episode 05 少女が空から降ってきた
空中でウスタリカ号は煌めきはじけた。
「……冗談――」
反射的に川へ駆けた。小さな破片なら避けられる。
爆風と爆音が襲ってきて、半ば吹き飛ばされる形で、川面に叩きつけられた。
水の中に潜っていても、肌から冷や汗が出てくるのがわかる。
ぼやけた水中から見上げる大空は、きらきらと揺らめいて、この世のものならぬ綺麗さがあったが、その水面が大きく裂けて、なにやら巨大な固まりが降ってきた。
慌てて逃げるが、水の中、思うように動けない。
その物体が作り出した不規則な水流に引きずり込まれそうになる。降ってくる物体は一つや二つではなかった。
またなにか降ってきた。曇り硝子のような水中の景色でそれは人間に見えた。
生きているか死んでいるかもわからない、隣を落ちゆくそのものを見ていたら、やるせない感情に襲われた。
そんな余裕がないことはわかっていた。が、手を伸ばして抱きかかえた。
息苦しさの限界はとっくに越えていた。窒息ぎりぎりで水面へ顔を出した。すると、ひらひらと舞った大きな鉄板が頭を掠め着水した。
改めて肝を冷やし、陸の景色を見てみれば、数カ所から煙が上がり、揺れるように街全体がざわめいていた。
もう重たいものは落ち尽くしたようである。今は破れた布の切れ端や、焦げた綿、書類かなにかの紙などが、幻想的な物悲しさで空一面に舞っていた。
改めて自分が抱えているものに目を落とすと、それは髪の長い少女だった。着ている服が所々破れて焦げている。
腕に抱えて岸まで泳いだ。
先ほどまで何事もなかった人間が苦しみもがいていた。それを介抱する人間も挙措を失っている。死体すらなにかを主張するように死んでいる。
もはやトータツが慣れ親しんだ公園ではなくなっていた。
「おい! だれか!? だれかっ!」
声を張り上げて辺りに尋ねたが、トータツの声に耳を貸すものはいない。
一瞬で様変わりした世界を認識し始めたとき、歯の根が合っていないのに気がついた。真冬ではないけれども、川で泳ぐような季節はとっくに過ぎ去っていた。
抱えていた少女の顔に耳を当てると、幽かな息が聞き取れた。彼女の髪も服もずぶ濡れである。容赦なく体温を奪っているはずだ。置き去りにするわけにもいかない。
少女を担ぎ直して下宿先へ急いだ。
街は至る所にウスタリカ号の鉄の体が飛び散っていた。大きく屋根を破られている家、燃え上がっている建物。人の体ほどもある瓦礫が馬車の通行を妨げ、馬が嘶いている。怪我人も大勢いた。
それでも、破片は広範囲に飛び散ったか、無傷なところは平穏な外観をそのまま保っている。破壊されたものとの対比が余計不気味であった。
サイレンが四方から聞こえる。風が街を焦がす異臭を運んでくる。
少しでも少女を暖めてやろう、自分の背中に押しつけるようにして、混乱した帰路を歩いた。普段なら十五分足らずで着く道程に倍の時間がかかる。
ミンツ銃砲店は難を免れていた。しかし、入り口の真ん前には、エンジンの破片かなにか、鉄塊がめり込んでいる。
扉には準備中の札がぶら下がっていた。
ポケットから合い鍵を取り出そうとしていたとき、中からチェスカが勢いよく飛び出してきた。
「あっ、チェスカさん、いいところにいた。ちょっと手伝って」
「え、嫌、これから取材に……」チェスカはトータツの負ぶっている物体に奇異の眼差しを向けて、「なにそれ?」
「いや、なにと言われても……。取り敢えず着替えさせてあげたいんだけど、おれがやるのも――」
「誘拐?」
「違う」
チェスカは、早く入れと招き入れる仕草をする。
「ったく、しょうがないわね。あなたといいミンツといい――」
「えっ、ミンツさんなにかあったの?」
ここに戻るまでに見た数多の死傷者の姿が浮かんだ。
「ううん。大丈夫だけど。――そこに大きな破片落ちてたでしょ。それを除けようとしてぎっくり腰になってた。今安静にしてるわ。――ほら、チャッチャとやっちゃうから、その子わたしの部屋まで運んで」
チェスカのベッドに寝かし、トータツは一旦自分の部屋に戻った。
彼自身もシャワーを浴びて着替えた頃、ガスガスと扉を蹴り開けて、細い腕に少女を抱えたチェスカが入ってきた。
「重い……っ! 軽そうなのに!」
人間は重たいに決まっている。それでも持ててしまうチェスカに感心する。脇の小さな部屋に誘導し、自分のベッドに少女を寝かした。
「一応、拭いて着替えさせたから。この騒ぎが落ち着いたら病院連れて行かなきゃね。――じゃ、わたし取材に行ってくる。あ、あとこれ」
チェスカはポケットから巻き貝のようなトップがついた銀の首飾りを取り出し、トータツに渡した。
「なにこれ?」
「彼女がしてたの。――じゃ」
慌ただしくトータツの部屋を出たチェスカであったが、いきなり戻ってくると、
「トータツ君。変ないたずらとかしたら本当に軽蔑するよ」
と真面目な顔で言い残し、また忙しそうに出て行った。
一瞬チェスカがなにを言っているのか理解出来なかった。が、自分にとてつもない嫌疑がかけられていたことを知り、否定し損ねたことに臍を噛む。
