第82話 貫けない世界で
後衛で、オットーの巨体は寝転んだままだ。胸は動いている。息はある。生きている。——生きているのに、戻ってこない。
その横で、エリーがダリウスの左腕に手を添え、淡々と言った。
「止血終わったわ!」
加護の光が淡く揺れ、血の滲みがようやく落ち着いていく。だが、戦場が“落ち着く”ことはない。
魔神が、退屈そうに指を鳴らした。
黒い球が宙に浮かび上がる。ひとつ、ふたつ、みっつ……数える暇もなく、十。
まるで「次はこれだ」と言わんばかりの、整然とした死の配列。
黄色い目が細まり、獲物をなぶる笑みが深くなる。
——次の惨劇の合図が、静かに揃った。
ダリウスが前線へ駆けた。床を蹴る音が、広い円形の部屋に乾いて響く。
「《深き森》」
世界が、溶ける。
輪郭がほどけ、色が薄れ、目の前の現実が“遅く”なる。白い空間——未来の断片が、霧のように重なって見える場所へ、意識だけが滑り込む。
黒い球が弾け、閃光が走った。
だがダリウスは、もう知っているかのように動いた。来る線を、来る順に、来る角度で。剣が空を切るたびに、閃光は弾かれ、床へ、壁へ、天井へと逸れて散る。まるで彼だけが、戦場の譜面を先に読んでいるみたいだった。
そのまま、魔神の懐へ。
(もっと深く。二手、三手先まで読むんだ)
白が濃くなる。現実の音が遠のく。
大剣が落ちてくる未来、薙ぐ未来、跳ね上げる未来——それらの“影”を、先に見て、先に避ける。
ダリウスは躱した。紙一重で、死をすり抜ける。
(まだだ。もっと先に——)
欲が、底なしに喉を開く。
視界がさらにとろけ、白が白を呑み込む。
自我が、薄くなる。
(ここ……どこだ……俺……俺か?)
問いが形にならないうちに、身体だけが答えを出す。
動きが一段、加速する。人間の反射より、明らかに速い。
エリーの矢が、魔神の脳天を狙って飛ぶ。
魔神は首を傾けるだけで、避けた。
「ちっ」
舌打ちが空気を切った、その一拍。
ダリウスは右を振りかぶる——と見せて、重心を逆へ切った。
左からの一閃。
「《月下無痕》」
二つの斬撃が、同時に落ちる。月光が二本、交差するような軌跡。
だが魔神は——ギリギリで、かわした。
黄色い目の光が変わった。遊びの笑みが消え、獲物を見る目が、刃を見る目になる。
(俺……なんだ……帰りたい……帰る?……どこへ)
言葉が、泡のように浮かんでは消える。
“帰る場所”が思い出せないまま、ただ「帰りたい」だけが残る。
ダリウスは視線を左へ送った。剣を、ほんのわずかに握り込む。
魔神の腕がピクリと動いた——その瞬間。
右に振りかぶる。魔神が一拍遅れて反応する。
ダリウスはその遅れの中で、回転した。
そして——左からもう一度。
「《月下無痕》」
斬撃が、噛み合った。
魔神の右腕と、大剣が——吹き飛んだ。
重い肉が裂ける音。黒い血が宙に散る。
大剣が床を叩き、石の床に傷を刻みながら滑っていく。
(………………ミラ?)
その名が、白の中に浮かんだ。
次の瞬間、少女の顔が一瞬だけ脳裏に差し込み——ダリウスの意識が現実へ引き戻される。
片膝をついた。頭を抱える。
(腕……魔神の……落ちてる?)
