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【完結済】息切れ・痛風・老眼おっさんパーティ、“老齢の塔”に挑む 旧:塔の頂きへ  作者: けんぽう。


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第88話 未来に連れて行って


 宿の夜は薄い。

 壁の向こうの笑い声も、階下の食器の音も、どこか遠い。ランタンの火だけが、机の上に小さな島を作っていた。


 エドガーは部屋の中心で、魔導書の手入れをしていた。

 濡らしすぎない布で革表紙を撫で、角の傷を指で確かめる。いつもなら落ち着くはずの手順が、今夜は、ひとつも心を静めてくれない。


 ――エリー。


 名前だけが、胸の奥に残っている。

 理由も、形も、顔もないのに。そこだけ熱い。


 机の端に置かれた小瓶が、ランタンの光を吸って琥珀色に沈んでいる。

 握れば簡単だ。開けるのも簡単だ。――飲むのだって、たぶん。


 思い出したい。

 思い出したくない。


 その二つが、同じ場所で殴り合っていた。


 次の瞬間だった。

 指先が震えたわけでも、何か音がしたわけでもない。けれど、世界が一拍、裏返る。


 ——「少しでも私を“未来”に連れて行って欲しいから……最後に足掻くわ」


 腕の中の重み。

 青い髪。湿った血の匂い。

 体温が、目に見える速度で遠ざかっていく感覚。それでも視線だけは、確かに彼を捉え続けていた。


 ——「フォルス・ジェルゥ・キンドゥス・アメル――《想い紡ぎ》」


 息が詰まる。エドガーは反射的に喉元を押さえた。

 次の映像が、間髪入れずに叩きつけられる。


 ——「……でも、こう言ったわよね。『魔術師は物語を紡ぎ、私たち魔法使いはその物語をなぞる』って……」


 薄いピンクの唇の端が震えていた。

 その震えが、笑いなのか、泣きなのか、わからないまま。


 ——「……あの言葉、友達が帰ってきたみたいで……本当に嬉しかった」


 胸の奥が、針で突かれたみたいに痛む。

 痛いのに、温かい。意味がわからないのが、いちばん怖い。


 さらに、もう一つ。


 青髪のエルフは、幸せそうに微笑んでいた。

 その笑みが、やけに綺麗で――そして、やけに残酷だった。


 ——「最後の魔法よ。じゃあね……愛しい魔法使い……」


 そこで、ふっと途切れた。

 急に宿の薄い夜が戻ってくる。ランタンの火が揺れている。自分の呼吸が荒い。机に落ちた汗が、墨みたいに広がった。


「……エリー」


 声が掠れた。

 理由はない。根拠もない。なのに、確信だけがあった。


「エリー!! エリー!」


 椅子が軋む音すら遠い。

 エドガーの手は、もう迷っていなかった。いや、迷いを“踏み潰す”みたいに動いた。


 琥珀色の瓶の栓を引き抜く。

 鼻を刺す、薬草と金属のような匂い。


 一気に流し込んだ。


 喉を焼く熱。胃の底に落ちる冷たさ。

 その両方が同時に来て――次の瞬間、頭の中が裂けた。


 記憶が、雪崩のように流れ込んでくる。

 視界の奥で、白い光が爆ぜる。


 痛みだった。

 痛み、という言葉が薄っぺらくなる種類のそれ。


 全身の皮膚という皮膚が、内側から焼け爛れる。

 骨という骨を、鑿で削られていく。

 眼球を掴まれ、引き抜かれそうな、理解不能の圧力。


 それでも足りない。表現が、追いつかない。


「ぐぅうううううう……!」


 声にならない声が、喉の奥で潰れた。

 エドガーは椅子ごと傾き、床へ転がり落ちる。肩が板張りに叩きつけられ、息が抜けた拍子に、机の端にあった瓶が弾けた。


 ——パリン。


 琥珀色の液体が、夜の床に広がる。甘いようで鉄臭い匂いが、部屋いっぱいに噴き出した。

 視界が白黒に滲み、意識が遠のく。


 その遠さを、外から殴り返す音が来た。


 ドン、ドン、ドン——!


「エドガー! エドガー! 大丈夫か!?」


 ダリウスの声が、扉を震わせる。

 エドガーは返事をしようとして、喉が閉じた。空気が入らない。肺だけが必死に動き、絞り出せたのは、獣みたいな呻きだった。


「……がぁ、あ……」


「開けるぞ!」


 鍵が軋み、扉が乱暴に開く。

 飛び込んできたダリウスが見たのは、床の上でのたうつ男だった。


 目が血走っている。

 唇は紫に近い色で、喉元が痙攣している。呼吸しているのかどうかすら、見分けがつかない——“詰まっている”という事実だけがはっきりしていた。


「……おい……!」


 遅れて足音が重なる。

 オットーとミラが駆けつけ、扉口で凍りついた。


「おいおい! 尋常じゃねぇぞこれ!」


 エドガーの耳には、声が遠い。

 近いのは、頭蓋の内側を破壊するような“流入”だけだった。


(……記憶が……来る……! ダメだ……失神したら、そこで終わる……)


 身体が勝手に丸まり、指が床板を掻く。

 このまま意識を手放したら、全部持っていかれる。取り戻しかけたものが、また塔に食われる——本能がそう叫んでいた。


(……繋げ。繋げ……繋ぎ止めろ……!)


