第81話 折れた角の魔神
強大な扉が、開いた。
ぎぎぎ、と――鉄が軋む悲鳴が、広い回廊に長く尾を引く。
この音を聞くたびに、胸の奥が勝手に固くなる。ここから先はいつだって同じだ。生死を賭けたやり取りが始まる、と。
部屋の中は、闇だった。
だが一歩、踏み込んだ瞬間。
ぼっ、ぼっ、ぼっ――。
松明が一斉に灯り、橙の光が円形の広大な空間を満たす。壁に揺れる影がぐるりと回り、天井の高さだけが遅れて理解を追いかけてくる。
その中心に、“魔神”が立っていた。
人型。二メートルほどの巨体。全身は漆黒に覆われ、肩と胸のところどころが鎧のように分厚く盛り上がっている。隆起した筋肉が光を鈍く跳ね返し、右手には三メートルはあろうかという大剣を、まるで枝でも握るみたいに軽々と持っていた。
黄色い目が、こちらを見て笑う。獲物を弄ぶことが前提の、歪んだ微笑み。
神話の中の伝説。
そして――角。片方だけ、折れている。
その形を見た瞬間、ダリウスとエドガーとオットーの顔色が変わった。
息が、詰まる。
忘れようとしても忘れられない。
ジェリーとタッカーを生贄にし、逃げ切った“あの時”の魔神。
オットーが《阿修羅》の呪いを手に入れる、あの最悪の夜の――折れた角。
「……っつ」
ダリウスとエドガーが、言葉にならない息を漏らす。
エリーが目を見開き、反射で弓に手をかけた。
「魔神……まだ、生き残りが……」
オットーの大斧が、ぎし、と鳴った。
握りしめた手が小刻みに震える。――恐怖じゃない。怒りだ。腹の底に沈んでいた火種が、いま噴き上がって全身を震わせている。
「てめぇーーーー!」
地面を蹴る。踏み込もうとした、その瞬間。
「待て、オットー!」
ダリウスが腕を伸ばす。だが止めるには遅い――はずだった。
「オットー!!!」
ミラの声が、透き通っているのに鋼みたいに響いた。
広間の空気が、一瞬で締まる。音が“命令”になる声。
オットーの体が急ブレーキをかけ、靴底が床を噛んで軋んだ。
「……はっ!?」
我に返ったように目を見開き、息を吸う。吐く。もう一度、深く吸う。
怒りは消えない。だが――怒りに操られるのは違う。
オットーは大斧を握り直し、歯を食いしばったまま、低く言った。
「……わりぃ、ミラ。助かった」
その言葉は、礼であると同時に、自分を鎖で繋ぎとめる誓いだった。
オットーの怒りが“制御”に落ちた瞬間、ダリウスはもう走り出していた。
「俺が最前線! ――奴は遠距離もある! オットー、後方よりでシールド! エドガー、最大火力の貫通! エリー、前後に動いて援護! ミラ、結界を張って待機!」
命令は短く、切れ味だけを残して宙を裂く。
返事はない。必要ない。全員の身体が、すでに答えていた。
エドガーは魔導書を開く手を止めずに詠唱の“速度”を上げ、エリーは弓を構えたまま足を滑らせるように位置を変える。ミラは一歩だけ下がり、女神に祈りを捧げ結界の起点を探った。オットーは大斧を担ぎ直し、盾を前に出す角度だけを整える。――戦闘の形が、一息で組み上がる。
そしてダリウスは、魔神へ一直線に突っ込んだ。
「《深き森》」
世界の輪郭が、溶けた。
松明の火も、床の石目も、魔神の黒い皮膚も――境界を失って流れ、白い空間へと沈んでいく。
一歩先。
ほんの一瞬だけ未来が“見える”場所。
(――あの大剣、軽々振るうな。右は腕を持っていかれる。上は頭を割られる。下も即死。……狭いが、あの隙間に)
白の中で最適解が光る。ダリウスは剣を盾のように構え、魔神の左下へ踏み込んだ。足が床を噛む。身体が――躊躇を切り捨てる。
「《グランドスマッシュ》!」
衝撃。
剣が軌道を描き、魔神の胸のあたりに“ほんの小さな”切り傷が走った。
たったそれだけ。だが――
「……ほぅ」
魔神が、関心したように笑う。
それは褒め言葉ではない。獲物を一段上の玩具に格上げする、冷たい合図だ。
大剣がゆっくりと構え直される。
空気の重さが変わる。
(遊び相手から昇格か? ……次はあいつの右腕を――)
ダリウスはもう一度、“先”へ踏み込もうとして――凍りついた。
(……え?)
