第86話 失われた名前の重さ
ボス部屋の隅に、粗末な野営地が作られていた。
焚き火は小さく、火の粉が天井に届かないよう抑えられている。血と焦げと湿った石――戦いの匂いだけが、まだ居座っていた。
その中心に、丁寧に布で包まれた遺体が横たわっている。
布の端はきっちり折られ、皺すら整えられていた。乱暴に扱えば、何かが壊れてしまう気がして。誰も、それ以上近づけなかった。
オットーは重症のため、少し離れた場所で仰向けに寝かされている。
落ちていた弓を流用した添木が、折れた足を無理やり支えていた。脂汗が首筋に光り、呼吸は浅い。
ダリウスが布の上に置いていた手を、そっと離した。
神妙な顔で、短く言う。
「……これでいいな……」
ミラが、おずおずと周りを見渡した。
右の頬の石化が、焚き火の光を鈍く弾く。彼女は遺体の方を見て、声を落とす。
「……だれか、この人思い出せる? きっと仲間だったんだよね?」
空気が、きゅっと縮む。
オットーは仰向けのまま、喉の奥から搾り出すように呟いた。
「…………すまねぇ」
謝る相手も、理由も、全員がわかっているのに。
だからこそ、誰も返事ができなかった。
椅子に座るエドガーだけが、俯いたまま、ぼそりと漏らした。
「……エリー……」
その名は、落ちた小石みたいに静かなのに、胸の奥まで響いた。
ダリウスがエドガーを見る。目を見開き、声が裏返る。
「えっ?」
エドガーは俯いたまま、確信もないのに言い切るように続けた。
「……エリーという名前だった気がするんです」
その瞬間、エドガーの胸にズキッと痛みが走った。
刺すような痛みのあと、遅れて悲しみが広がっていく。――理由がわからない。思い出せない。なのに、悲しいだけは本物だった。
エドガーの顔が歪む。
とても悲しくて、どうしようもないやるせなさが込み上げているのに、その感情をどこへぶつければいいのかわからない――そんな顔だった。
ダリウスは上を向いた。天井の闇を見上げるようにして、息を吐く。
「……エリーか……」
そして、布包みの遺体に視線を戻す。
仲間として扱う、と決めるために。
「きっと俺たちの仲間だったんだ。このままセーフエリアまで上がって……埋葬しよう。……丁重に」
重たい沈黙を、エドガーが割った。
三人の顔を順に見渡し、まっすぐに言う。
「……エリーの手がかりが掴めるかもしれません。みんな、一度――荷物を確認しませんか?」
ダリウスはわずかに口元を上げた。
その笑みは明るいというより、「やれることをやる」と自分に言い聞かせるためのものだった。
「そうだな。やれるだけは、やってみよう」
オットーが布の上で、気まずそうに喉を鳴らす。
「おっ、おう……」
小さなテーブルが引き寄せられ、ダリウスは自分の荷を無言で並べていく。
ポーション。包帯。火打ち石。乾いた布。――そして、エドガーが魔法で凍らせた大量の食材が、白い霜をまとって転がった。
「俺の荷物はこんなもんだ。……何かありそうか?」
ミラは肩をすぼめて、申し訳なさそうに首を振る。
「私は……心当たり、ないよ……」
オットーも机を覗き込むようにして、低く言う。
「俺も……だな」
ミラが小さく息を吸い、次の番を指さした。
「次は……オットーね」
オットーは口笛を吹くふりをして、視線を泳がせる。
わざと軽く、わざと適当に。
「いや俺は……ないんじゃないかな」
その瞬間、エドガーの眉がぴくりと動いた。
嫌な予感が、背中を冷たく撫でる。
「……ちょっと、失礼しますよ」
「おい、ちょっ――」
オットーが起き上がろうとして、すぐに顔を歪めた。
骨折した足が、断裂した右腕の筋が、まとめて悲鳴を上げる。
「いってぇ!!」