確認すら、遅い。
「がはぁああああ!」
血管が膨張し、頭蓋の内側から割られるような痛みが走る。頭痛という言葉じゃ足りない。脳そのものが、熱で煮え立っているみたいだった。
視界が白く跳ね、意識が——飛ぶ。
それでも、身体は立ち上がった。
意思のないまま、足が動き、剣が上がる。深き森の副作用が、肉体だけを操っていた。
エリーの矢が援護に飛ぶ。魔神はそれを避けながら、落ちた大剣を左腕で拾い上げた。
片腕で、三メートルの刃を“軽々”と持ち直す。
そして、振り下ろす。
ダリウスの身体が危険を察知し、後方へ飛んだ。
だが——魔神の速度が、それを上回った。
黒い刃が、空気を割る。
次の瞬間、ダリウスの右腕が——切り落とされた。
剣が床に転がり、乾いた金属音が一度、響く。
身体が選んだのは、戦いではなく逃走だった。
意識を超えた足が後衛へ向かい、血の線を床に引く。
そして限界。
ダリウスは、ミラの目前で倒れた。
床に倒れたダリウスへ、影がにじるように近づいた。
走る足音ではない。膝も、肘も、擦る音。血の匂いと焦げた空気の中を、ミラは“這って”いた。指先が石に変わりかけた右手は言うことをきかず、左手だけで必死に床を掴む。額から垂れた血が、視界の端で赤い糸になって揺れる。
——間に合え。
呼吸が、喉でひゅうと鳴った。胸の奥が冷たい。怖い。痛い。
それでも、止まれない。
ダリウスの顔は青白く、唇の色が薄い。腕の断面から流れた血が、床に溜まっていた。大きな背中が小さく見える。その事実が、ミラの中の何かを壊しそうだった。
ミラは、ネックレスを握りしめた。握力が足りなくて、指が震える。
「《神光再命》」
声は掠れていたのに、祈りだけは真っ直ぐだった。
あたたかな光が、ダリウスの身体を包む。切断された場所が、まるで見えない糸で編み直されるように、肉が寄り、骨が形を取り、血管が走り、皮膚が閉じた。
両腕が——戻る。生きた腕として、そこに“在る”状態へ。
同時に。
ミラの右頬に、冷たい感触が走った。
肌が硬くなっていく。内側から乾いた砂が詰められるみたいに、表情が動かなくなる。石が、頬骨のラインをなぞりながら、静かに広がっていく。
(ダメ……)
視界が霞む。音が遠い。心臓の鼓動だけが妙に大きい。
(まだ……まだ……)
ここで落ちたら終わる。
自分が落ちた瞬間に、誰かが死ぬ——その予感が、冷たい手で首を締めてくる。
身体が前に崩れ、ダリウスのすぐそばへ倒れ込む。
石になりかけた頬が、床に触れて、乾いた音を立てた。
目を開けていたはずなのに、闇が上から降りてきた。
光も、声も、戦いの気配も、すべて薄れていく。
ミラはそのまま——意識を手放した。
ダリウスの呼吸は、もう「息」と呼べる形をしていなかった。肺が限界を訴えるたび、胸の奥で乾いた音が鳴る。顔色は紙みたいに青く、汗が頬を伝って顎から落ちた。
それでも——目だけが、前を向いていた。
「エリー……剣を……貸してくれ……」
声はかすれ、途中で折れそうになる。それを無理やり繋いで、言い切った。
エリーが、はっと顔を上げる。焦りが喉に引っかかって、声が尖った。
「無茶よ!」
ダリウスは、小さく笑う気配だけを喉の奥で作って、首を振った。ミラの方へ、無意識みたいに手が伸びる。床に伏した少女は、ぴくりとも動かない。右頬まで広がった石化の痕が、松明の光を鈍く返していた。
「あぁ……無茶だ……」
認めたうえで、譲らない。剣を受け取るための手——いや、手だけはもう戻っている。けれど中身は戻っていない。血も、熱も、体力も、全部どこかに置き忘れてきたみたいだ。
「……せいぜいが、足止め……だから……エリー、エドガー……魔法で……仕留めてくれ……」
エリーの視線が、ミラからダリウスへ戻る。迷いは一瞬。次の瞬間には、決断の速さが彼女の指先に乗った。
剣を渡す。
「……もうミラは、しばらく起きないわ……」
言いながら、喉が震えた。
エリーは唇を噛み、最後の言葉を押し込むように吐き出す。
「……死なないで」
ダリウスは返事をしなかった。できなかった。
返す代わりに、剣を握り直し、前へ走った。
魔神が、笑う。
漆黒の巨体は一歩も動かないのに、空気だけが押しつぶされる。肩に盛り上がった鎧みたいな皮膚、折れた角、その黄色い目が、獲物の行儀の悪い足掻きを見物している。
その前に、黒い球体が浮かび上がる。
ひとつ、ふたつ——十、二十。
数が揃った瞬間、球体が脈打ち、雷を纏った閃光が放たれた。直線ではない。曲線で、狙いを変えながら襲いかかってくる。逃げ道を潰すための線だ。
「まだ増えるのか……ッ!《深き森》!」
ダリウスの視界が、白く滲む。
世界が溶ける。足元の石床も、壁も、松明の灯りすら、薄い膜の向こうへ遠ざかる。
一歩先の未来だけが、透明な線で浮かび上がる。
来る。ここ。次は右。半拍遅れて下。
ダリウスは剣を振る。
閃光が弾かれ、火花が散り、床がえぐれた。壁が抉れ、焦げた匂いが鼻の奥を焼く。
——間に合え。
剣を振るたびに、腕の中身が空っぽになっていく。体力ではなく、意識の方が削られていく感覚。それでも、足だけは止めない。魔神の前に立たなければならない。魔神を“こちらの都合”で足止めしなければならない。
「ダリウス、離れて!《穿炎連鎖》!」
エリーの声が背中から刺さる。
同時に、炎が蛇の形を取って踊り出た。巨大な炎蛇がうねり、魔神へ噛みつく——はずだった。
だが。
魔神の前に、見えない壁が立つ。
炎がその壁に当たり、ぐにゃりと潰れた。押し返されるように散って、爆ぜて、熱だけが虚しく広がる。
エリーの声が裏返る。
「なっ!? 貫通魔法を!?」
貫くための術式が、貫けない。
その事実が、戦場の温度を一段落とした。
「ダリウス!! もう一度時間を稼いで!」
「くっ……!」
ダリウスは歯を食いしばり、閃光を払い続けた。
盾でもない。回復もない。火力でもない。
ただの“時間”だ。生き延びるための、数秒を作る道具。
魔神が、呟き始める。
言葉ではない。獣の唸りでもない。
喉の奥で石を砕くような、低い振動。音が、意味になる一歩手前の何か。
(……詠唱? 違う……“起動”か?)
