第85話 愛しい魔法使いへ
エドガーは転がるように駆け寄り、膝をつくより早くエリーの身体を抱き上げた。
腹部から溢れた血が、指の隙間をぬるりと抜けていく。あまりに量が多くて、熱いはずなのに冷たく感じた。
「エリー! 何をやってるんです、速く——加護で回復を!」
叫びは部屋の壁にぶつかり、硬い反響になって戻ってきた。
エリーは真っ青な顔で、エドガーを見上げる。焦点は合っているのに、まばたきが遅い。
「……無理よ」
吐く息が、細い。
「苦しむ時間が……伸びるだけ……」
「そんな——」
エドガーの視界の端に、倒れたミラが映った。頬まで這い上がった石化、額の血。
瞬間、胸の奥の何かが裏返る。
「ミラ!! ミラ!!! 起きてください!!!」
それでもエリーは、咳き込むように口元を歪め、赤を吐いた。
血が唇を染め、あまりに鮮やかで——現実味を奪った。
「……気にしないで、エドガー……」
「気にしないでって——!」
エドガーは首を振る。否定するように何度も、何度も。
頭の中だけが暴走して、言葉が追いつかない。
「ダメだ! もっと……もっと私は、あなたと魔法の話をしたり……もっと……あなたから教わることが……!」
エリーは力なく笑った。
笑っていい場面じゃないのに、その笑みだけが、ひどく優しい。
「ふふっ……最後まで、あなた……魔法のことなのね」
エリーは震える手でネックレスを引き出した。女神の刻印が淡く光り、加護の光が彼女の身体を包む。
血の勢いが、ほんの少しだけ穏やかになる。――それだけだった。
それでもエリーは、どこか満足そうに息をつき、エドガーに小さく笑いかけた。
「……気が変わった……」
声が、糸みたいに細い。
「もう少しだけ……あなたと話したくなったわ」
血まみれの手が、エドガーの頬に触れる。
ぬるいはずの血が冷えていて、指先がやけに軽い。
「あなた、初めて会った時から……魔法の講釈ばかり……」
エリーの瞳から、ゆっくりと精気が抜けていく。
それでも、嬉しそうに続けた。
「……でも、こう言ったわよね。『魔術師は物語を紡ぎ、私たち魔法使いはその物語をなぞる』って……」
言葉の端が震える。
「……あの言葉、友達が帰ってきたみたいで……本当に嬉しかった」
「エリー……っ、う――」
声が喉の奥で詰まり、エドガーは言葉にならない息を漏らした。
その腕の中で、エリーの身体が淡く光る。炎でも月光でもない、どこか“透ける”ような光だった。
――おかしい。
エドガーの背筋に、冷たいものが走る。
(なんだ……? エリーと出会った頃の記憶が……思い出せない……)
頭を掻きむしりたくなる。
初めて彼女の名前を聞いた瞬間。部屋に入った。魔導書を渡した、あの“表情”。
そこに、ぽっかりと穴が空いている。
(いつだ……どこだ……? 思い出せ、思い出せ……!)
焦れば焦るほど、指先から砂が零れるみたいに、輪郭が崩れていく。
(ダメだ! ダメだ! ダメだ! 記憶を……繋ぎ止めろ!)
エドガーは祈るようにエリーを抱きしめた。
力を込めれば込めるほど、彼女は壊れてしまいそうで、結局、震える腕で“触れているだけ”になる。
エリーは目を閉じ、微笑んだ。まるで、ずっと前から知っていた結末みたいに。
「……ダメね。塔が、記憶を食べ始めたのね」
その言葉の直後だった。
エリーを包む光が、泡のようにぷつぷつと弾け、離れていく。光は上へ、上へ――天井の暗闇へ吸い込まれていく。
塔が、奪っていく。
「……エドガー」
エリーが目を開ける。
“愛おしいもの”を見る目で、彼を見つめた。
「私……愛する人や友人を、看取って……看取って……本当に疲れた」
息が、途切れそうになる。
「でも……もう一度だけ……看取ってもいいかなって……思ったのよ。あなた達を」
「えぇ、ですから……これからも、一緒に……!」
エドガーは必死に言葉を繋ぐ。未来へ、未来へと押し出すみたいに。
けれどエリーは、弱々しく吹き出して笑った。
「あなた達……本当に面白いのよ。すぐ息切れするし、痛風だし……それに、魔法使いは老眼もち」
エドガーは涙を噛み殺し、笑いかける。笑わなければ、崩れてしまう。
「えぇ……情緒ある詠唱を、あなたも楽しめたでしょう?」
エリーは、死にかけているという現実が嘘みたいに、心底幸せそうに頷いた。
「だから……私、本当に幸せなの。人生で初めてよ」
胸の奥の光が、また一つ泡になって溶ける。
「“愛した人”の腕の中で……看取られるのは」
「だめだ!! エリー!!」
叫びは、救いにならない。
エリーは諭すように、柔らかく笑った。
「ふふっ……泣かないで、エドガー。皆いつか死ぬわ。平等で、絶対なのよ」
かすれた声に、妙な自信が混じる。
「私が言うからには……間違いないわ」
「まだだ! 何かあるはずだ、エ――」
呼ぼうとして、舌が止まった。
――名前が、出てこない。
喉の奥が凍りつく。
目の前にいるのに、腕の中にいるのに。
(……嘘だ。名前が……思い出せない……!?)
