第91話 奇跡の値段
転移陣を抜けた刹那、世界がいったん“白”になった。
白い階段。白い壁。
突然、光が視界の奥が焼けるように突き刺す、ミラは反射的に腕を顔の前へ立てる。
「まぶしっ……!」
ダリウスは一歩、二歩と恐る恐る階段を上がった。
足裏が石を踏む感触だけがやけに確かで、逆に周囲の距離感は曖昧だった。階段を越え、部屋の縁へ踏み込んだ瞬間——
「ここは……」
言葉が空中に吸われた。
反響が返ってこない。声を出したはずなのに、耳が「今の本当に喋ったか?」と疑ってくる。白い面が続き、遠近感が狂って、視線が滑る。唯一、部屋の中心にある台座だけが、上下左右の“間隔”をかろうじて世界に固定していた。
オットーがぐるりと見渡し、舌打ちまじりに吐く。
「ボス部屋じゃねぇ……試練の部屋じゃねぇか」
エドガーは魔導書を抱えたまま、肩をすくめる。笑っているようで、笑っていない。
「最後の部屋がここですか……。随分と、無駄に清潔ですね」
——そして、来た。
『おめでとう』
声は“上”からでも“前”からでもない。
頭の中に響いているようで、壁から滲んでいるようで、女か男か、子供か老人かも判別できない。温度のない声だった。祝福の形だけをしていて、心が一切乗っていない。
ダリウスは、切実に天井へ向けて叫んだ。
「ここにあるのか? ミラの石化を治す薬は?」
一拍。白い沈黙。
『そんなものはないよ。あるのは奇跡だけ』
オットーが頭をかき、吐き捨てるように言う。
「治りゃ何でもいい。さっさと奇跡を起こしてくれ」
『代償を支払ってからだよ』
その言葉で、空気が一段重くなる。
ミラは無意識に右手を握った。石の感触がない指先が、逆に怖い。治らないまま終わるかもしれない、という恐怖が喉の奥からせり上がる。
エドガーの指が、魔導書の革表紙に食い込んだ。苛立ちと、抑えきれない痛みが混ざった目で白を睨む。
「もうたくさん支払っているでしょう。私たちだけじゃない——エリーも……!」
名前を出した瞬間、胸のどこかが鈍く疼いた。言葉の続きを、喉が拒むみたいに詰まる。
『君たちの望むものは、死の回避。因果の縫い直し。——ちょっとやそっとじゃ足りない』
白い部屋が、さらに白くなった気がした。
否定されたのは“薬”じゃない。彼らが積み上げてきた必死そのものだった。
ミラの声が、かすれて落ちる。
「そんな……」
希望が、軽く踏み潰される音がした。
『……とはいっても、今まで支払ってきた代償も相当なものだ。おまけしてあげるよ』
無機質な声は、値札を付け替えるみたいに軽かった。
『ダリウス。君の記憶だけでいい。それと交換だ』
その条件が口にされた瞬間、空気が一斉に凍った。
ミラの喉が鳴る。オットーの眉間が寄る。エドガーの指が、魔導書を握り潰しそうなほど白くなる。
——なのに。
「わかった。好きなだけ持って行け」
ダリウスは、即答した。
迷いの“ま”もない。むしろ、肩の荷を降ろすみたいな軽さすらあった。
「だめ! ダリウス——!」
ミラが手を伸ばした。止める、という意思だけで身体が飛び出す。
けれど、その指先が触れるより早く——
ダリウスの輪郭が、白い光に溶けた。
光は“包む”というより“満たす”だった。
彼の皮膚の内側から溢れ出るように、眩い泡みたいに膨らんで、白い部屋へ吸い込まれていく。
「くそがっ……!」
オットーは眩しさに目を細めながらも、必死にダリウスを見続けた。
エドガーは短く舌打ちをして、それ以上何も言えなかった。言ったら、何かが折れる。
そして——光が引いた。
同時に、ミラの右手が“音”を立ててほどけ始める。
指先の石化した表面が、乾いた壁の漆喰みたいにボロボロと崩れ落ちた。欠けた石が床に散り、次に手の甲、腕、頬へと連鎖していく。
皮膚が戻る。血の温度が戻る。