だがエドガーは止まらない。
荷袋の口を開き、奥へ奥へと手を突っ込む。
――ごとり。
――からん。
出てきたものを見た瞬間、全員の身体が固まった。
酒瓶、酒瓶、酒瓶。
しかもただの酒じゃない。液体の奥に、異物が沈んでいる。
ラミアの尾。
ゴブリンの右腕。
トレントの枝腕。
そして、名状しがたい色の“魔物酒”が、何本も。
驚きと、別種の寒気で、ミラの肩が小さく震えた。
ダリウスは無言で額を押さえる。
エドガーだけが、深々とため息をついた。静かに、しかし刺すように言う。
「……黙って飲んでましたか? 一日二杯の約束ですよ?」
「ちげぇよ!」
オットーが慌てて声を張る。言い訳が必死すぎて、余計に怪しい。
「帰ったら飲もうと思ってたんだ! まじだ、女神に誓ってもいい!」
ダリウスが、疲れ切った息を吐いた。
「……次はエドガーだな」
エドガーは小さく頷き、自分の荷袋を引き寄せた。
中身を確かめる手つきは丁寧――のはずだったのに、最初に出てきた“それ”を見た瞬間、指が止まった。
クマの刺繍。
やけに愛嬌のあるそれが、布地の端でこちらを見上げている。
エプロンだった。
エドガーは、それを両手で持ち上げ、首を傾げる。
「……おかしいですね。こんなもの、入れた記憶が――っ」
言葉の途中で、胸が跳ねた。
跳ねたというより、心臓が内側から殴られたみたいに暴れ出す。血管が膨らむ感覚すらわかる。
目の奥に、散らかった部屋が一瞬だけ浮かんだ。布切れ。針。糸。――誰かの笑い声。
そこまでで、像が途切れる。
エドガーは唇を噛み、エプロンを乱暴に畳んで荷袋へ戻した。
嫌な汗が背中を伝う。
「……次に行きましょう」
ダリウスが、眉を寄せる。
「おい。大丈夫か?」
エドガーは顔を上げた。
目つきだけが、急に鋭くなる。なぜか“焦り”だけが先に立つ。
「……やらなきゃいけない気がするんです」
次に出てきたのは、小さな瓶だった。
中で揺れる液体は琥珀色。ランタンの火を含んで、やけに綺麗に光る。
ミラが覗き込み、首を傾げる。
「これ……薬?」
エドガーは瓶を見つめたまま、淡々と答えた。
「これはですね。塔に吸い取られた記憶を――取り戻すものです。……どうせ、とんでもない副作用があるはずです」
「は!?」
ダリウスの声が裏返る。
「どこで手に入れた!?」
エドガーは、問いを受けて、首を傾げた。
それが怖かった。困惑ではない。“空白”だ。
「どこで……?」
次の瞬間だった。
胃が、ひっくり返った。
強烈な吐き気が喉まで駆け上がり、エドガーは反射的に口を押さえてうずくまる。視界が揺れる。
ランタンの光が揺れて、渓谷の冷たい風が頬を撫でる――感触だけがあるのに、そこに“渡した相手”がいない。
「エドガー!!」
ミラが駆け寄る。
オットーも仰向けのまま、目を剥く。
「おいおい、大丈夫か!?」
エドガーは荒い息を吐き、指の隙間から言葉を絞り出した。
「……えぇ。問題ないです……次を」
「問題ないわけないだろ!」
ダリウスが机に両手をつき、身を乗り出す。
「一旦休憩しよう――」
「次を!!」
エドガーの声が、部屋に刺さった。
声量じゃない。迫力だ。逃げ道を塞ぐ強さ。
ダリウスが言葉を失う。止めたい、でも止めるのが正しいのか分からない――そのジレンマが顔に出る。
「エドガー……」
エドガーは、自分でも理由の分からない焦りに、喉の奥を焼かれながら言う。
「わからないんです……わからない……けど、やらないといけないんです!」
沈黙を破ったのは、寝転んだままのオットーだった。
声は低く、真面目だった。
「ダリウス。……やらしてやれ」
ダリウスは額に手を当て、俯く。
そして――短く、諦めるように頷いた。
