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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

札立つ山中

これは、とある人から聞いた物語。


その語り部と内容に関する、記録の一篇。


あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。

 おー、こー坊か。どうしたこんな時間に。子供はもう寝る時間だというに。


 ――なに? なんか寝付けないから話をしてくれ、とな?


 ははあ、子守歌がほしいクチか? それとも純粋に話がほしいクチか。

 いったん目が覚めると、なかなか寝入るのは難しいからなあ。じいちゃんとしては気持ちがわからなくもないが、やはり眠っておくことをおすすめする。

 頭の休息や身体の成長のためというのもあるがな。夜はいろいろなものが忍び寄ってくるゆえ、じっとしていること。特に眠りの姿勢というのは、息をひそめるのにも向いている。

 一見、スキだらけであるし、奇襲には絶好の機会と思うのではないか? 実際にことをなせることもあろうが、それはたまたま運がよかったゆえ、ということはしばしばある。あるいは「きまりごと」にうまくハマっていたりな……。

 どれ、きまりごとをめぐる出来事について、ひとつ、こー坊が望む不思議なものを話そうか。


 むかしむかし。

 あるところに肉の魅力に取りつかれた男がいたという。

 仏の教えが伝わってより、肉食は最近まであまり喜ばれない傾向にあったが、裏を返せばそれ以前は肉食は自然と行われるものだったのだ。

 その男は、どの村にもとどまることなく、山野をさすらい続けていた。なぜなら肉は肉でも、彼が特に欲するのは自分と同じ種、人間の肉だったからじゃ。


 人が飢えに飢えたとき、同じ人ですら食べ物としてしまうことは、歴史上でもたびた知られる。しかし彼は平時より、特に切迫するものがないにもかかわらず、人を食べたくて仕方なかったという。

 彼はみずからがその魅力に取りつかれたとき、元いた家を去ってさすらいはじめ、今に至る。自分の気持ちに嘘をつきたくなかったことと、皆へ迷惑をかけたくなかったことのせめぎあいが、彼にこの選択をさせたのだ。

 野垂れ死んだもの、打ち捨てられたものなどを探し出し、彼はその肉をひっそりといただいていった。腐り、臭い、やまい……死体を生活の場に残すことは、わざわいを呼び込むことは当時から察せられている。

 本来忌むべきそれらをほおばりながら、なお自分は生きながらえ続けていた。それを続けてしまう自分へいささかの失望もあったが、やはり自分の衝動をいつわりたくない気持ちも依然として強く。

 やがて彼は広がる戦の波から逃れるように、とある緑深い山の中へ歩を進める時期があったという。

 防寒着兼寝床にもなる、厚い毛皮の外套を巻きつけながら、彼は歩む。夜になると、彼は小高い木を見つけてのぼり、枝たちへうまいこと外套を渡したり、幹を背にしたりして寝入ることが多かったとか。

 長年の放浪で得た知識により、虫よけの方法は心得ていた。地べたの上で眠るとなればまた話は変わってくるが、木の上ならばこれまで虫以外に邪魔してくるものはほぼおらず、自然と彼は寝床に選ぶようになっていたという。

 その日も陽は、すでに傾き出しており彼は今日の眠る場所を吟味し始めていたのだが、少し妙なことがあった。


 山中のところどころに、札が立っている。

 当時は漢字が伝わるより前だったから、言葉をのぞけば記号が主な情報伝達手段そうだ。それでも、場所が変われば通じないことも多々あったが、その札は男のわかる意味のものだったという。

 木でできた四角い枠の中に、「×」を組み入れたかっこう。現在ならば長方形に対角線を引いたような形だったらしい。それは男の知る限り、「この先、きまりに触れることを禁ずる」との意味合いだった。

 四角は定められたワクを表し、×はそのまま禁止を意味する。もし四角がなかったならば立ち入りそのものさえ許されないところだ。これを見るに、歩み入ることはできるようだったが、きまりとやらがわからない。

 ここは山中。人の多いところならともかく、あたりを席巻しているのは獣のほうが多いだろう。


 ――それがこうも人の手と思しきものが作られる。そばに人がいる、あるいは住むゆえかもしれない。


 見る限り、札はだいぶ傷んでいて月日の経過をにおわせる。立てた者がまだいるかどうかはわからないが、できることならとどまっていてはくれないだろうか。もちろん、物言わぬしかばねとなって。