痺れていた感覚が、一気に押し寄せて、ミラは息を呑んだ。
——でも、どうでもよかった。
「ダリウス! 大丈夫!? ねぇ、返事して!」
ミラは両腕で彼を揺さぶった。治った腕で、必死に。
戻ってきたものを確かめる暇もない。今、目の前で失われたものの方が、重すぎた。
ダリウスはふらりと首を動かし、あたりを見回した。
そして、頭を押さえながら——呑気な声で言った。
「ここは……どこだ?」
ミラの胸の奥が、ひゅっと縮む。
ダリウスは次に、ぱっと表情を明るくしてオットーへ近づいた。
「ん!? オットー! ……エドガーも。久しぶりだな! 引退以来か?」
「……は?」
オットーの口から、間抜けな音が漏れた。
理解が追いつかないというより——理解してしまうのが怖くて、脳が拒否した。
エドガーは一瞬で状況を飲み込んだ。
そして、俯いた。拳が、震える。言葉を出したら、喉が裂ける。
ダリウスは自分の腕を掴み、目の前の少女へ向き直った。
腰を落として視線を合わせ、まるで初対面の礼儀で、穏やかに笑う。
「ん? はじめまして、かな。俺はダリウスっていうんだ」
そして——その目のまま、無邪気に続けた。
「オットーとエドガーの親戚か何かかい?」
ミラは固まった。
喉が開かない。舌が動かない。脳の中だけが騒がしく、言葉の形を作る前に崩れていく。
「あっ……わ、わたしは……っ」
やっと絞り出しかけた、その瞬間——
『記憶を呼び起こすことは、お勧めしない』
無機質な声が、すっと割り込んだ。
『おそらく——壊れるよ』
“壊れる”。
その一語が、床に落ちて弾んだみたいに、空気を冷たくした。
オットーの顔が硬直する。
エドガーの眉がわずかに動き、目だけが鋭くなる。
ミラは、凍ったまま息を吸い損ねた。
当の本人は、まるで嵐の外にいるみたいに落ち着いていた。
「どうしたんだ?」
ダリウスが首を傾げる。
不思議そうに三人を見回して、少し困ったように笑う。
「みんな怖い顔して……あ、途中でごめんよ」
それから、ミラに視線を戻す。
優しい調子で、確認するみたいに尋ねた。
「君の名前は?」
ミラの肩が、びくりと跳ねた。
心臓が、喉までせり上がる。震えが止まらない。指先が冷たい。
「ミ……」
声が裏返りそうになるのを、噛み殺す。
「……ミラ……です」
言った瞬間、世界が少しだけ遠くなる。
自分の名前が、こんなに怖いものになるなんて。
「ミラ!」
ダリウスの顔がぱっと明るくなった。
嬉しそうに、無邪気に——残酷なほど自然に。
「君はミラって言うのか。奇遇だな! うちも親戚の子を預かっていてさ、ミラっていうんだ」
ミラの胃が、きゅっと縮む。
「今度、神学校に入るんだよ」
その言葉は、刃じゃない。
なのに、刃より深く刺さった。
ミラの口元が引き攣る。笑顔の形だけを貼り付けて、呼吸を真似する。
「そ……そうなんですね……ははっ……すごい……」
笑えてない。
自分でもわかるくらい、笑えてない。
オットーの中で、何かが“ぷつん”と切れた。
行き場のない怒りが、拳を震わせる。胸の奥で煮えたぎって、喉から声になって飛び出した。
「ダリウス! しっかりしろ!」
オットーはダリウスの肩を掴み、ぐらぐらと揺すった。
揺すれば戻る、そう信じたいみたいに。
「おめぇの娘は――目の前にいるだろ!!」
その一言で、空気が凍った。
「だめです! オットー!」
エドガーの叫びは遅い。
“言ってはいけない言葉”は、いったん口から出れば、戻らない。
『……あぁ。言っちゃったね』
謎の声が、軽く、面白がるように落ちてきた。
ダリウスの瞳が、ぱちりと瞬いた。
「えっ?」
理解しようとする顔だった。
理解できるわけがないのに。
「どういう……」
言葉の途中で、ダリウスの頭の中に——電流が走ったみたいに、何かが突き刺さる。
