第100話 礼拝堂前の門番
話が終わると、しずくたちはその足で更衣室へ向かった。
それぞれ、手早く探索者用の装備へ着替えていく。
しずくは、修理の終わった銀兎のジャケットに袖を通した。
裂かれた跡はほとんど分からない。
けれど、内側に薄く重ねられた補強材の存在が、あの二層ボス戦を忘れさせてはくれなかった。
左腕には銀のバックラー。
腰には大鋏剣。
背中には探索者用のリュック。
一つずつ装備を確かめるたびに、胸の奥が少しずつ静かになっていく。
ほのかはジャケットの袖口を軽く引き、機弩、弾倉、双剣の固定具を何度も確認していた。
いつもの軽さはある。
でも、指先の動きは真剣だった。
ミコトも、強化の終わった杖を両手で握り、目を閉じて魔力の流れを確かめている。
球状のミスリルから四本の細い流路へ、淡い光が一瞬だけ走った。
誰も、しばらく喋らなかった。
二層までの延長ではない。
いよいよ三層礼拝堂。
赤い星と白き月、そして異形の神。
さっきまでミーティングルームで聞いていた言葉が、まだ胸の奥に残っている。
それでも、止まる理由にはならなかった。
三人は装備を整えると、受付前に集合した。
ロビーのざわめきの中、しずくは小さく息を吐く。
「…行くんだね」
ほのかが、いつもの調子に少しだけ戻った顔で笑った。
「行くよ。ここまで来たし」
ミコトも静かに頷く。
「初回ですから、無理はしません。まずは偵察を優先しましょう」
「…うん」
しずくも頷いた。
今日は三層に挑む日だ。
配信もすでに告知している。
しずくの怪我と中間テストでしばらく潜れていなかったこともあって、待っていた視聴者の熱はかなり高いらしい。
三人がゲート前に立った時点で、端末のコメント欄はすでにすごい勢いで流れていた。
『きたああああああ』
『三層だ! 礼拝堂だ!』
『しずく復活!』
『テストお疲れ!』
『ほのか赤点回避できた?』
『三層配信待ってたぞ!』
『しずく生きて帰ってこいよ!』
「最後のやつ、縁起でもないなぁ」
ほのかが苦笑しながらコメントを流し見て、それから配信カメラの方へ向き直った。
「はい、みなさんこんにちは。ほのかです」
その一声で、コメント欄の熱量がさらに跳ね上がる。
『ほのか!』
『きたきたきた』
『元気そうで安心した』
『三人そろった!』
『礼拝堂攻略たのむ!』
ほのかは、そういう空気を受け止めるのが上手かった。
「しばらく間が空いちゃってごめんね。今日はついに三層、礼拝堂に初挑戦です」
『うおおおお』
『初見攻略!』
『礼拝堂マジで雰囲気いいぞ』
『でも初手から怖いぞ』
『カエルもどき注意な!』
『墓地はやばいから無理すんな!』
ほのかが、しずくとミコトを見る。
「じゃ、いこっか」
しずくは小さく頷いた。
「…うん」
ミコトも杖を持ち直す。
「いつでも」
三人は揃ってゲートをくぐった。
視界が虹色に揺らいだ次の瞬間。
しずくたちは、思わず足を止めていた。
「…え」
しずくの口から、そんな声が漏れる。
そこは、今までの階層とはまるで違っていた。
岩と土の通路ではないし、湿った洞窟でもない。
広がっていたのは、庭園だった。
丁寧に整えられた石畳の小道。
夜気を含んだ草花の匂い。
人工的でありながら、どこか自然と調和している静かな空間。
正面奥には、礼拝堂と思われる建物があった。
高い尖塔を持つ、荘厳な建築物。
白とも灰ともつかない石で組まれた外壁は、夜の中でもはっきりと輪郭を浮かび上がらせている。
扉は重く、閉ざされているだけで何かを拒んでいるようだった。
右手には、大きな池が見える。
水面は星空を映して、わずかに揺れていた。
静かで、不気味なほど美しい。
左手には、白い花が咲き乱れている。
花畑というには整いすぎていて、庭園の一角として意図的に作られたものに見えた。
夜の中で、その白さだけが浮いている。
「すご…」
ほのかが、素直に息を呑む。
「二層までと全然違うね」
ミコトも、礼拝堂を見つめたまま静かに言った。
「人工物ですね。それも、かなりはっきりとした」
コメント欄も一気に流れ始める。
『うわああああ』
『礼拝堂きた!』
『雰囲気良すぎる』
『でも絶対なんかある』
『三層ほんと景色だけは綺麗』
『初見だと見惚れるんだよな』
『池と花畑は気をつけろ』