 男はそう思いながら、同じつくりの札をいくつも越えていき、ほどよい寝床を吟味し始めたのだけど。


 いくつめかの札を越えた瞬間、男の背中をさっと冷や水が垂れる。実際の汗ではなく、感覚的なもの。第六感に近かった。

 何かが自分へ寄ってくる。かなり遠くから、されどもまっすぐにだ。

 はいつくばって、地面へ耳をあてがう。小動物のものとおぼしき雑多な足音の中で、ひときわ目立つ大きなものが、不規則な拍子で他の音をつぶしながら、どんどん強まってきていた。

 熊か猪か。いずれにせよ、食べられなくもないが正面からかかわりあいたくない手合い。

 男はさっさと逃げを打った。とはいっても、走ってこの場を去るようなことはしない。向こうもこちらの地を蹴る気配を察していたなら、振り切ることは難しいだろう。

 ここは木へのぼって足音を絶えさせ、撒くことができる手合いかを見る、と男は考えたそうだ。同じく木登りが達者な熊だった場合、余計に悪いことになりそうなものだが、男はこれまで似たようなことを乗り越えてきていた。自分の身長の何倍もの高さを持つ樹上から軽々と飛び降りて逃げ去ることができていたのだとか。


 男は手近な木の中から、葉のよく茂ったものを選ぶと、するするとそこへ登っていって、幹から張り出す枝の中でも一番太いものを選択。

 幹へ背をあずけつつ、近寄ってくる者の正体を見極めようとしたのだが、それより先に襲ってきた敵がある。睡魔だ。

 日中歩き通しは慣れっこだったが、起伏の落ち着かない山中での歩行は思ったより体へこたえたと見えて、ついまぶたが重くなってきた。

 眠るまいと目をこする男だったが、いささかも助けにならず。男は毛皮を巻いたままでこっくり、こっくりとまどろんでしまった。


 ややあって。男ははっと目覚めた。

 眠ってしまった自分に気づき、危機感を覚えたのもあるが、その鼻が獣くさい臭いを強くかぎつけたためでもあった。

 すでに周囲は暗くなっていたが、幸いにも男が腰をおろしていた枝のあたりに月の光がさしている。が、そこに映されたものには息をのまざるを得ない。

 枝はたっぷりと血に汚れていたんだ。ただし、男の血ではない。男自身はどこにも傷を負っていない。

 しかし、枝にまたがるような格好で引っかかっているものは、熊のものと思しき、爪の伸びた片腕だったのだとか。根元からちぎり取られ、均衡をとろうとするように軽く前後に揺れている。


 男は月明りを頼りに、木の下を見やった。

 頭こそなかったものの、そこにもまた熊の胴体と残りの四肢たちのかけらが、大量の血とともにぶちまけられていたのだ。

 それだけではない。木の根元には、ちょうど自分と同じ年頃の男がもたれかかるようにして、うなだれていたのだ。動きはないうえに、盛大ないびきがこの枝の上まで聞こえてくる。

 その不用心さは、この山中において無防備も無防備。自分とて、生きているものを積極的に喰らわない方針でなければ、襲っていたと思われた。


 ――しかし、どうしてやつはこんなところに。熊「だった」ものが散らばっているところだぞ? 普通なら避けてしかるべきだろ?


 その答えはほどなく分かる。

 あたりの暗闇の中から新しく、狼が一頭躍り出たんだ。すでに狙いを定めていたのか、狼はその眠っている男へ向かって、まっすぐに駆けていく。

 その数歩手前まできて、狼はにわかにはじけ飛んだのだ。寝ている男が動いた気配はなく、もちろん枝上の彼が手を下したわけでもなく、ひとりでにだ。

 狼もまた想定していなかったことらしい。主に弾けたのは胴体であったが、その足は勢いを止めずに動き続け、木の脇を抜け、熊の残骸たちを踏みしめても意に介することなく、さらに何歩か走ってようやく止まる。

 その間、枝上の男はまたぐっと息をのんでいた。はじけ飛んだ狼の胴体、そこから飛ぶように離れた頭部が、この枝に喰いついてきたゆえ。はじけた勢いが、ここまで頭を飛ばしてきたのだ。


 それで察した。

 あの男は熊の破片があったにもかかわらず、ここで寝入ったのではなく、ここで寝入った男に熊が寄っていったのだろう。

 獲物と認識してか、あるいは好奇心かはもはや分からない。だがその代償を、熊は身体を四散させることによって支払った。狼はその二の舞を演じたに過ぎない。


 ――ここは、眠った人間を完全に守る領域……。


 枝上の男は例の立てられた札たちのことを思い出す。

 真っ先に命を落としかねない就寝中のもの。それを無欠なほどに守り抜く力が、ここには働くのだと理解したそうだ。

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