エリーは、ふっと笑みを消した。
その目だけが、最後に残った火みたいに真剣だった。
「少しでも私を“未来”に連れて行って欲しいから……最後に足掻くわ」
言葉の端に、いつもの毒が混じる。
「あなた達、どうしようもない中年みたいに」
エリーは腰のポーチに手を伸ばした。
魔導書――古い革表紙。けれど、その重みが今は岩みたいに感じるのか、指が震えて、何度も落としかける。
エドガーは息を止めた。
抱いた腕の中で、彼女の体温が少しずつ遠ざかっていくのに、視線だけは、確かに彼を捉え続けている。
「フォルス・ジェルゥ・キンドゥス・アメル――《想い紡ぎ》」
音が、世界を縫い合わせる。
詠唱が終わった瞬間、エドガーの身体が光に包まれた。暖かい。けれど、それは回復の光じゃない。もっと――“繋ぐ”ための光だ。
「なっ……何を……?」
理解が追いつかない。
それでも、胸の奥がぞわりとした。何かが、今まさに“動いた”と本能が告げている。
エリーは、幸せそうに微笑んだ。痛みで顔が青いのに、その笑みだけがやけに綺麗だった。
「最後の魔法よ。じゃあね……愛しい魔法使い……」
その言葉が終わる前に――
エドガーの腕から、力が抜けた。
だらん、と。
重かったはずの命が、ただの重量になる。支えるべき理由が、ふっと消える。
さっきまで。
さっきまで彼は、泣いていた。
名前を呼べずに叫んで、記憶を繋ぎ止めたくて、喉が裂けるほど必死だった。
なのに。
次の瞬間、世界は“乾いた”。
感情の熱が、すっと引く。
涙の痕だけが頬に残り、本人だけがその理由を知らない。
叫びたい喉が、何故か落ち着いた声を選んだ。
「……エルフ?」
エドガーは、床に横たわる青い髪の女を見下ろした。
視線は冷静で、瞳の焦点は正確で、声には震えがない。
「一体誰だ? 仲間ですか?」
返事がない。
当然だ。彼女はもう、息がない。――彼にとってはただの“状態”だった。
エドガーはすぐに顔を上げた。
戦場の空気を測り、優先順位を並べ替える。
「……それより、みんなの応急処置を!」
さっきまで“世界の中心”だったものが、音もなく端へ押しやられる。
胸の穴は空いたままなのに、痛みがない。
痛みがないことが、いちばん怖い。
エリーの微笑みだけが――
彼の中から剥がれ落ちた何かを、静かに見送っていた。
エドガーは、迷いなく走った。
さっきまで胸を握り潰していたはずの焦燥は、もう“手順”に変わっている。
最重症――まず一人。
床を蹴って辿り着いた先、オットーが転がっていた。巨体が、まるで崩れた岩みたいに歪んでいる。脚は――生き物の関節が取りうる角度じゃない方向へ折れ曲がり、脂汗が皮膚をぬめらせていた。
エドガーは膝を折り、視線だけで状態を読み取る。
「オットー! 大丈夫です!?」
呼びかけは大きい。だが声は冷たいほど落ち着いている。
オットーは歯を食いしばり、苦痛で顔を引きつらせながら、かすれた声を返した。
「あぁ……でも、すまねぇ……歩けねぇ……」
「わかりました。すぐ応急処置をします」
エドガーはポーチを引き寄せ、瓶をねじ開ける。
その手際の良さが、皮肉なくらい正確だった。
「とりあえずポーションを飲んでください。――今です」
オットーの喉が動くのを確認すると、エドガーはもう次を見ていた。
戦場を一瞥。
音、匂い、呼吸の荒さ。生きている者の数。倒れている者の位置。
“次”は――
部屋の奥。両腕を地面につき、肩で息をしているダリウス。
エドガーは顔を上げ、壁に声をぶつけるように叫んだ。
「ダリウス! 無事ですか!? 治療は必要ですか!?」
返事は、反響を引き連れて戻ってきた。
苦しそうなのに、芯だけは折れていない声だ。
「大丈夫だ。……俺より、ミラを」
「了解です!」
エドガーはすぐ踵を返した。
床に伏せるミラへ駆け寄り、その小さな身体のそばにしゃがみ込む。
呼吸――ある。
意識――ない。
額の出血――止まりかけている。
(大丈夫。気絶しているだけだ。今は……生きている)
その確認が終わると、エドガーは顔を上げた。
ダリウスの方へ、はっきりと声を返す。
「ミラ、大丈夫です! 命に別状はありません!」
言い切った瞬間、ようやく――部屋の空気が“終わった”と気づく。
魔神の気配はもうない。
黒い閃光も、巨剣の風圧も、嘲るような笑みも。
あるのは、血の匂いと、焦げた石と、散り散りになった呼吸だけ。
こうして魔神との激闘は終わった。
誰も名を知らない――それでも確かにそこにいた犠牲のおかげで。




