第87話 祈りと乾杯
エドガーをテントの奥へ寝かせると、野営地は急に“戦闘が終わった場所”の顔をした。
血の匂い。焦げた石。折れた矢。ランタンの灯りだけが、やけに現実的に揺れている。
ミラは立ち尽くしたまま、ゆっくり振り返った。
布の上に仰向けのオットー。添木代わりの弓が脚に括りつけられていて、ありえない角度を“無理やり正しそうとしている”のが痛々しい。
「……オットーの怪我、どうしよう。私の加護で治そうか?」
その言葉に、ダリウスがすぐに反応した。
振り向いた目が、ミラの石化した頬に止まり――ほんの一瞬だけ、表情が曇る。悲しみを押し込めるみたいに、口角が固くなる。
「ダメだ」
きっぱりとした声。
でもその強さは、拒絶じゃなくて、守るための強さだった。
ダリウスはまっすぐミラを見つめ、言い直すように続ける。
「ミラの力は――“今”使うべきじゃない」
ミラは反射的に唇を噛んだ。
“今”じゃない。
じゃあ、いつならいいの。
そう言いかけて、喉の奥で引っかかった。
オットーが、唯一まともに動く左手をひらひらさせた。やけに軽い仕草なのに、脂汗で濡れた顔が全部を暴露している。
「もんだいねぇよ……ポーション飲んで、そうだな……この怪我だったら、二、三日でとりあえず歩けるようになる」
冗談みたいな口ぶり。
でも声の端が、痛みで少しだけ震えていた。
ダリウスは顎に手を乗せ、短く考える。戦闘中の指揮官の顔に戻っていた。
「この先、セーフエリアも近い。歩けるようになったら、そこで治癒師に見てもらおう」
決定。
それ以上の議論は要らない、という感じでもあった。
ミラは頷いた。
頷いたのに、胸の奥がざらつく。
助けたい。今すぐ。
ミラは石の頬をそっと指で触れた。冷たい。硬い。
その感触が、決意を削るみたいで怖かった。
*
三日後――五十一階層。
石段を上り切った瞬間、空気が変わった。
湿った洞窟の匂いでも、血と鉄の混ざった戦場の匂いでもない。焦げた粉塵の代わりに、焼き立てのパンと油の香りが鼻をくすぐる。
レンガ造りの街並みが、視界いっぱいに広がっていた。
背の高い建物は五階ほどまで積み上がり、窓からは洗濯物がはためく。大通りには露店が並び、ホブゴブリンが肩に木材を担いで行き交い、リザードマンの店先ではゴブリンが真剣な顔で食材を選んでいた。
そして――スライムが、どこにでもいる。ぷるぷると身体を揺らしながら、まるで当然の“街の仕事”みたいに地面を磨いている。
活気。
人の声。
生きている場所。
ダリウスは、思わず呆けたように町を見回した。
「……試練の間じゃない……」
その言葉を、オットーが長い息で受け止めた。吐き出す息に、痛みの残滓と、安堵が混ざっている。
「ついに来たか」
エドガーは細めた目で、遠くの看板や路地の奥まで観察してから、ぽつりと落とす。
「……長かったような、短かったような」
言い終えると、三人は言葉を要らないものとして置いた。
拳を軽く合わせ、肩が触れる距離に寄る。
ここまでの“全部”が、その一瞬に詰まっていた。
「えっ、なに? どういうこと!?」
ミラだけが、置いていかれたみたいに目を瞬かせる。
右頬の石化が、光を鈍く弾いた。
ダリウスはミラを見て、少しだけ笑う。疲れの底に残った、隊長の顔。
「ダンジョンのセーフエリアが変わるってことはだな――」
オットーがわざとらしく力瘤を作る。治りかけの身体でやる動作じゃないのに、あえてやる。
「最後のボス部屋の前ってことだ」
エドガーは微笑んで、いつもの調子を取り戻したふりをした。
