episode 06 あなたはわたしを知ってるんでしょ?
――起きて、起きろぉ……。
玉を転がすような綺麗な音に誘われて、トータツは目を覚ました。
大きな瞳はソファーで横になっている彼をのぞき込んで、
「やっと起きた」
艶めいた黒髪が、今にもトータツの頬に触れそうだった。
決して寝起きが悪いわけではなかったが、夢を見ているのか覚めているのか、まだ判然としない。
「下で誰かが呼んでるわ」
少女が優しく教えてくれた。
一階から呼び鈴の音が聞こえ、一気に覚醒した。
「――ちょ、ちょっと待ってて」
自分でもなにを言っているのか、そんな風に少女へ言いつけると、昨日預かった鍵を持って一階まで駆け下りた。
扉を開けると、山高帽に喪服を着た中年紳士が立っていた。
「少々早く来すぎてしまいましたかな? これから行くところがありまして」
「エウドさんですね? お待たせしました」
「あなたがここに下宿していらっしゃる士官学校の学生さんですか。話はミンツさんから聞いています。銃が達者だとか」
店の中に招き入れると、エウドはふっくらとした顔に十全の微笑みをもって言った。
「いや、一応士官学校で習いますので」
「羨ましい。わたしにも一人息子がいるんですが、銃にはてんで興味がないようで。つまらないのです」
「興味がない人は本当にないですからね」
「そうなんですよ。まったく。――こちらにはいつから?」
トータツは棚を引っかき回してエウドに渡す商品を探していた。
「先週から世話になってます」
「――ミンツさんはどうしたのかな? 姿が見えないようだけれども」
「実は昨日の事故で――」
「まさか……」
「いえ、大したことはないんですが、そこの破片をかたそうとして腰を痛めたんです」
「ああ……、それは、でも、大事なくて本当によかった。……昨日の事故は、痛ましい」
エウドは下を向いて悔しそうに唇を噛んだ。彼の喪服がその言葉を一段と説得力あるものへと化していた。
トータツはようやく品物を探し当てカウンターの上に置いた。鱗のように輝くライフル用のシリンダーであった。
「こちらですよね。三十口径用の。射撃時のぶれが少なくなる」
「おや、お詳しいようですね。ミンツさんの話していた通りだ。――お見舞いに窺いたいのですが、あいにく今から少し行かねばならないところがあるのです。お大事にとお伝えください。では、今度ゆっくり銃について語り合いましょう」
失礼、と会釈をしてエウドは足早に店を出て行った。
トータツが自分の部屋に戻ると、ソファーに見慣れぬものが座っていた。
「お帰りなさい」
少女は気まずそうに囁いた。
「……ただいま」
「で、あなたは一体誰なの?」
少女は無理に笑顔を作っているようだった。
「……えっ、それはこっちの台詞なんだけど?」
「だって、あなたはわたしを知ってるんでしょ?」焦燥からか、語気を少し強めて、「からかうのはやめて欲しいんだけど」
知らないものは知らない。取り敢えず、昨日助けてから、ここに運んだまでのことを話して聞かせた。
少女はその話を若干難しそうな顔つきで聞いていた。トータツが語り終えても黙りこくったままで、長いまつげを不安げに揺らしていた。
「……どうした?」
堪らなくトータツは声をかける。眉を顰めた少女の儚げな姿に胸を掴まれた。
「……あ、あの、……思い出せない」
「なにを?」
「全部。名前とか、昔のこととか……」
少女は徐に窓の外を見遣った。すると、突然、あっ、と声を上げ駆けだした。
「思い出した!?」
追ったトータツの足に、生ぬるい感触が伝った。床に湯が這っていた。
「お風呂入ろうと思ってお湯出しっぱなしにしてたっ!」
排水溝を洗面器で無理矢理塞ぎ、シャワー室の床に、少女は無謀にも湯を張っていた。扉の隙間から、滾々と水が湧き出ていた。
「具合とかは大丈夫なの?」
雑巾で床の水を吸っては、それを洗面台へ絞るという、いつ終わるとも知れぬ作業をトータツは繰り返していた。
少女も長い裾をめくり上げ、反省のつもりか、小さい体を忙しく動かし床を拭く。
「ええ。特に悪いところはなさそう。――ごめんなさい。お湯を溜めてそれに漬かりたかったの」
「そりゃ、浴槽に張らなきゃだめだ。残念だけどここには付いてないよ」
「……ごめんなさい」
扉が勢いよく開いて、チェスカが鼻息荒くずんずん入ってきた。
「ちょっと、トータツ君聞いて! 昨日の事故に関して報道規制がかかっちゃって、もうやることなし。破片も軍が全部回収してるみたいだし、第四軍には取材出来ないし。あの大惨事の後に動物園でラクダが子供をってニュースも――……。なにやってるの? 床掃除?」
「いや、別に掃除ってわけでもなくて――」
「……え、うそ……」
チェスカはきょとんと自分を見上げている少女に気づいて呟く。
少女もまたチェスカを警戒しているようだった。
「かわいぃっ!」
チェスカは唐突に怯える少女を抱きしめた。
「な、なんなの!?」
うわずった声を上げて少女はもがく。
チェスカが自分の部屋から椅子を持ってきた。
多少ほこりっぽかった床が綺麗に磨き上がった部屋で、三人は食卓を囲んでいた。昨日の残りのパンを囓りながら、トータツは一通りの説明を終えた。
少女を一目で気に入ったチェスカは自分の横に座らせてご満悦のようだった。
「あなたもわたしを知らないの?」
少女は腹が空いていたのか、行儀よく、よく食べていたが、一旦その手を休め、チェスカに眼差しを向ける。
「わたし新聞社に勤めてるんだ。だから、なにか情報があるかも知れないから、わかったら教えるね。――えっと、わたしはチェスカ・ナガツギっていうの。よろしく」
「チェスカ? うん。よろしく」少女はこそばゆそうにした瞳をトータツに転じ、「ところで、あなたはなんていうの?」
「ああ、おれはトータツ・ウジサリ。よろしく」
「よろしく。トータツ」
「トータツ君、自己紹介もしてなかったの? 紳士失格ぅ。――アノンちゃん」
チェスカはトータツをからかうと、唐突にそのような言葉を発した。
「なにそれ?」トータツは訝しんだ。
「彼女の名前よ。遙か昔、旧文明時代の言葉で、名無し、っていう意味。どう?」
「いい加減だなぁ」
「失礼ね、本当よ。軍隊学校じゃ習わなかったかも知れないけど」
「別に、彼女には名前がないわけじゃないよ」
「今なくちゃ。ね、アノンちゃん」チェスカは少女へ投げかける。
意外にも、少女は愉快そうに笑った。
「わたしにぴったり。ありがとう、チェスカ」
トータツの部屋にアノンと名付けられた少女はとけ込んでいた。
トータツはその光景が好きであった。
少女の存在は、トータツが今まで持ち合わせていなかったなにかを埋めたようだった。
だから、これが今日限りで終わってしまうことに切なさを覚えずにはいられない。病院から回り、役所へ捜索願の手続きをだして、保護してもらえばそれで終わりであった。
出かける前、アノンはチェスカに焼け縮れた髪の先を切ってくれるように頼んだ。
少女が着替えると言うこともあり、トータツは一階の売り場まで降りて、商品の銃を物色していた。呼ばれて戻ると、背中まで垂れていた少女の髪が、肩くらいまでの長さに切りそろえられていた。
当の本人は気に入ったらしく、くるくると鏡に映しては満足げに頷いていたが、なんとも、トータツには、幼さに拍車がかかったように見えて仕方がなかった。