横たわる少女の前髪が、瞑った目に煩わしそうにかかっていた。それを払ってやったとき、一瞬息を呑み込んだ。
あどけなさが残っているものの、均整のとれた顔だった。肌は透き通るように白く、黒髪がしなやかに伸びている。
チェスカのだぶだぶの服を着ていたが、健康的な四肢は形がよく、指一本まで隙がなかった。――髪の先が少し焦げていた。
毛布をかけてやった。少女の呼吸は規則正しく、死の心配はないようだ。
ミンツを見舞おうと、彼の部屋をノックしたが、返事がない。勝手に開けて入れば、老人はいびきをかいて眠っていた。
自分も一眠りしよう。風邪でも引いたか、傷口が開いたか、どうも調子が悪い。
少女の首飾りを無造作に引き出しにしまい、ソファーで横になってた。横になってみたものの、少女の安否とは別に、少女自身のことが気になった。そのような念を無理矢理打ちやり、眠りにつくまでには随分と時間がかかった。
――まったく、お昼寝とはいい気なものね――。
瞼の裏に明かりが飛び込む。目を開けたら、ガス灯を付けたチェスカが横に立っていた。トータツははっきりとしない頭のまま、むくりと起き上がる。
一体どのくらい寝ていたのだろう、窓の外はとうに日が落ちていて暗くなっていた。
チェスカは机の上に、袋いっぱいに詰まったパンを並べ始めた。
「おなか減ってるでしょ? 買ってきてあげた」
トータツは伸びを一つする。
目の前を様々な種類の菓子パンが彩っていた。
「どう、お姫様は目を覚まして?」
「………?」
ようやく意識が明瞭になってきた頭に、少女のことが戻ってきた。早足で、様子を見に行ってみると、まだ先ほどと同じように眠っているようだった。
「まだ意識が戻ってないみたい」
「そう。じゃ、買いすぎちゃったかな。ま、ミンツにも持っていってあげるし」
「……街の様子はどうだった?」
恐る恐るトータツは尋ねる。
流石のチェスカも答えにくそうに口ごもり、
「なんと言うか、一言で言ったら地獄。――今入っている情報だけでも千人は死んでるって。同じくらい行方不明者がいて怪我人はその十倍は下らないし、きっとこの数はもっと増えるでしょ」
それで会話が滞ったまま、黙々と食事をしていたら、
「で、トータツ君、どうするつもり?」
「なにが?」
トータツが首を傾げると、チェスカは顎で少女が寝ている部屋を指した。
「ああ。明日病院に連れて行くつもりだよ。目を覚ましてくれればいいんだけど」
「それ多分無理」
「………」
怪我をしている人間は一人や二人ではないことを思い出した。常識が通用しないことに不安を覚える。
「誘拐してきたんだから責任取らないとね」
「だから、誘拐じゃないって」
「ねぇ、あの子、可愛いよね?」
「――えっ、あ、うん」
「やっぱりトータツ君もそう思ってたんだ? なんかしちゃった? いたずら?」
「してない。するわけない」
「それが目的で誘拐してきたのに?」
「だから、誘拐じゃないっ」
トータツがムキになればなるほど、チェスカは喜んだ。
彼女は机の上のパンを適当に見繕い、袋に詰めるとミンツの所へ持っていくという。
トータツもミンツ老人の様態が気になりついていく。
老人特有の色遣いの部屋で、ミンツは奥のベッドに座りクッキーを食べていた。
「あ、ミンツ、パン買ってきてあげたのよ」
不満げにチェスカは袋をぶらぶらさせる。
「もっと早く持ってこんか」
「わたしは忙しいの。――あぁ、これじゃあまりまくりだわ」
「ミンツさん大丈夫?」
「ああ。ただのぎっくり腰じゃて」
ミンツは至って平然としており、病人のような弱々しさはどこにも見受けられなかった。
「元気そうでよかった」
「うむ。しかし、まだちょっと起き上がれないのが問題なんじゃ。明日、朝一でお得意のエウドさんが品物を取りに来ることになっておっての――」
「あ、わたしは無理よ。明日、すっごい早いから」
まだ頼まれてもいないのにチェスカは断った。
ミンツの哀願するような眼差しはそのままトータツの方へ向いた。
「……なにをすればいいんですか?」
店を開けて品物を渡すだけでいい。その後は店を閉めて構わない、ということだった。棚の鍵をもらってミンツの部屋を後にした。
「今日は大変だったね」
トータツは部屋に戻ろうとするチェスカに言った。
「うん。大変だった」
チェスカは部屋に入ろうとしない。神妙な面持ちで呟いた。
「それじゃ、おやすみ」
トータツが背中を見せると、その背中に、チェスカがしがみついてきた。
背中のチェスカは震えていた。理由がわからぬでもなかったので、トータツは黙ってそのままにしていた。
「……トータツ君は軍人だから、慣れてるかも知れないけど、わたしはこういうの初めてだから」
「別に慣れてなんかいないよ」
「きっと、あの子も凄く怖かったと思う」
「うん」
「優しくしてあげて。……ごめんなさい。変なこと言って。――おやすみ」
チェスカが離れて、彼女の部屋のドアが閉まる音を聞いた。
トータツも自分の部屋に戻り、ベランダから夜の街を眺めた。
普段よりも明かりの数がずっと少なかった。しかし、暗いからだろうか、見た目の違いはほとんどわからない。ただ、むせび泣くような空気が街全体を覆っていた。