「……わかったよ」
ダリウスの荷から出てきたのは、一冊の古びた本。
紙の縁が摩耗し、背表紙が汗と時間で黒ずんでいる。
エドガーが奪うように手に取る。
「――魔導書の原本!?」
指先が震える。
表紙の文字を、記憶を探るみたいに、ゆっくりとなぞった。
「……『楽しいお裁縫・全編』……?」
その瞬間。
青い髪のエルフの顔が、脳裏に滲んだ。勝ち誇ったような、でもどこか寂しい表情。――思い出せそうで、思い出せない。
次の瞬間、脳が焼けた。
心臓が脈打つたび、後頭部をハンマーで叩かれる。
どん、どん、どん。鼓動が上がるほど痛みも増し、世界が白く滲む。視界の端から崩れていく。
「――っ」
声にならない声が喉で潰れた。
エドガーの膝が折れ、身体が横に倒れる。
床に、鈍い音がした。
「エドガー!?」
ミラの声が裏返った。
床に倒れたエドガーは、指先ひとつ動かさない。白目をむいているわけではないのに、そこに“いない”感じがした。
ダリウスが駆け寄り、膝をついて喉元に指を当てる。胸の上下を確かめ、耳を近づけて呼吸の音を拾う。
「……呼吸はある。たぶん気絶してるだけだ」
その「たぶん」が、空気をさらに重くした。
ミラは唇を噛み、震える手で自分の荷物を漁った。
ポーション。包帯。――違う。いま欲しいのは、“何が起きているか”の手がかりだった。
指が、紙の束に触れる。
一冊のノート。
見覚えのない、でも妙に“自分の字”の癖がある背表紙。
ミラはそれを引き抜き、タイトルを読んで――息が詰まった。
『恋愛警察の巡回記録』
「…………え?」
喉から抜けた声は、悲鳴より小さかった。
だが、ページをめくる手は止まらない。止めたら、怖い。
——エドガーはまだ恋心に気づいていない
ミラの喉が鳴った。
もう一枚。
——エリー頬を赤らめた。エリーもまんざらじゃなさそう
胸が、きゅっと縮む。
そして、さらにページを進める。
——渓谷で二人は急激に距離がつまった。もう私の出る幕ではないみたいだ。あとはお互いの気持ちを確認するだけ。
文字が、紙の上で踊った。
ランタンの灯りがにじむ。目が熱い。視界がぼやけて、行をなぞる指先だけがやけに冷たい。
ダリウスが、深刻な顔で近づいてきた。
「……どうした?」
ミラは答えられなかった。
代わりにノートを差し出す。渡す手が、情けないほど震える。
ダリウスが覗き込み、無言のままページを追う。
読み終えたところで、彼はゆっくり息を吐いた。短く、痛い息だった。
ミラはようやく声を見つける。けれどそれは、“思い出せない”という事実が喉を塞いで掠れていた。
「思い出せないけど……でも……」
言葉が途切れそうになる。ミラはノートを胸に抱き締め、必死に続けた。
「エドガーにとって……とても……とても大事な人だったんだよ。……それだけは、わかる。……それはもう、取り返しが効かないことだったって……」
ダリウスは、返事の代わりにもう一度息を吐いた。
そして、倒れたエドガーへ視線を戻す。
「……そうだな。とりあえず、エドガーをテントに運ぼう」
ミラは小さく頷いた。
頷いたのに、胸の中で何かが崩れていく。
(好きな人を思い出せないなんて――)
言葉にならない。
だって、ここまで来る途中で、ひとり死んだのだ。自分を治すために。
そしてもうひとりは、目に見えない傷を負わされた。たぶん、一生治らないやつを。
ミラは拳を握った。爪が掌に食い込む。
痛みで、せめて今ここにいることを確認したかった。
ダリウスがエドガーの肩に腕を通し、慎重に持ち上げる。
ミラも反対側に回り、背中を支えた。
重い。
体重の重さじゃない。
失われた名前と、埋まらない空白の重さだった。




