第83話 とどめを刺せ
オットーは夢の中にいた。
そこには血の匂いも、鉄の味もない。代わりに、ぬるい光が霧みたいに漂っている。呼吸をするたび、胸が軽くなる。——軽すぎて、怖い。
ふと、輪郭が結ぶ。
栗色のショートヘア。ローブ。胸元に揺れる女神のネックレス。
ジェリーが、まるで「遅いよ」とでも言うみたいな顔で立っていた。
「……ジェリー」
オットーは思わず笑ってしまった。夢の中の笑い方だ。痛みも重さも置き去りにした、ずるい笑い。
「生きてたのか……」
その声に、別の影が続いた。
バンダナで髪をまとめた、筋骨隆々の男。タッカーだ。相変わらず、強そうな背中のまま——笑っている。
「……タッカー。久しぶりだなぁ」
二人は、何も言わない。
ただ、ゆっくりと背を向けて歩き出す。
置いていかれる。あの日と同じだ、と胸の奥が冷える。
「待て!」
オットーは手を伸ばした。指先が空を掴む。距離は一歩も縮まらない。
「ちょっと待て! 俺も行く!」
二人が振り返った。
責める目じゃない。怒ってもいない。だから余計に痛い。
ジェリーが足を指した。
タッカーが腕を指した。
口が動く。言葉の形だけが、霧の向こうで揺れている。
——けれど音が、どうしても届かない。
「なんだ……聞こえねぇ……!」
オットーは叫んだ。焦りが喉を裂く。
「何を言ってるんだ! ジェリー! タッカー!」
二人は、まだ笑っている。
それが“許し”なのか、“命令”なのか、わからないまま——
世界が、ひっくり返った。
「はっ!?」
オットーは跳ね起きた。
肺に冷えた空気が刺さり、胃の奥がひっくり返る。耳の奥で、金属が擦れるような音が残響していた。
松明の火。揺れる影。焦げた臭い。
ボス部屋だ。夢じゃない。
「……気が付きましたか!?」
エドガーの声が飛んでくる。
オットーの方を、ほんの一瞬だけ——確認するみたいに見た。次の瞬間にはもう、魔導書へ視線を戻している。指先が震え、ページの縁を食い込ませていた。
その“戻り方”が、何より切迫していた。
オットーは、理解した。
ここはまだ終わっていない。
そして——夢の二人は、だからこそ足と腕を指したのだと。
オットーは、視界の端で“それ”を捉えた。
円形の広間の中央。松明の光を吸い込むように黒い巨体が立っている。魔神。
黄色い目が笑っていた。獲物が足掻くほど面白い、とでも言いたげに。
その手前で、ダリウスが剣戟を繰り出し続けている。
——いや、“繰り出している”というより、倒れないために振っている。呼吸が荒く、踏み込みが浅い。それでも前に出る。剣が折れるまで、命が切れるまで、という覚悟だけが身体を動かしていた。
周囲を見回して、オットーの喉が鳴った。
ミラは床に横たわり、微動だにしない。石化の痕が頬にまで及んでいる。
エリーはマナポーションの瓶を握ったまま、唇の色が抜け落ちていた。
エドガーは魔導書に顔を寄せ、祈りにも似た詠唱を刻んでいる。必死という言葉でさえ足りない、目だけが“間に合え”と叫んでいた。
——これが、今の自分たちだ。
そして魔神は、その全部を見下だしている。
胸の奥で、何かが音を立てて切れた。恐怖ではない。ためらいでもない。
怒りだ。遅れてきた火山みたいな怒りが、夢のぬるい光を焼き払った。
オットーは大斧を握りしめた。柄が軋む。指の関節が白くなる。
「てめぇ……まだ……」
声が、喉の奥から絞り出される。震えているのに、やけに通る。
「呑気に……遊んでんのか?」
魔神の笑みが、ほんの少しだけ深くなった。
——許さない。
「お前のせいでな……!」
オットーの視界に、ジェリーとタッカーの背中が一瞬よぎる。
そして今、目の前にいる仲間たちの顔が、同じ列に並んだ。
「タッカーもジェリーも、ダリウスも、ミラも、エリーも、エドガーも……!」
言葉が割れる。息が熱い。涙じゃない。これも怒りだ。
「ふざけんなよォォォォォ!」
——《阿修羅》。
呪いが走った。
血管の中に熱い砂を流し込まれたみたいに、全身が爆ぜる寸前まで張りつめる。
次の瞬間、オットーの巨体は“跳んだ”。跳躍ではない。発射だ。
弾丸。閃光。
床を蹴った衝撃が遅れて音になる。空気が裂け、背後の松明が一拍遅れで揺れた。
(キレてんのによ……頭ん中は、妙にスッキリしてるぜ)
怒りの芯だけが冷たい。
——夢の二人が指さしたのは、これだ。足と腕。“使え”と。
エリーの声が飛ぶ。
「ダリウス、一旦下がって!!」
ダリウスが反射で距離を取る。
その一瞬に、オットーは考え切る。
(そうだ。身体ぜんぶに阿修羅をかけるな……足の、手の“一点”に集中。爆発させろ)
右足の筋肉が、ぶちぶちと嫌な音を立てた。
負荷で千切れる音だ。だが止まらない。止まれない。
懐へ。
魔神の巨剣が動く前に、オットーは潜り込む。
大斧が風を引き裂き、喉元へ吸い込まれる。
「《阿修羅・十連》!」
一撃目、火花。二撃目、火花。
刃が黒い皮膚を抉り、ようやく血が滲む。——硬い。鎧だ。
オットーは歯を食いしばり、右手だけに“呪い”を絞った。
骨が、ぎりぎりと軋む。握力が限界を越え、関節が悲鳴を上げる。
——入った。
喉元に、深い傷。
魔神の笑みが歪む。だが、口元はまだ笑っている。呪文が止まらない。獣のうなり声みたいな詠唱が続く。
火花の奥で、巨剣と大斧が噛み合う。オットーの身体が軋む。視界が白く弾ける。
それでも、刃は届いた。
三撃目で右足を——ちぎる。
五撃目で左腕を——むしる。
九撃目で左足を——刈り取る。
魔神が膝をついた。
黄色い目に、初めて“恐怖”の形が宿った。
だが、呪文は止まらない。
魔神の口が動くたび、空気が歪む。何かが、呼ばれようとしている。
——最後の一撃。
オットーは振りかぶった。振りかぶったはずだった。
身体が、崩れた。
右腕は、筋肉が断裂し、上がらない
右の足の腱が切れ、力が抜け落ちる。
左足は、へし折れた木みたいに曲がる。
床に落ちる瞬間、オットーは笑った。悔しい笑いだ。
それでも、勝ち筋だけは見えている。
視線を、後ろへ。
魔導書にかじりつく男へ。
「……クソが……」
息が血の味になった。
「エドガー……!」
喉が裂けるほど叫ぶ。
「とどめを刺せェェェ!!」