白い空間に、逃げ道がない。
上、下、左、右。
すべてが“死”で塗りつぶされている。
(――全部、死ぬ。後ろへ!!)
反転した瞬間、遅れて現実が追いついた。
魔神の剣戟が、天井から落ちてくる隕石みたいに――ダリウスの脳天へ降り下ろされる。
避けた。確かに避けた。
それでも。
ぶつり、と。
嫌に乾いた音がして、視界の端に自分の左腕が転がった。
痛みが“理解”に変わるより先に、エドガーの声が飛んだ。
「《伸縮紐》!」
透明な紐がダリウスの体に巻きつき、後衛へ引き戻す。床を削り、血の線を引きながら――距離だけが、命を繋ぐ。
ダリウスは歯を噛み、左肩を押さえた。肩の先が、空っぽだ。
顔が歪む。それでも声は折れない。
「オットー! 前線に上がってくれ!!!」
オットーが、獣じみた笑みを浮かべた。武者震いが背骨を駆け上がる。
「あぁ。借りを返してやるぜ」
その間にもミラは動いていた。
膝をつき、ダリウスの断面に布を当てる。止血。迷いのない指。――ただ、目だけが真剣すぎるほど真剣だった。
「ダリウス! 《神光再命》使うよ?」
その言葉に、ダリウスは右腕を横に振った。拒絶。短く、強い。
「まだだ! エリー、止血だけ頼む!」
エリーは即座にネックレスを握り込む。感情を挟まない声で、女神へ言葉を届ける。
「わかったわ。女神よ、痛みを撫で給え――《癒光》」
淡い光が傷口を包み、出血が“ゆっくり”と止まっていく。
完全な回復じゃない。だが、今はそれでいい。
ダリウスは息を整える暇もなく、ミラへ早口で告げた。
「ミラ、血を失った。ポーションを」
ミラは泣きそうな顔のまま、頷いた。
声は震えても、芯だけは折れない。
「……わかった!」
*
前線は、オットーひとりで“地獄”を引き受けていた。
魔神が掌を開く。そこに黒い球が生まれる。拳ほどの大きさ――なのに、空間そのものを冷やすような重みがあった。
次の瞬間、球から閃光が吐き出された。
雷を纏った黒い線が、蛇のようにうねりながら一直線に襲いかかる。
「させるかよぉ! 《阿修羅》!」
オットーが大斧に手を掛けた瞬間、筋肉が“赤く”なる。血管が浮き、骨が鳴るほどの圧が乗る。
振り落とした斧が閃光を叩き落とし、弾き返す。
――轟。
逸れた閃光は壁に突き刺さり、石を二メートルほど抉り取った。焦げた匂いが遅れて鼻を刺す。
オットーの目が血走る。怒りで、というより――“忘れていなかった”ことの証明で。
「俺のこと覚えてるんだろ? テメェの角を折った男だよぉ!!」
大斧がうなりを上げる。
「〈阿修羅・二十連〉!!」
爆撃のような連打。床が震え、火花が弾け、空気が裂ける。
だが当たるのは、わずかに二、三発。漆黒の皮膚が抉れ、黒い血が一筋流れるだけだ。残りはすべて、三メートルの大剣が“当然”のように受け止めた。
オットーは息を上げながら、斧の先を地面に置く。肩が上下する。けれど口元だけは笑っていた。
「へへっ……いいぜ。ちょっとずつ削ってやるよぉ」
その言葉を、嘲るように。
魔神が――拍手した。
乾いた音が、広い円形の部屋にやけに響いた。
敬意? 違う。玩具が面白い動きをした時にする、上機嫌の合図だ。
オットーの顔から笑みが消え、代わりに怒りが燃え上がる。
