もう、何も考えたくない
ぬかるんで、少しザラザラした校庭を歩いた。
グラウンドの中心では、サッカー部員や、テニス部員が走り回っている。
わたしは、校庭の脇に立ち並ぶ桜並木を見上げながら歩いていた。
青々とした桜の葉。風に揺れてユサユサと音を立てている。
校庭を囲むように植えられている桜並木。花が咲く頃は、いつも授業中の教室から眺めていた。そんな思い出のある桜並木を抜けると、屋上へと続く避難用の非常階段があった。
非常階段へは校舎内の各階から、上り下り出来るようになっている。
あまり、使うことの無い錆びた階段。避難訓練の時だけ使用するだけだった。下から見上げて空を仰いだ。
この中学校はパパも通っていたと聞いている。さすがに校舎は建て替えられているのだが、同じ同窓生だ。
ペンキが剥げて赤茶けた色の手すりに手を掛けた。確か、この階段の裏側に落書きがしてあったはず。裏手に回って、落書きを探した。釘かなんかで傷つけられたその落書きは消えることは無い。下手くそな相相傘。達樹と涼の名前。いつも一緒にいるあの二人に良からぬ噂を立てて、悪友たちが落書きしていたのを覚えている。
これが、どちらかが女の名前なら、二人は必死で消したのだろうが、親友同士の名前だからと、卒業した今でもそれは残っていた。
涼の文字を指で撫でると茶色の錆びが付いた。
手すりを持って、ゆっくりと階段を上り出した。
一段、一段上り始めた。相変わらず錆びた階段で、きっと素足の裏が茶色に染まっているだろう。わたしの眼には、青い空だけしか映っていなかった。
兄妹のようで、幼なじみで、親友で……そして一線を越えて恋人と呼べる存在になった涼。
涼……大好きだよ。
涼……本当に大好きだよ。
でも、もう……さよならだ。
わたしの未来と子供の命。どちらも優先できない。
それを調べることすら勇気のないわたしなんか、もう……涼の傍にいない方がいいんだ。
空が確実に近づいて来た。
身体がフワフワして、逆に気持ちがいいくらいだった。
風が吹き抜けてきて、その中に溶け込んでしまいそうで、気が付けば、上りきったのか、階段が無くなっていた。下を見れば、グラウンドの生徒たちがとても小さく見えた。
上り切った先の踊り場で手すりに手を掛けた。踏ん張れば身を乗り出すことが出来る。
大きく深呼吸をして、腕に力を入れ、身を乗り出すと
「沙都―!沙都―!」
なぜか、下から、涼の声が聞こえた。
「沙都―沙都―」
ガンガンガンガン
そう叫びながら、鉄の階段を勢いよく駆け上がって来た。
涼の足音が辺り一面に響き渡った。
涼の声に弾かれたように、手を手すりから離した。
「沙都! お前、こんな場所で何をやってんだよ!」
あれほど上るのに時間が掛った階段を涼は一気に駆けあがって来て、わたしに飛びつくように抱きついて来た。
「離して!離して!」
力づくで抱きついて来た涼を振り払おうと身体を左右に捩った。
「沙都? 沙都?お前……何がしたいんだ?」
「イヤ。イヤ……」
「沙都?」
「もう……イヤなの。何も考えたくないの!」
「沙都……」
涼に抱きしめられたまま首を振った。
「沙都……落ち着けよ。な?お前、疲れてるんだろ?」
「涼……」
宥めるように頭を何度も撫でて来た。
非常階段をサッカー部員たち数名が、音を立てて上って来て一メートル四方ほどの踊り場に居るわたしと涼を取り囲んだ。
「こいつらが……俺に連絡をくれたんだ。ゼッケン10番のユニフォームを着た子が裸足でグラウンドを歩いてるって……」
その後輩たちの一人が焦った顔で、
「自分らと同じユニフォーム着た子がいきなりフラフラ歩いて来て驚いたよな」
「うん。よく見たら、涼先輩といつも一緒にいた彼女だしさ……ただごとじゃないって思ったから」
「お前ら……ありがとな。恩に切る。こいつ、最近疲れてたからさ」
遠くで礼を言う涼の声が聞こえた。そして、気が遠くなり、涼の腕の中で、わたしの意識が途絶えた。
額に暖かな感触を感じて、ゆっくりと眼を開けると、心配そうに覗き込む涼の顔があった。
見なれた天井。どうやらわたしは自分の部屋に運ばれたようだった。
「涼……」
目を開けたわたしの額を何度も撫でる涼が無表情のまま口を開いた。もう片方の手で箱をチラつかせながら
「これ……って、妊娠検査薬だよな。ここに落ちてて……これ見た瞬間分かったよ。沙都が、死のうとした意味が」
涼が何もかも悟ったようにそう言った瞬間、眼から涙が溢れて来た。
「ごめん……涼」
「俺のほうこそごめん。あの時、一応、避妊はしたんだけど……初めてだったから完璧に出来たかって聞かれれば自信は無い。ごめんな」
「避妊……してくれたの?」
「うん。焦ってたのは確かだけど、相手は大事な沙都だし、もしものこと考えると、そこんとこは冷静だったんだけどね」
「わたし……怖くて検査出来なかったの。これには、陽性なら99%の確率で妊娠しているって書いてるし、涼と自分の一生変えちゃうことだから怖くて出来なかったの。それに、もし、子供が出来ていたら涼ならきっと産めって言うと思って……」
「だから、死のうとしたのか?」
コクリと頷いた。
「だからって……沙都が居なくなったら、俺はどうすればいいんだよ。そんなこと、二度とするな。考えるな!」
「だって……涼、サッカー出来なくなるじゃない。今まで頑張って来たサッカーが出来なくなるじゃない」
「そんなの……サッカー出来なくても、沙都が居なくなることに比べたら、どうってことない。自分が犯した過ちだし……その代償だと思えば……サッカーなんか、お前が居なくなることに比べたら……どうでもいいんだ。お前が青木のとこに通ってた時だって、自分では必死で打ち込んでたつもりだけど、どっか上の空で集中してなくて、先輩に辞めろって言われた。その言葉に逆切れして、ケンカになり掛けたりして。だから……もう、死ぬなんて気を起こさないでくれよ」
無表情だった涼が崩れたように泣き出した。顔を歪めて、大粒の涙を流して泣き出した。
久しぶりに見た、涼の泣き顔。
「俺、もっとしっかりするから。沙都が不安にならないようにしっかりするから……だから……ずっと、俺の傍にいてくれ」
「涼……」
涙をTシャツで拭った涼が手を差し伸べて来た。
「沙都、立てるか? 今から、俺と産婦人科へ行こう」
「産婦人科?」
「そう。妊娠してるか調べなきゃ、何も始まらないだろ?」
産婦人科と聞いて、やはり、即答は出来なかった。
「達樹に女医が居るって産婦人科聞いたことあるから」
「達樹に?」
「あいつらも……一度、こんなことがあったらしい。違ってたみたいだけど」
さっき泣いた涼だったけど、もう、今は何もかもフッ切れた様子で、わたしに真摯な目を向けて来た。
「分かった。涼が傍に居てくれるなら……産婦人科に行って見る」
涼の腕を取って、ベッドから立ち上がった。