笑顔が引きつる。顎が震える。
「あっ……あぁぁ……っ」
次の瞬間、喉が壊れた機械みたいな音を漏らして、
「ぐぅ……がががが……!」
泡を吹いた。
倒れる。
壊れた人形みたいに、力が抜けて、身体が床へ落ちていく。
「ダリウス!」
エドガーが咄嗟に抱き留めた。
間に合ったのは、誇れることじゃない。間に合わなかったものが、もう多すぎる。
ミラは真っ青になった。
膝が笑う。震えが止まらない。立っていることさえ、許されないみたいに——そのまま崩れ落ちた。
「くっそがぁ……!」
オットーの拳が震える。怒鳴りたい相手がいない。殴りたい壁すら、ここにはない。
「エドガー! ダリウスは!」
エドガーは返事をする前に、ダリウスの口元へ手を当てた。呼吸。脈。
冷たいほど手順が正確で、逆にそれが痛かった。
「……大丈夫です」
声が低い。
「失神しているだけです……!」
ミラは自分の肩を掴んでいた。掴まないと、身体がばらばらになりそうだった。
「わ、わたし……腕が治って……」
石化が剥がれ落ちた指先が、今はやけに生々しい。
元に戻ったはずの肌が、罪みたいに見える。
「でも……こんなこと……望んでなくて……」
涙が出ない。怖すぎると、涙は遅れてくる。
声だけが震えて、喉の奥で擦れていく。
オットーは、はっと我に返ったみたいにミラへ駆け寄った。
大きな手で、背中をゆっくりさする。乱暴に触れたら、今度こそ壊れてしまいそうで。
「ミラ。大丈夫だ」
言い聞かせるみたいに。自分にも。
「絶対に。絶対にだ」
オットーの声は低く、揺れながら、それでも芯があった。
「俺たちが……何とかする!」
その言葉だけが、白い部屋の真ん中で——かろうじて“地面”になっていた。
オットーは、ゆっくり立ち上がった。
膝の痛みも、右腕の違和感も、今はどうでもいい。
足音は一歩ごとに重くなり、まるで床を踏み割るみたいに白い部屋の中心へ向かう。
台座の前で止まる。
顔を上げる。天井とも壁ともつかない“どこか”を睨みつける。
声が出た瞬間、獣の唸り声みたいだった。
「てめぇ……」
唇の端が引きつり、歯の隙間から息が漏れる。
「今すぐぶっ殺してやるからよぉ……さっさとダリウスの記憶、戻せよ……意味、わかるよなぁ?」
次の返事は、拍子抜けするほど軽かった。
『いいよ』
空気が一拍、止まる。
「……はっ?」
エドガーの目が見開かれた。
ミラの顔にも、恐怖の中にほんの少しだけ——“助かるかもしれない”という色が混じる。
だが、その希望に釘を刺すみたいに、謎の声は続けた。
『その代わり、代償だ。君たちの記憶を少しずつもらうよ』
オットーの額に、青い筋が浮いた。
「……マジで?」
そして、次の瞬間。
「神かどうか知らねぇが——ぶっ殺してやろぉカァァァ!!」
拳を握りしめたオットーの前に、エドガーが手を突き出した。
「オットー! 落ち着きましょう!」
『そうだよ』
声は笑っているのか、いないのか。
温度のない、なのに“余裕”だけはある響き。
『僕には生も死もない。微風に、噴火に、木漏れ日に、津波に喧嘩を売ってもしかたないよ?』
エドガーは喉の奥で息を整え、視線を上へ向けた。
怒りを押し殺すというより、危険物を扱う手つきになっている。
「……記憶というのは?」
『ミラにはダリウスの記憶を少し。オットーにはジェリーとタッカーの記憶を少し。エドガー君には……お父さんの記憶を少しもらおう』
ミラの肩がびくりと跳ねた。
オットーの表情が、怒りのまま固まる。ジェリーとタッカー——その名前は、まだ胸の奥に刺さったままだ。
エドガーは乾いた笑みを浮かべる。嫌味と警戒を、同じ薄皮で包んだ顔。
「“少し”とはどのくらいですか? 定量的に説明してもらわないと困ります」