背筋が冷える。
嫌な予感が、肌の上を這う。それでもダリウスは剣を振り続けるしかない。止めた瞬間、後ろが死ぬ。
「ダリウス、下がって!《三重詠唱》・《穿炎連鎖》!」
エリーの声には汗が混じっていた。
力で押し切るのではない。三つ重ねて、密度を上げる。無理を無理で塗り潰す術式。
九体の炎蛇が、隊列を組む。
うねりながら突っ込み、爆炎と爆風が円形の闇を飲み込んだ。
近くにいたダリウスの身体が、紙切れみたいに持ち上がる。爆風に叩かれ、背中から床へ落ちた。
「ぐ……っ!」
一瞬、息が止まる。視界が白く弾ける。
それでもダリウスは立ち上がる。剣を支えにして、よろめきながらでも前へ戻る。
——戻らなければ、魔神がこちらへ歩いてくる。
煙の向こう。
魔神は無傷だった。
見えない盾が、炎を全て受け止め、熱も光も“ただの景色”に変えていた。
魔神の黄色い目が、愉快そうに細まる。
まるで、「もっと見せろ」と言っているみたいに。
爆炎の残り香が、円形の部屋に薄く漂っていた。
焦げた空気の向こうで、魔神は無傷のまま——まるで何事もなかったかのように、肩を鳴らして笑っている。
その光景が、エリーの胸の奥を“別の時間”に引きずり込んだ。
——一万年前。
石の匂いがする小さな書斎。積み上がった羊皮紙。乾ききらないインク。
灯りの下で、ひとりの男が、震える指先でページをなぞっていた。
ディートリッヒ。
やせた肩が小刻みに揺れている。呼吸は浅く、喉の奥が擦り切れたような音を立てた。
それでも指は止まらない。止めれば、この瞬間が消えてしまうと知っているみたいに。
「……貫通魔法だ……」
掠れ声が、紙の上に落ちる。
「やっと……やっとだ……」
エリーはその横で、息を呑んだ。
理解が追いつくより先に、胸の奥が熱くなった。魔法体系が変わる——そんな言葉は、願望ではなく、確信として口から出た。
「すごいわね……。これからは、魔法体系が変わるわ」
ディートリッヒは笑ったかもしれない。泣いたかもしれない。
どちらでも同じだった。彼が“辿り着いた”ことだけが、世界を塗り替えるはずだった。
——はずだったのに。
現実に引き戻される。
煙の向こうで、貫くために生まれた炎が、透明な壁に潰されている。
エリーの喉が、きゅ、と鳴った。唇の端が強張り、息がうまく吸えない。
目の光が、すっと暗くなる。
「……そ、そんな……」
声は震え、言葉の途中で折れた。
「あなたの……貫通術式が……ディートリッヒ……」
膝が、ほんの少しだけ沈む。
“信じていた地面”が、崩れた時の沈み方だった。
そのとき、横から乾いた声が差し込んだ。
泣き言ではない。叱咤でもない。実験結果を読み上げるみたいな、あまりにも平熱の声。
「エリー。三小節目、発音をワントーン上げてください」
エドガーが虫眼鏡を掲げる。鏡面が松明を拾い、白い点となって揺れた。
彼の目は魔神ではなく、エリーの“詠唱”を見ていた。もっと正確に言うなら、詠唱が生む波形、息のリズム、声帯の癖——全部。
「五小節目からは、全体のリズムを跳ねさせて。出力が……〇・一八、上がります」
たったそれだけ。
でも、その数字は——今のエリーにとって、地面に打たれた一本の杭だった。
失われそうな足場を、ほんのわずかに固定する。
“できることが残っている”と、思い出させる。
エリーは、ゆっくりと顔を上げた。
目の奥の暗さが、灯りを取り戻す。泣きそうなものを飲み込み、口角だけを引き上げる。
「だからそれって……誤差よね」
けれど声は、さっきよりも芯があった。
