第90話 まずは息切れ
太陽が高く上り、その周りは嘘みたいに綺麗な青が広がっている。
……まるで、この先に地獄が待っているなんて信じさせないみたいに。
次の階層へ続く階段の前で、ダリウスは腰に手を当て、全員の目を順番に見た。誰かが欠けていないか確かめるように——そして、欠けた“誰か”に触れないように。
「みんな、集まったな」
オットーは首を回し、背骨を鳴らしながら伸びをする。わざとらしいほど大きく息を吸って、吐いた。
「最後のボスだ。もう何が出ても驚かねぇぜ」
エドガーは魔導書をぎゅっと握りしめた。紙の束が軋む音が、やけに生々しい。
そのまま、乾いた口調で言う。
「これが終わったら……魔導院で新しい論文でも書きましょうか。
『中年冒険者の士気は根性で補えるのか——補えない』みたいな題で」
ウィットの形をした毒だった。
そして、その毒がいまのエドガーなりの“正気”でもあった。
ミラは深々と頭を下げる。
右頬まで這った石化の境目が、布の影でいっそう白く見えた。
「みんな、本当にありがとうね」
オットーはニヤッと笑った。軽口の仮面を、最後まで手放さない顔だ。
「まだ終わってねぇよ」
エドガーは肩をすくめる。いつもなら鼻で笑う仕草なのに、今日は妙に丁寧だった。
「ですね。ミラ。気にしなくていい、なんて言うのは難しいかもしれません。
でも私は——あなたに感謝してます」
視線を落とす。
言葉を選んでいるというより、胸の奥から引きずり出しているような間。
「歳をとって……父を言い訳にして、冒険に出ることを諦めた私に、きっかけをくれた。それで十分です」
オットーが胸をドン、と叩いた。鈍い音がした。
「同じくだ。この塔に来て、本当に美味い酒が何なのか思い出させてくれた……」
そこで少しだけ声が落ちる。
“魔神”という単語が、記憶の奥の血と火花を引っかく。
「……魔神の野郎にも、借りを返せたしな」
ダリウスはミラの顔を覗き込む。
笑わない。大げさに慰めもしない。けれど視線だけは、逃げない。
「そういうことだ、ミラ」
ダリウスは、あえて「ありがとう」を口にしなかった。
言えなかったわけじゃない。言葉は何度も喉元まで上がってきた。ミラが頭を下げた瞬間も、石化した頬を見た瞬間も——思わず手を伸ばしてしまいそうになった。
それでも、飲み込んだ。
塔に入る前のダリウスは、ずっと“まとめ役”だった。
隊列の綱渡し、矢やポーションの配分、野営の段取り、飯。背中を預けられることはあっても、自分が前に出ることはほとんどない。剣戟の火花の中心には、いつも別の誰かがいた。
「ダリウスがいるなら、帰れる」
そう言われたこともある。その言葉を誇らしく思う一方で——本当の最前線には立てていない、という感覚が、長いあいだ胸に刺さっていた。
だからこそ、この塔で力を手に入れたとき。
ようやく自分も、同じ列に並べた気がした。
オットーと肩をぶつけ、エドガーの詠唱の一拍を守り、刃の間合いのど真ん中で、同じ汗を流して戦えた。
もう、礼を言って線を引く必要がない。
「助けてもらった」じゃない。
「一緒にやった」になった。
感謝なんて言葉は、ときどき便利すぎる——とダリウスは思う。
胸に残った重さを綺麗に包んで相手に渡した途端、こっちの方まで少し軽くなってしまう。その“楽さ”が怖かった。
あれは仲間に向けるもんじゃない。貸しと借りだ。
「ありがとう」を口にした瞬間、目の前の相手がいつのまにか“返済相手”になってしまう気がする。そんな距離感じゃ、同じ速度で隣を歩けない。
自分が欲しいのは、帳尻の合った関係じゃない。
同じ場所で息切れして、どうでもいいことで笑って、這いずりながらも横に並んで次の階層へ行ける関係だ。
だから、言葉を飲み込んで、視線だけを渡す。
ミラは少し沈黙した。
小さく息を吸い、胸の奥で何かを並べ替えるみたいに目を伏せてから——顔を上げる。
「……うん!」
短いのに、力強い声だった。
それだけで、ダリウスは十分だった。
ダリウスは振り返り、次の階層へ続く階段を見た。螺旋の上は暗く、先が見えない。それでも足は、ちゃんと前を向く。
「さぁ行こう!」
螺旋階段を、一段ずつ踏む。
石は冷たく、靴底に微かな湿り気がまとわりついた。上へ行くほど風が通り、振り返れば——さっきまで彼らを包んでいた五十一階層の街並みが、もう玩具みたいに小さい。
煉瓦の屋根、露店の明かり、行き交うホブゴブリンの影。あの喧騒が、遠い。手を伸ばせば届きそうだったものが、階段を数十段登っただけで、別の世界みたいに切り離されていく。
——そして。
階層の中盤に向かう彼らの足取りは、ぷつりと糸が切れたみたいに、止まっていた。
ダリウスが、ついに膝に手をついた。背中が上下する。肩で息を吸い、吐くたび、喉の奥が乾いた音を立てる。
「はぁ……はぁ……長くないか……?」
弱音というより、確認だった。
——これ、長いよな? 俺だけじゃないよな?
そう言いたげな声。
オットーは、斧を杖代わりにして、石段に体重を預けた。汗が額から顎へ、顎から首へ、滝みたいに落ちる。顔は真っ赤だ。なのに口だけは、いつもの調子を手放さない。
「すまん……膝がムズムズしてる……これは爆発する兆候だ」
誰も笑えない。
笑うだけの酸素が、残っていない。
エドガーは、魔導書を抱えたまま、柱に肩をつけていた。顔色は真っ青で、唇がわずかに震える。呼吸は浅く速い。
「……この階段を設計したやつ、体力効率という概念が皆無ですね……」
乾いた悪態だけが、彼の限界を一番雄弁に語っていた。
その一方で——
最前列のミラは、まるで別の生き物みたいに軽い。
すいすい登って、数段先でくるりと振り返り、ステップを踏むみたいに、軽く二段飛ばしまでしてみせる。
「みんな、何してるの? 早く行くよ」
本当に不思議そうだった。責めているわけじゃない。純粋な疑問。
その無邪気さが、逆に残酷で、そしてどこか救いでもあった。
ダリウスは、息を整える暇もないまま、右手を伸ばした。
止めるというより、お願いに近い仕草だった。
「……ちょっと待て。休憩を……」
声が震える。情けなさではなく、単純に喉が枯れている。
石段の真ん中で、四人の時間が一瞬だけ止まる。
上には最後の試練。下にはもう戻れない距離。
それでも彼らは、いつも通りだった。
——最後の試練が待ち構えようと、この中年たちは、まず息切れする。
そして、息切れしたまま、ちゃんと前に進む。