「最後に休憩させてあげようという、ダンジョンのありがたい優しさですよ」
ミラは「優しさ?」と口の中で反芻した。
*
まず彼らが向かったのは、宿でも店でもなかった。
埋葬だった。
街外れ、土が柔らかい場所を選び、ダリウスがシャベルを握る。レンガの街を背に、土を掘る音だけが続く。
彼の動きは淡々としているのに、土の一掬い一掬いが重い。
「……このくらいだな」
穴が整うと、エドガーとオットーが布包みを慎重に抱え上げる。
乱暴に扱えば、何かが壊れてしまう気がした。壊れるものなんて、もう残っていないのに。
静かに、奥へ。
ダリウスがミラへ視線を送る。
「ミラ、祈りを頼む」
ミラは短く息を吸った。
いつもの彼女なら、もっと勢いで返事をしただろう。だが今は、声が落ち着いている。落ち着かせている。
「……わかった」
まだ動く左腕で、女神のネックレスを握りしめる。
石化した頬が、祈りの言葉を邪魔するみたいに冷たかった。けれど彼女は目を逸らさない。
「女神よ、命をめぐらせる大いなる輪の中へ、この魂を還し給え。
風となり、土となり、星の光となって――この世界を静かに見守る存在となりますように。
別れは終わりではなく、ただ形を変えるだけ」
言葉は澄んでいて、よく通った。
泣き声の代わりに、祈りがそこに立った。
ミラが、静かに言う。
「……終わったわ」
エドガーは一歩下がって、深く礼をした。
「ありがとうございます」
沈黙が落ちる。
風がひとつ、土の匂いを運ぶ。
その沈黙を割ったのは、オットーだった。
やけにぶっきらぼうで、やけに優しい声。
「……飯にでもするかぁ」
ダリウスは、その意図を分かっている顔で頷く。
「……そうだな」
泣く代わりに、食う。
祈る代わりに、腹を満たす。
それが彼らの、前へ進むやり方だった。
レンガの街の喧騒が、少しだけ近づいた。
*
リザードマンの料理屋は、街の角にくっつくように建っていた。
煉瓦造りの壁は年季が入っていて、ところどころ漆喰が剥がれ落ち、素の赤が覗いている。なのに薄暗さはなく、店内は熱と匂いと声でぱんぱんだった。
鉄鍋が鳴る。
皿がぶつかる。
笑い声に、言い争いの声まで混ざって――それが全部「生きてる音」だった。
「お、ここ当たりだな」
オットーがそう言った瞬間、ちょうど運ばれてきた。
ペンネ。
湯気の向こうで、ソースがつやつやと光っている。粗挽きのひき肉がごろりと残り、刻んだパセリが緑の針みたいに散っていた。香りだけで、胃が勝手に口を開ける。
ミラは目を丸くして、思わず大きく口を開けた。
「わぁ……!」
そして慌てて、右手に装具をつける。まだ慣れない動きでも、食べるための準備だけは誰より速い。
オットーはジョッキにワインを注ぎながら、にやりとする。
「なかなか美味そうだな」
全員がフォークを突っ込み、口に放り込んだ瞬間――
最初に走ったのは、パセリの青い香りだった。舌の上を軽く駆けて、次にひき肉の旨みがどっと押し寄せる。脂は重くない。煮詰めた甘みと塩気がちょうどよく、噛むほどに「肉を食べてる」手応えが増していく。
ペンネの茹で加減がまた絶妙だった。
歯を入れると、外はつるりと弾むのに芯がふっと残る。そこでソースが絡みつき、あとから――深い、渋い甘さが顔を出す。
赤ワインだ。
それも、隠し味というより“裏でずっと支えてる”やつ。香りがほんのり鼻へ抜けて、味の底を太くしていた。
ミラは立ち上がりそうな勢いで、地団駄を踏む。
「んーーーーー! これはおかわり確定だよ!」
その明るさに、エドガーの胸が、なぜかチクリと痛んだ。