「……わかったわ」
嘆きは、後でいい。
今は、勝つための誤差を積み重ねる。
エリーは息を整え、喉の角度を変え、舌の位置を一ミリだけ修正した。
その“たった一ミリ”が、世界を貫く可能性になると信じて。
ダリウスは、まだ前にいた。
息は荒い。肩が上下するたび、失ったはずの腕の痛みが幻みたいに追いすがってくる。血の匂いが鼻の奥にこびりつき、視界の端が時おり白く滲んだ。
それでも足は止まらない。剣を握る指は震えているのに、踏み込みだけは狂ったみたいに正確だった。
——稼ぐ。
ただそれだけ。
魔神も理解しているのか、遊びをやめた。
黒い閃光ではなく、剣戟。圧を、重さを、真正面からぶつけてくる。
三メートルの大剣が唸り、空気が裂けた。
受ければ骨が潰れる。避ければ皮膚が持っていかれる。
ダリウスは「深き森」を浅く点火し、未来の白をほんの一瞬だけ覗いては、現実へ叩き戻される——その繰り返しで、刃の間を縫った。
背後で、エリーの声が途切れない。
詠唱のリズムが跳ねる。ワントーン高い発音。あの“誤差”が積み上がっていく。
そして、詠唱が——終わった。
エリーの身体から、汗が一気に噴き出した。
限界の一歩手前で踏ん張る人間の、汗。
「——《三重詠唱》・《穿炎連鎖》!」
空気が熱に染まる。
九体。炎の大蛇が、隊列を組んで生まれ落ちた。一本一本が意思を持っているみたいにうねり、咆哮のような燃焼音を上げながら、魔神へ突っ込んでいく。
爆炎。爆風。
松明の火が一斉に揺れ、円形の部屋が一瞬“昼”になる。
煙の奥で、魔神の顔が歪んだ。
透明な壁——シールドに、蜘蛛の巣のようなヒビが走る。一本、二本ではない。縦横に広がり、鳴り始める。壊れる寸前のガラスの音だ。
九体目が、そこへ叩き込まれた。
——ぐしゃり、と。
炎が“肉”を抉る匂いがした。
魔神の左肩が、抉り取られる。黒い体表が裂け、内側の異様な赤が一瞬覗いた。
エリーは、その場で膝が砕けた。
勝ったわけじゃない。けれど“届いた”——その事実が、全身の力を奪った。
「……やったわ……!」
声は息切れに混じって掠れ、次の言葉が必死に続く。
「……マナポーションを……次の攻撃を……!」
だが、煙の奥で。
魔神は、ニヤリと笑っていた。
痛みを堪える顔ではない。むしろ、楽しくて仕方がない獣の顔だ。
その瞬間、空間が——歪んだ。
魔神を中心に、左右の景色がねじれる。壁の線が曲がり、松明の光が引き伸ばされ、円形の部屋そのものが“濡れた布”みたいに撓む。
見ているだけで吐き気がするほどの、現実のズレ。
ダリウスが、反射で距離を取った。
剣を構え直し、足の裏で床を探る。
「……まだ何かあるのかよ」
歪みの中心が、黒く沈む。
穴だ。深さのない、なのに底が見えない黒。
次の瞬間——そこから腕が飛び出した。
一本、二本。
影のように黒く、しかし筋肉の隆起は現実で、関節はきしみ、指は獲物を掴む形に開いていた。
腕は、落ちたはずの断面へ向かい、吸い寄せられるように“接続”された。
エリーの目が見開かれる。喉が鳴った。
「……空間魔法!?」
結合部が、うねうねと蠢く。
肉と肉が縫い合わされるというより、空間そのものが折り畳まれて繋がる感覚だった。気味の悪い波が走り、次の瞬間——完全に、くっついた。
魔神は、手を握る。開く。
まるで新しい道具の感触を確かめるみたいに、指を曲げ伸ばしして、満足げに口角を吊り上げた。
そして、その黄色い目が、再びダリウスたちを舐めるように見た。
——第二幕だ、とでも言うように。