「てめぇええええええ……舐めてんじゃねぇええええぞぉおおおお!!」
「《阿修羅・四十連》!!」
嵐。
斧の軌道が見えないほどの連撃が魔神を飲み込む――はずだった。
初めの三、四発は大剣で受け止められ、火花が散る。
そして最後の一撃。
魔神は、指で挟んだ。
――ぎち、と。
鉄が軋む音がして、オットーの全身が一瞬固まる。
汗が背中を冷たく伝う。嫌な汗だ。
それでもオットーは、唇を吊り上げる。笑いで自分を誤魔化すみたいに。
「……マジでよぉ。舐めてんなぁ」
魔神がまた掌を開く。今度は黒い球が、ひとつではない。五つ。
宙に浮かび、円を描くように配置される。
そして――曲線。
黒い閃光が、まるで狙いを変える“意思”があるかのように弧を描き、オットーを貫いた。
肉が裂ける音。
巨体が、ぐらりと揺れる。口から空気が漏れ、言葉にならない。
その瞬間、後衛から声が飛んだ。
「〈伸縮紐〉!」
透明な紐がオットーに巻きつき、後方へ引き戻す。床に血の筋が引かれ、濃い赤が溜まっていく。
オットーは倒れたまま、虫の息で笑おうとした。だが顔は真っ青だ。腹のあたりが裂け、臓器の一部が不格好に覗いている。――“回収”が、あと半拍遅れていたら終わっていた。
「はぁ……はぁ……マジで……あいつ……」
前方。
魔神は動かない。焦りもない。
次はどんな玩具で遊ぼうか、とでも言いたげに――ダリウスたちを眺めて、黄色い目を細めて笑っていた。
ミラはネックレスを握りしめた。指が白くなるほど、骨が軋むほど。視線だけでエドガーを射抜く。
「使うから!」
宣言は短い。問いではない。選択肢はもう、残っていなかった。
エドガーは魔導書から目を離さない。詠唱の流れを切れば、全員が終わる。けれど声だけは、迷いなく返す。
「えぇ!」
ミラの喉から祈りが引きずり出される。
「——暖かき女神の息吹よ、肉体を再び編み直せ。《神光再命》!!」
光が落ちた。血の臭いを、いったん塗り潰すほどの温かさ。裂けた肉が寄り、欠けたものが戻り、オットーの胸が——かすかに上下する。
呼吸は、戻った。
だが目は開かない。意識はまだ、深い闇の底に沈んだままだ。
同時に、ミラの右手が死んだ。指先から。一本ずつ、順番に。熱も痛みもないまま、硬質な冷たさへ変わっていく。関節が固まり、皮膚の色が石の鈍い光沢を帯びる。
視界が揺れた。遠くなる。床が傾く。心臓の鼓動が、耳の内側で大きく鳴る。
(ダメだよ……ここで意識を飛ばしたら……みんな死んじゃう!)
その恐怖が、息を奪う。
恐怖なのに、恐れている暇がない。
「あぁああ!」
叫びは、祈りの反動に引き裂かれた獣の声だった。
「ミラ!!」
エドガーの声が背中に刺さる。だがミラは振り向けない。振り向いたら倒れる。倒れたら——終わる。
ミラは、床に頭を打ちつけた。
ゴス。
ゴス。
嫌な音が二度、三度。骨と石がぶつかるような鈍い響き。額が割れ、熱いものが流れ出し、頬を伝って落ちる。視界の端で、赤が黒ずむ。
それでも意識だけは、無理やり繋ぎ止められた。
ミラは這った。片手が言うことをきかないなら、肘で。膝で。床に爪を立てるようにして、前へ、前へ。
「まだ……まだいけるよ……」
声はかすれていた。けれど、その一言は呪いみたいに自分を縛る。倒れるな、と。起きろ、と。