『少しは少しさ。ダリウスの失った記憶に釣り合うだけ』
その言い方が、いちばんタチが悪い。
ミラの喉が鳴った。
震えが止まらないまま、ようやく涙が出てきた。
「わ、私……それでいい……。ダリウスが……元に戻るんでしょ?」
オットーが振り向いた。
叫びは、怒りじゃない。止めるためのものだった。
「やめとけ! ミラ!」
白い部屋の真ん中で、三人の呼吸だけがうるさい。
オットーとエドガーは、言葉なしに視線を交わした。
そして、同時に——小さく、頷いた。
「おい。俺とエドガー——二人が代償を払う!」
言い切る声に、逃げ道はなかった。
ミラのほうを見ない。見たら、揺らぐ。
『もちろん。それでもいいよ』
無機質な返事が、白い部屋にすべり落ちる。
「だっ、だめ……!」
ミラが立ち上がろうとして、膝が抜けた。
恐怖と焦りと、喉の奥の息が絡まって、言葉が破裂する。
「絶対に……ろくなことにならない! 私も代償を払う! 私も——!」
ミラの肩に、そっと手が触れた。
エドガーが支えている。顔色はまだ悪いのに、声はやけに落ち着いていた。
「残念ですが、ミラ」
薄く笑う。いつもの“嫌味”より、ずっと優しいやつ。
「今回の試練は、受験資格が満四十歳以上の中年に限るんですよ」
「なにその——!」
ミラが文句を言いかけた瞬間、オットーがニヤリとした。
「そういうことだ」
その笑みは軽口なのに、目だけは真剣で、逃がさない。
「お前はこれまで、自分の命削って俺たちを支えてきた。……だからよ。
大人が、おっさんが、ここで背中見せなきゃ——釣り合いが取れねぇ」
ミラの喉が詰まる。
反論が出てこない。泣き声だけが、喉の奥でうずく。
『では』
謎の声が、淡々と宣告する。
『オットー君には盾を取り上げる。右手をもらうよ。
エドガー君からは魔法を取り上げる。目玉をもらうよ』
空気が一瞬で冷えた。
オットーは、ふぅ——と長く息を吐いた。
怒りでも、諦めでもない。腹を括る前の、最後の呼吸だった。
——確かに、俺たちは強くなった。
現役を超えて、第一線に戻れるくらいには。
でも、若い奴の席に、いつまでも尻を据えるつもりはない。
オットーは自分の右手を見る。
そこには痛風で腫れた夜も、盾を握って踏ん張った朝も、仲間の血の温度も、全部残っている気がした。
視線をずらして、ボロボロの盾を見る。
縁は削れ、革紐はちぎれかけ、それでも——何度も、何度も、誰かを守った形をしていた。
「……ありがとな」
ぽつりと落ちた声は、妙に優しい。
「たくさんの仲間を守ってやれた」
『どうする、オットー?』
オットーは顔を上げる。
目の奥に、しっかり灯が入っていた。
「その話——飲む」
エドガーは一度、瞼を閉じた。
——自分の人生は、魔法に捧げるだけの人生だった。
それでいいと、思っていた。
でもエリーと出会って、世界が広いと知った。そして人を愛することも。
知らないことは、恐ろしいだけじゃない。眩しい。面白い。腹が立つくらい、続きがある。
父の介抱を終えたら。
ダリウスに料理でも習おう。
火加減とか、塩の量とか、そういう“くだらない”で世界が変わることを——覚えてみたい。
エドガーは目を開け、天井を見上げた。
『エドガーは?』
答える前に、オットーが肩をすくめた。
代わりに言うように、でも、押しつけじゃなく。
「……いいでしょう」
ミラは立てないまま、首を振る。
「やだ……やだ……やだ……みんな……!」
指が床を掻く。声が震える。
止められないのが、いちばん怖い。
そして。
全員が、光に包まれた。
眩しさの向こうで、あの声が淡々と告げる。
『合格だ。おまけして、今回の試練の記憶は残してあげるよ』
その言葉が、祝福なのか。
それとも——最後の悪意なのか。
ミラには、まだ判断がつかなかった。