 エドガーは、のたうち回りながら右手を伸ばした。

 左手の中指を、ぐっと掴む。


「おい、何する気だ——!」


 ダリウスの声が割れた瞬間。


 ——ゴキ。


 いやな音がした。湿った木が折れるような、骨が折れる音だった。


「——っ!!」


 痛みが、稲妻みたいに脳へ跳ね上がる。

 その激痛が、逆に意識の縁を引っ掴んだ。落ちかけた闇が、ぎりぎりで止まる。


 ダリウスが飛びつき、エドガーの左手首を押さえる。


「エドガー! 何を!!」


 エドガーは涙と涎で濡れた顔を歪めたまま、笑おうとした。

 歯の隙間から、かすれた息が漏れる。


「ぐ……ぅう……意識が……飛びそうなもので……少し……気付けを……」


「バカ! そんな——!」


 ダリウスの手を、エドガーは乱暴に払いのけた。

 そして、今度は薬指に手をかける。


 指が震える。視界がまた白くなる。

 それでも、止めない。


 ——ゴキ。


 二度目の嫌な音。

 左手の指が、ありえない方向へ曲がった。


 エドガーは息を吸おうとして、喉が鳴るだけだった。

 それでも目だけは、闇へ落ちるのを拒むように、ぎらぎらと開いていた。


 オットーが、這うように一歩踏み出した。巨体の影が揺れて、床に転がる琥珀色の飛沫を踏みそうになる。


「無茶だ! エドガー! もうやめろ!」


 叫びは祈りに似ていた。止めたいのに、止められない——そんな声だった。


 だが、床で痙攣するエドガーは、獣みたいに唸り返す。唾が糸を引き、目だけが異様に冴えている。


「うるさい……! ぐ……必要なんです……!」


 息が途切れ途切れになる。喉が閉まって、言葉が引っ掛かる。それでも、必死に繋いだ。


「……続けさせて……エリーを……一緒に……!」


 その名前が出た瞬間、部屋の温度が一段落ちた気がした。

 オットーが歯を食いしばる。


「……くっ……!」


 ミラが、ネックレスへ指をかけた。石化が右頬まで広がり、口元が引きつっている。それでも一歩前へ出た。


「もう我慢できない! 加護で眠らすよ!?」


 “助ける”という選択肢を、彼女は差し出した。

 だが、それをオットーが低い声で叩き落とす。


「……ミラ」


 名前を呼ぶだけで、空気が締まる。


「エドガーは“必要”と言った。続けると言った。……見守る」


 ミラが唇を噛む。涙が溜まるのに、こぼれない。


「ミラ。お前は——エドガーの覚悟から目を逸らすな」


 残酷な命令だった。

 けれど、優しさでもあった。


 ダリウスが拳を握りしめた。指の骨が鳴るほど強く。止める手は出さない——その代わり、逃げ道も与えないと決めた顔だった。


 部屋の中心で、エドガーが何度も意識の縁から滑り落ちかける。

 落ちるたびに、痛みで引き戻す。


 嫌な音が続く。

 胸の奥が縮むような、見てはいけない音。


 誰も目を逸らさない。逸らせない。


 ——そして、どれだけの時間が経ったのか。


 エドガーの喉が、ようやく空気を通した。ひゅう、と掠れた息が入る。呼吸が戻る。それは勝利の合図でも、救いでもなかった。ただ——“生きている”という証明だった。


 次の瞬間。


 エドガーの顔が、くしゃくしゃに歪んだ。

 子どもみたいに、涙が溢れた。堰を切ったように、ぼろぼろと落ちる。


「……エリー……エリー……!!」


 呼びかける声は、戻ってきた記憶そのものだった。

 ダリウスが息を呑み、喉を鳴らす。


「記憶が……戻ったのか!?」


 エドガーは答えられなかった。

 ただ、深く頷いた。うずくまり、肩を震わせて嗚咽を漏らす。泣き声が、床を叩くみたいに響いた。


 オットーが、ダリウスの肩に手を置く。重い手だった。戦いのあとに残った、重さ。


「……一人にしてやろう」


 ミラは震える指で、ポーションをベッドの上に置いた。まるで、お守りみたいに丁寧に。


「ポーション置いとくね。……絶対に飲んでね」


 返事はない。

 それでもミラは、言い切った。


 ダリウスは最後に一度だけ、床のエドガーを見た。

 薬を渡したのは正しかったのか。間違っていたのか。答えは出ない。ただ胸の奥に、どうしようもない塊が残る。


 そして三人は、部屋を出た。

 扉を閉める直前まで、エドガーの泣き声は途切れなかった。


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