第92話 希望の形をした毒
白い階段を上がる途中だった。
さっきまであの真っ白い部屋に立っていたはずなのに——次の瞬間、視界がぐにゃりと歪み、身体の芯が引っ張られるような感覚が走った。
ふっと、世界が戻る。
白い階段。
あの部屋に入る、寸前の場所。
「……えっ!?」
ミラの声が、ひっくり返った。
オットーは周囲を見回し、喉の奥で「っ」と鳴らす。明らかに同じだ。石の段の欠け方、光の角度、空気の冷たさ——部屋に“入る前”だ。
「どういうことだ!?」
ダリウスは顔に手を当てた。嫌な汗が一気に吹き出し、指先が冷たくなる。
自分の中に、まるで穴が空いたみたいな感覚があった。何かを失ったはずの——その何かが、今は手元に戻っているような。
「お、俺は……ミラを……! ミラ!」
視線がミラを探し、見つけた瞬間、胸が痛いほどに息を吐いた。
ミラは涙目のまま、何も言わずに突っ込んできた。
抱きつく力が強い。震えが伝わってくる。
「ダリウス……!」
「……っ」
ダリウスは抱き返して、そして——気づく。
腕。
あの石の冷たさがない。
「ミラ、お前……腕が!?」
ミラは慌てて自分の手を見た。指を開いて、握って、確かめる。
「……治ってる!!」
それだけで泣きそうになるのに、泣く暇すらない。
胸の奥がずっと怖いまま、喉だけが乾いている。
その横で、エドガーが口元を歪めた。苦虫を噛み潰したような顔——いや、噛み潰したのが“品性”のほうかもしれない。
「つくづく悪趣味ですね……」
息を吐く。
「嫌味の一つでも言いに行きましょう」
*
再び、白へ。
真っ白い部屋は相変わらず遠近感を狂わせ、中央の台座だけが「ここが場所だ」と主張している。
そこに、あの声がいる。どこからともなく、頭蓋の内側に響く声。
エドガーは肩の力を抜きながら、虚空へ問いかけた。
「いつから試練を?」
『この部屋に入る寸前だよ。ちゃんと光ったよね?』
——軽い。
冗談みたいに軽い。
ミラの手が、ぎゅっと握りしめられる。
指先が白くなるほど。肩が震えるほど。怒りで、全身が小刻みに揺れていた。
いつものミラじゃない。笑って誤魔化す余裕がない。
「……あなた……」
言葉を探す声が、擦れる。
「人の心を弄んで……楽しいの?」
オットーが腕を組み、鼻で笑った。笑いの形をした苛立ちだ。
「あぁ……魔神よりムカつく野郎だぜ」
『代償を支払い、奇跡は起こした。何が不満なんだい?』
淡々としている。
正しいことを言っている顔で、正しいだけの刃を振り下ろす声。
エドガーは一歩も前に出ないまま、口だけで刺した。
わざと嫌味ったらしく、丁寧に。
「あなた、友達いないですよね?」
沈黙は、ほんの一拍。
そして、声が同じ温度で返す。
『同じことをエリーにも言われたよ』
「……ちっ」
エドガーの舌打ちは小さかった。
けれど、その小ささが逆に、胸の奥の何かをえぐった。
『しかし君たちは本当に素晴らしい。はじめてだったよ——ここまでの代償を支払ったのは』
それの評価基準は、いつだってひとつしかない。愛した誰かを守るために、自分だけ楽にならない道を選べるかどうかだ。
白い部屋の一部が、すぅ、と息を吐くみたいに薄れていく。
壁だったものは“何もない”へ戻り、そこに——上へ続く階段が現れた。
まっすぐで、冷たくて、やけに綺麗な階段。
綺麗すぎて、むしろ汚い。
『人類が生まれて初めてだよ。挑戦権を与える』
声は誇らしげでもなく、哀れむでもない。
ただ、事務的に“褒める”。
『これが本当の最後の試練だ。成功すれば僕から君たちに与えるのは、富や名声、奇跡なんて生やさしいものじゃない。次元を超え、因果を捻じ曲げ、世界の法則を操る力だ』
ミラの呼吸が荒くなる。怒りで肺が熱い。
握った拳が震えているのに、目だけは真っ直ぐだった。
「……あなたを、消滅させることもできるのよね?」
『その通り。君の両親もダリウスも——両方いる世界が作れる』
ミラの喉が、きゅっと鳴る。
その言葉は“希望”みたいな形をして、ちゃんと毒だった。
『オットー。きみの阿修羅で失った寿命、戻せるよ?』
オットーは俯いたまま、動かない。
返事もしない。怒鳴りもしない。
ただ、拳だけがゆっくり固くなる。
『エドガー。エリーを生き返らせたくないかい?』
エドガーは、俯いたまま。
肩がほんの少し揺れた。笑ったのか、耐えたのか、区別がつかない揺れ方だった。
『ダリウス。ミラの将来を輝かしいものにできるよ?』
ダリウスは、三人の顔を順番に見た。
あの白い部屋で、何度も奪われて、何度も踏まれて、それでも戻ってきた目だ。
真剣な目で、目線を合わせる。
言葉にするのは、簡単だった。だからこそ、噛みしめるように言う。
「……みんな。気持ちは一つだよな」
オットーが、顔を上げる。
ダリウスと目が合い、短く頷いた。
「……おぅ」
エドガーは肩をすくめた。皮肉みたいな動きなのに、逃げじゃない。
「……もちろんです」
ミラは震えていた。怖さじゃない。怒りだ。
唇を噛み、吐く息が荒いまま、叫ぶ。
「当たり前よ。これだけ踏み躙られて……私は耐えられない!!!」
ダリウスは、ほんの少し笑った。
怖さを誤魔化す笑いじゃない。
“決めた”笑いだ。
「じゃ、いくか!」
四人は階段へ歩き出す。
一歩ずつ。着実に。
白い床が、彼らの足音を吸い込んでいく。




