいです、神父さまの死体
の片腕は見事に骨だけが残っていたそうで。」
「不気味な話だ。」
「そんな曰く付きの場所ですから、人狼が住み着いたのも無理は無いのかも知れ
ませんで。」
村長は頭をかく。
フロウナムは腰の手斧を撫でた。
フロウナムは有名な戦士だった。
先の帝国と北方民族との戦争で、初めは北方民族側で参戦したフロウナムは、
戦争中期に配下の百人の部下と共に帝国側に寝返り、そして見事、当時帝国を苦
しめていたかのブレイズ将軍を討ち取った。
そしてその功績を認められ、ついに敵対していた国の武将でありながら、皇帝
から領地と爵位を与えられたのだった。
そんな彼には敵も多い。しかしフロウナム自身の人格が非常に優れていたのと、
厚い領民からの支持、強力な百人の部下、皇帝からの信頼のおかげで、彼の敵―
―例えば、何かにつけて嫌味を言ってくるあの保守派の大臣ども――は手を出せ
ないでいるのだった。
この教会は、そんな彼の領地の端にあった。
人狼が出たという報せをうけて、フロウナムは速や
かに数人の部下を派遣した。しかし、帰ってきたのは一人“分”だけだった。
フロウナムは激怒した。
彼は北方に居た頃に、既に二人の人狼を仕留めていたので、彼らを相手にする
のには自信があった。
だからわざわざ部下は連れず、たった一人で復讐に臨むことにしたのだ。
フロウナムは目を閉じ、鼻をひくつかせる。
「……確かに、獣の臭いがするな。」
「へぇ、わかるのですか。」
「故郷では狩猟で生活していたからな。」
フロウナムはかがみこみ、ブーツの紐を締め直す。
革の手袋もはめなおし、帷子の調子を確認する。前髪を後ろに向け、兜に挟む。
手斧を掲げ、月光に晒す。
「灯りはどうなさるおつもりで?」
村長が訊く。
「蝋燭を立てて回るさ、少々危ないがな。」
マントを持ち上げ、ベルトに挟んだ数本の太い蝋燭を見せつける。
「よし……では、行ってくる。」
「どうかご無事で。」
「村長たちも、いざというときはお願いする。」
その言葉を聞いて、村長は口を真一文字に結んだ。
人狼は火に巻かれた位では死なないが、根城を奪うことは出来るだろう。
そうならないようにはするが。
フロウナムは息を吐き、歩き始めた。
草の下に隠れた石畳をたどって、建物の入り口に立つ。
後ろを一瞥すると、村長たちの灯りは意外と小さく見えた。
予め斧を片手に持つ。
扉は軽く押しただけで開いた。
入り口から生臭い空気が這い出る。
埃の臭いと、野性動物の汚ならしいそれ。加えて戦場で嗅ぎ慣れた臭い。
兜の面頬を下ろした。が、視界が狭くなるのですぐ止めた。
斧を突き出してまず辺りに何も居ないことを確かめ、建物の中に入る。
服でマッチを擦り、入口の側の机の上に蝋燭を置いて火を点けた。
闇が濃い分、少し明るくなるだけで大分見通しがよくなる。窓を打ち付けたの
は人狼だろうか。
新たに一本蝋燭を取り出し、先程立てた蝋燭から火を移し、前に突き出す。
片手に蝋燭、片手に斧を携えてフロウナムは歩を進めていく。
歩く速度はゆっくり。物陰から相手が飛び出してくる場合も警戒する。
自分の呼吸が妙にうるさい。
礼拝堂は、地方の教会にしては大きめだった。
縦に並んだ数組の長椅子の間を進んでいき、説教台のところまで辿り着く。
その台の上に蝋燭を立てると、この教会に祀られた神の石像が照らされた。
その美しくも威厳に満ちた表情をたたえた顔の上を何かが走る。
鼠だった。
「そんなものか。」
つい口をついて出た。
石像から目を離し、ぐるりと辺りを見渡す。
暗い礼拝堂には何も潜んではいないようだった。
だが妙に臭い。
吐き気をもよおすこれは糞尿の臭いだ。糞尿の臭いが礼拝堂には漂っている。
恐らくこの礼拝堂のどこかに人狼が厠に定めた場所があるのだろう。姿は人間
に似ていても、所詮は獣だ。
舌打ちをして視線を横へ。
そこには扉があった。恐らく神父が住んでいた部屋へ続くものだろう。
フロウナムは扉に近づく。
警戒しつつ素早く開けると、狭い廊下に出た。続く扉は少し進んだ左右の壁に
一つずつあり、突き当たりの小さな窓は他のと同様に板で打ち付けられている。
突然彼は足を止めた。
満ちた静寂の中に、自分以外の物音がする。
それは大きな生き物が床を転がるような音で、爪らしき固いものが床にぶつか
る音もする。
左の部屋には何かが居る。
いよいよか。
フロウナムは唇を舐めた。
壁を背にして廊下を進む。
扉の前に立つと、その物音は止んだ。
……数秒の沈黙。
フロウナムの足がはねあがり、力強く扉を蹴った。
蝶番は腐った木枠を引きちぎって弾ける。
それはフロウナムの脇腹に引き付けるように構えられた斧に当たった。
フロウナムの踏み込みは素早かった。
目はもうすっかり暗闇に慣れていたし、狩猟生活で培った鼻と勘で相手がどう
動こうがついていく自身はあった。
力をこめられた斧は、まともに当たったなら腕の一本は切断できるだろうし、
もしかすっただけでも皮膚を剥がし、自由に動くのには厄介な傷を相手に与える
だろう。
一撃でも与えればこちらの勝ち――それがフロウナムの考えだった。
だがフロウナムは足を止めた。
部屋には人狼は居なかったのだ。
フロウナムの目の前の床には、足の腱を切られて出血している一頭の狼が倒れ
ていた。
フロウナムは人狼に騙されたのかと思い、斧を周りに振るって牽制しつつ、素
早く視線を巡らせる。
違和感に気づいた。
入ってきた入口の方が妙に明るい。
フロウナムは悟った。
慌てて入口に駆け寄る。熱風!