理由はわからない。わからないのに、痛みだけが確かにそこに残る。彼は笑うふりをして、フォークを持つ手に力を込めた。
ダリウスはナプキンで口を拭きながら、いつもの調子で釘を刺す。
「あまり食べすぎるなよ?」
ミラは口いっぱいに頬張ったまま、勢いよく頷いた。
――説得力は、ゼロだった。
*
食後。
皿が下げられ、店の喧騒が少しだけ遠のいたころ――オットーが、席を立ちかけるウェイターのリザードマンに声をかけた。
「すまねぇ。グラスを三つ……いや、四つくれ」
真剣な目だった。冗談の入り込む余地がない声だった。
リザードマンが無言で頷き、すぐに厚手のグラスを運んでくる。
オットーはそれを受け取ると、迷いなく四つ並べ、ボトルを傾けた。赤い液体が、ゆっくりと底を満たしていく。
エドガーがため息まじりに肩をすくめる。
「オットー。お酒は一日二杯までですよ」
「そうだぞ」
ダリウスも少しだけ眉をひそめた。苛立ちというより、疲れと気遣いが混ざった顔だ。
「ミラは神学校の生徒だろ」
だがオットーは、注ぐ手を止めなかった。
低い声で、きっぱり言う。
「わかってる」
そして、息を吐く。
「でもな。けじめをつけなきゃいけねぇ」
その言葉が落ちた瞬間、卓の空気が変わった。
誰も、続きを急かせなかった。外の喧騒がまた遠くなる。ここだけ、別の時間が流れ始めたみたいに。
オットーはミラの方へ視線を向け、頭を下げるほどの勢いで頼んだ。
「ミラ。少し口をつけるだけでいい。……付き合ってくれ」
ミラは意味が全部わかったわけじゃない。
でも、オットーの声が“遊び”じゃないことだけは、痛いほど伝わった。
「……うん」
短く返して、グラスに手を添える。
オットーはグラスを掲げた。
その手は、もう震えていなかった。戦いのあと特有の、妙に静かな強さだけが残っていた。
「――ジェリーに」
名前が出た瞬間、空気が薄くなる。
そこにいた三人が、同じ“顔”を思い出す。胸の奥が熱くなる。
ダリウスも、ゆっくりとグラスを上げた。
「……タッカーに」
その声には、勝ち誇りはなかった。
ただ、“生き残った”という安堵と、“やっと返せた”という静かな嬉しさが沈んでいた。
エドガーは二人を見て、それから、少しだけためらって口を開く。
「……エリーも……いいですか?」
オットーが、まっすぐに見返す。
迷いのない目で、うなずいた。
「当たり前だ」
エドガーは、ほんの少しだけ微笑んで――グラスを上げる。
「……エリーに」
「乾杯」
四つのグラスが、軽く触れ合う。
高い音じゃない。小さくて、優しい音だった。
エドガー、ダリウス、オットーは、一息で飲み干した。
ミラは小さく口をつけるだけで、そっと戻した。義務じゃなく、“参加”の仕方を選んだ。
しばし、沈黙が流れる。
その沈黙は、重くなかった。
戦いのあとにしか来ない、やり切った人間の静けさだった。
血と叫びと痛みが、ようやく体の外に出ていくまでの、短い休憩。
オットーは空になったグラスを見つめて、ぽつりと言った。
「こんなに美味い酒は……もうないぜ……」
嬉しいからじゃない。悲しいからでもない。
両方が混ざって、どっちとも言えないからこそ、そう言うしかなかった。
ダリウスはグラスの縁を指でなぞりながら、静かに頷く。
「……そうだな」
エドガーも無言で頷いた。
胸の奥が痛い理由は、まだ言葉にならない。けれど今は、痛みを“痛み”のまま置いておけた。
オットーはグラスから目を離さず、低く確かめるように言った。