『礼拝堂前の庭園マジで異質』
その時、いつものようにシステムウィンドウが開いた。
しずくの目の前に、見慣れた表示が浮かぶ。
【本日の型 アタッカー型】
筋力と耐久に大きな補正。
【付与スキル:強靭な体幹】
さらに、続けて追加のウィンドウが開く。
【ユーザーはローグライクの武器と防具を所持しています】
【そのため、装備は支給されません】
【代わりに初級ポーションを二本支給します】
「…今日はアタッカー型」
しずくが小さく呟く。
左腕には銀のバックラー。
身体は銀兎のジャケット、腰には大鋏剣。
そして、アタッカー型の補正。
前衛として立つには、悪くない。
ほのかが軽くシステム画面を覗き込む。
「こっちはいつも通りだね。変な追加とかはなさそう」
「今のところは、ですね」
ミコトも頷いた。
しずくは、そこでふと空を見上げた。
夜空が広がっていた。
ただの夜空ではなく、星が多い。
満天と言っていいほどに、無数の星々が瞬いている。
月はない。
それなのに、周囲は思ったよりも明るかった。
「…月、ないね」
しずくの言葉に、ほのかも上を見る。
「ほんとだ」
ミコトは、しばらく空を見つめながら言った。
「少なくとも、視認できる位置にはありませんね」
その言葉が、さっきのミーティングルームで聞いた話を呼び起こす。
白き月と赤い星。
しずくは、無意識に銀盾の縁をなぞっていた。
「とりあえず、礼拝堂まで行こう」
ほのかの言葉に、三人は頷いた。
偵察優先、無理はしない。
石畳の道を、警戒しながら進み始める。
しずくが前で少し後ろにミコト。
ほのかは射線を確保しやすい位置を取りながら、気配察知も働かせていた。
庭園は、静かすぎるほど静かだった。
敵の姿は見えない。
風に揺れる草木の音と、遠くの水音だけがある。
「…なんか、逆に怖い」
ほのかが小さく言葉を落とす。
「わかります」
ミコトも、即頷いた。
しずくも同じ気持ちだった。
綺麗だし、整っている。
だからこそ、不自然だ。
夜の庭園を進み、礼拝堂へ向かう途中。
突然、右手の池の方から大きな水音が響いた。
重たいものが水面を叩く音。
三人が反射的にそちらを向く。
「っ!」
池の中央付近で、水面が激しく波打っていた。
大きな泡がいくつも浮かび上がり、ぶくぶくと不気味に膨らんでは弾ける。
『え?』
『なんだ?』
『池きたぞ!』
『来る来る来る!』
しずくは、とっさに大鋏剣の柄へ手を掛けた。
ほのかが機弩を構える。
ミコトも杖を前に出す。
次の瞬間、水面を割ってそれは姿を現した。
巨大なザリガニだった。
「…は?」
ほのかが、思わず間の抜けた声を漏らす。
いや、ザリガニと呼んでいいのか一瞬迷うほどに大きい。
灰色の甲殻。
星々の光を薄く反射する硬質な殻。
太い鋏と節くれだった脚。
その巨体が、池の縁を這い上がってくる。
水草や石を押し潰しながら陸へ上がったそれは、明らかに異常だった。
体長が、目算で十メートルはある。
二層の熊とも、ボアとも違う迫力。
横に広い巨体と巨大な鋏のせいで、圧迫感が凄まじい。
水を滴らせながら、それはゆっくりとこちらへ向き直る。
灰色の甲殻が、ぎしりと軋んだ。
そして、まるで門番のように、礼拝堂へ続く道の前に立ちふさがった。
「ザリガニ…?」
しずくが呆然と呟く。
「いや、デカすぎでしょ!」
ほのかが半歩下がりながら叫ぶ。
ミコトも、さすがに目を見開いていた。
「三層の資料に、こんな大型甲殻類いましたっけ…?」
コメント欄も完全に沸騰する。
『ええええええ!?』
『なんだあれ!?』
『礼拝堂の前にザリガニ!?』
『初手でボスみたいなの来た!』
『でっっっっっっか』
『門番枠!?』
『いや聞いてない聞いてない』
『三層そんなのいたか!?』
『初見でこれはひどいw』
『しずく達びびってて草』
『いや俺もびびってる』
しずくも、ほのかも、ミコトも。
三人揃って、目の前の巨大な灰色の怪物に完全に意識を奪われていた。
礼拝堂の静謐さと、星空の美しさ。
庭園の不気味な整い方。
そんな空気をすべて壊すように、巨大なザリガニは鋏をゆっくりと持ち上げる。
鋏が鳴る。
ここから先へは通さない、とでも言うように。
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