狭い廊下は炎に覆われていた。
その明るさに目を細めながらマントで口元を覆い、さっきの狼の死体に目をや
る。
俺は嵌められたのだ。人狼ではなく、人間に。
今回の人狼騒ぎは俺をこの教会におびき寄せるための罠で、本当は人狼なんか
居ないのだ。
短時間でここまで火が大きくなったのは、予め床や壁に油か何かを撒いておい
たからだろう。きつい糞尿と獣の臭いはそれを誤魔化すためだったのだ。
クソッ!迂闊に過ぎる!
煙を吸い込まないように腰を曲げながら逃げ道を探す。後方の、廊下の突き当
たりの窓では小さすぎて逃げ出すことは出来ないだろう。
さっきの部屋は?
廊下から中を覗くと、部屋の窓は全て打ち付けられているようだった。だが、
あの程度なら……
炎に背を向け、フロウナムは窓辺に駆け寄った。
打ち付けられた板は、手だけではビクともしない。
フロウナムは斧を振るう。
板が打ち割られ、木片が飛んだ。
これなら出られるだけの穴を広げられる――そう思った瞬間、窓の向こうから、
板の間に空いた小さな隙間を通って細長い何かが飛び出してきた。
反射的に後ろに飛び退く。
炎の明かりに照らされ、不吉な姿をさらしたそれは槍だった。窓の向こうから
槍が飛び出してきたのだ。
「貴様らぁ!」
フロウナムは吠えた。部屋の中に溜まり始めた煙を少量吸い込み、咳き込む。
「ざまあみろ!北の野蛮人め!」
槍が引っ込み、穴から顔が覗く。
村長はとても嬉しそうに目を細めていた。
「貴様らなんぞに支配されてたまるか!劣っている貴様らなんぞに!」
「誰の命令だ!」
「貴様は邪魔なんだよ!」
「殺してやる!」
煙が器官に入る。
再び咳き込み、床に手をついた。
「はは、は、なんてザマだよ!」
村長の裏返り気味の笑い声が響く。
炎は既に部屋に広がり、フロウナムのすぐそばにまで迫っていた。
フロウナムはマントで口元を押さえる。が、その端に火が燃え移っているのに
気づいて止めた。
「クソッ!」
斧をとり、マントを切ろうとする。だが間に合わず、火はあっという間にフロ
ウナムの全身を包んだ。
肺に空気が無い。
絶叫すら出来ない。
窓の外で誰かが笑っている。
フロウナムは決断した。
そして兜を脱ぎ捨てた。
男たちは集まり、燃え盛る教会を眺めていた。
キース村長は腹を抱え、狂ってしまったかのように笑っている。
他の男たちも声をあげて笑っていた。だが、笑っていながらもその目は教会に
貼り付いたままだ。
熱に浮かされたのか、彼らが立ち去る気配は無い。
安全な場所に座り込み、頬杖をついて愉快そうに眺めている。
こんな見捨てられた教会が火事になっても、どうせ誰も来やしない。ましてや
今は深夜だ。
存分に腹を抱え、膝を叩き、夜空を仰いで哄笑することが出来た。
炎はすっかり建物を包み込んでいる。屋根の一部が落ちた音。
鐘楼はそれが背負う月よりも明るい。
と――
何かがその鐘楼から跳んだ。
黒い影は大きい、猛獣のようだ。
それは建物を背に、村長たちの前に着地する。重い音。
村長たちは笑うのを止めていたが、表情は笑顔のまま固まっていた。
それは吠えた。怒りに満ちた声で。
村長たちは畏縮し、立ち上がることすら出来ない。
鎧を着た、銀の毛並みの人狼は再び跳躍した。
翌日、教会の焼け跡で近くの村の村長を含む数名の死体が発見された。
彼らをバラバラに引き裂いたのは人狼だとフロウナムは言った。
焼け跡には狼の頭と、人間のもののような焼死体が残っていたし、何よりフロ
ウナムが昨夜人狼狩りのためにそこに行ったのを知っているものが居たので、誰
もがそれに納得した。
その後しばらくして、彼に対立していた保守派の大臣がその日に行方不明にな
っていることがわかったが、犯人はわからずじまいだったそうな。
――へえ、怖いお話だ。
子供はいかにも楽しげにそう言った。
おわり