「俺たち……やったんだよな。魔神を」
それは勝利宣言じゃなかった。
“あいつがいない世界が、今ここにある”という確認だった。
タッカーとジェリーの背中に、ようやく追いつけた気がした。
エドガーが、優しく笑う。
「えぇ。帰ったら英雄譚でも作りましょう」
その言い方が、妙に真面目で、妙におかしかった。
ダリウスが小さく笑う。
「なんだよそれ」
――そこで。
沈黙の横で、別の戦争が起きていた。
ミラが床を叩き、水に手を伸ばし、ガブガブと飲んで口を洗い流す。
舌に残る苦味。喉が熱い。目が涙でうるむ。
「ゔぇえええ……! オットー、これ毎日飲んでるの? 苦行だよ!」
オットーは、ようやく“いつもの顔”に戻って、にっこりする。
「ミラには少し早かったか。大人の嗜みだぜ?」
ミラは四つん這いのまま、睨むように言い返した。
「信じられない! こんな苦行の上に痛風になるんでしょ!?」
ダリウスが笑って、ミラに手を差し出す。
「ミラもそのうちわかるさ。もう少し大きくなって、卒業したら――また乾杯しよう」
ミラはその手を取って立ち上がりながら、まだ顔をしかめている。
でも、その目だけは少しだけ柔らかかった。
――仇は討った。
だから、笑える。
だから、静かに泣ける。
グラスの底に残った赤い光が、卓の上で揺れていた。
*
料理の皿が下げられ、一息遅れてコーヒーが運ばれてきた。
深煎りの香りが、店の喧騒に薄い膜を張る。四人は黙って口をつけた。熱と苦みが、ようやく現実を身体に戻してくれる。
ダリウスが意を決したようにカップを置く。
「エドガー。……あの“記憶を戻す薬”。使わないか?」
エドガーも同じようにカップを置いた。指先が、ほんの少しだけ震えている。
「残しましょう。最後のボスがいます。……“もしも”のために、取っておくべきです」
「今がその“もしも”じゃねぇのか?」
オットーは椅子に深くもたれて、頭の後ろで手を組んだまま言う。いつもの軽口に聞こえるのに、目だけは真面目だった。
ミラはスプーンをいじりながら、言葉を探すように視線を泳がせる。うまく言えないのが悔しい、という顔で。
「……そうだよ。きっとエドガーにとって、すごく大切な人なんだと思う。思い出したら……もっと苦しくなるかもだけど」
エドガーは返事をしなかった。できなかった。
ただ、コーヒーの表面に映る自分の顔が、他人みたいに見えた。
ダリウスはふっと笑って、テーブルの上の小さな瓶――琥珀色の液体を、指で押してエドガーの前へ寄せた。
「お前に任せるよ。……だから、薬だけは持っておいてくれ」
押しつけじゃない。逃げ道もある言い方だった。
それが余計に、胸に刺さる。
エドガーはしばらく瓶を見つめてから、そっと手に取った。
「……わかりました」
短い返事。けれど、受け取った重みはずしりとした。
ダリウスが、場を切り替えるみたいに手をパン、と叩く。
「よし。となれば、あとは宿だな。オットーの怪我の回復もあるし、しばらくここに滞在しよう」
「賛成。俺は治癒師のとこで泣いてくる」
オットーが言って、ミラが一瞬だけ笑う。
笑った直後、なぜか少しだけ目を伏せた。
会計を済ませて店を出ると、レンガの街の空気は夕方の匂いがしていた。
ダリウスはオットーを連れて治癒師のもとへ向かい、エドガーとミラは早めに宿へ戻る。
別れ際、エドガーはポケットの中で瓶を握った。
ガラス越しに、琥珀色の液体が揺れる。
――まだ飲まない。
でも、もう手放せない。
そんな顔を、ミラは横目で見ていた。何も言わず、歩幅だけ少し合わせて。




