第80話 ローリエの合図
五十階層――ボス部屋前。
相変わらず、巨大な扉が鎮座している。あの奥へ進めば、いつも通りだ。命を賭けたやり取りが始まる。その事実だけが、扉の重みになって、じっとこちらを見下ろしていた。
ダリウスたちは、いつも通りボス部屋前で野営をしていた。
鍋の中で白い液体が静かに揺れ、火の熱に押されるように、クリームの匂いがふわりと立ちのぼる。そこへ、ローリエだろうか――ほのかに甘い香りが混ざった。ミントみたいな清涼感と、胡椒のようなスパイシーさが、鼻の奥をすっと通り抜けていく。
エドガーが、わざとらしく肩をすくめる。
「にしても……ここまで疲れましたね。罠、伏兵、いやらしい陣形。なかなか勉強になりました」
言葉は丁寧なのに、口調だけが見事に嫌味だった。
オットーは頭をかきながら、遠い目で吐き捨てるように言う。
「あぁ、つくづく参ったぜ。長いこと冒険者やってたが、あんな魔物は初めてだぜ」
ミラは胸を張って、少し得意げに鼻を鳴らした。
「でも私の指揮通りにやって、上手くいったでしょ?」
エリーは冷静に頷き、淡々と褒める。
「大したものよ。この短期間で戦術のほとんどを飲み込んだんだから。戦時中なら、大将まで行けたんじゃない?」
……そこまで言ってから、エリーの視線がするりと鍋へ、そして料理をするダリウスへ移った。
「……それより、ご飯まだかしら?」
空気の流れが一瞬で変わる。緊張も疲労も、いまだけは“食欲”に押し流されるみたいに。
ダリウスは吹き出しそうになるのを堪えつつ、笑いながら木皿を持ってきた。
「そんなに急がなくても、ご飯は逃げないよ。はい」
皿がテーブル代わりの板の上に置かれる、木の軽い音。
その瞬間、エリーの“待ちきれなさ”があまりに堂々としていて、オットーが鼻で笑い、ミラがこらえきれずにくすくすと肩を揺らし、エドガーまで小さく息を漏らす。
鍋の上に置かれたのは、クリーム色のシチューだった。
ごろごろと大きめに切られたにんじんとじゃがいもが顔を出し、湯気の奥から、ほのかにチーズの匂いが立ちのぼる。濃い乳の甘さに寄り添うように、ローリエの香りが一筋、鼻先をくすぐって――それだけで、胃が勝手に「準備完了」と言い出す。
エリーは、なぜか偉そうに顎を上げた。
「はやく私に配りなさい」
「はいはい」
ダリウスは笑いながら、匙を動かす。エリーの皿にとろりと注がれたシチューは、白い波をゆっくり作って落ち着いた。
待ちきれない、と言わんばかりにエリーがスプーンを突っ込む。
持ち上げると、シチューは粘り気のある糸を引き、じゃがいもの角がつやつや光った。
ひと口。
まずチーズのコクが、舌の上にどん、と居座る。続いて生クリームのまろやかさがその角を丸め、口の中をじんわり温めていく。噛めば、じゃがいもはほくりと崩れ、にんじんは甘みを残してほどけた。
そして最後に、ローリエの香りがすっと鼻へ抜ける。
濃厚なのに重くない。むしろ“次の一口”を呼ぶための、爽やかな合図みたいに。
エリーは、堪えきれずに足踏みした。
「んーーーー、きたわね!!」
その横でミラが、元気いっぱいに身を乗り出す。
「私も私も、いただきまーす!!」
ミラの右手には、エリーが拵えた装具が巻かれていた。革と布と、細い金具。握れない指の形を、握れていた頃に寄せて固定するための、頼りないほど軽い器具だ。けれど、そこにあるだけで「まだできることがある」と言い張れる。いつか本当に、“できること”の方を増やしてみせる。そんな子どもじみた意地も、一緒に巻きついていた。
ミラは、それを嘆かなかった。
石の腕を抱えたまま、いつも通りの顔で笑って、いつも通りに席へ滑り込んだ。右腕の冷たさも重さも、確かにそこに残っているのに――彼女はそれを、話題にしないことで打ち消してみせた。自分が折れないために。皆が折れないために。
その笑顔に、誰も「やめろ」とは言えなかった。
ダリウスたちは、胸の奥がひりつくのを感じながらも、視線を逸らさなかった。逸らせば、ミラの作った“普通”が崩れてしまう。痛みを悟らせないように、むしろいつもより少しだけ大げさに、少しだけ賑やかに振る舞う。笑い声を増やし、皿を回し、どうでもいい会話を繋いでいく。
エリーは淡々と、必要なものを必要な位置に置いた。ミラの装具の留め具を一瞬だけ確かめ、何事もなかったように手を引く。優しさを優しさとして見せないやり方で、彼女はミラの光を守っていた。
エドガーは語りかける言葉を選び、選んだ末に余計なことを言わない方を選んだ。その沈黙すら、ミラが望む“いつも通り”に合わせるための努力だった。
オットーは、冗談と大げさな身振りで場を膨らませた。自分の痛みを笑いに変えるのが得意な男は、ミラの痛みも笑いの中に隠してしまおうとした。隠すことでしか守れない夜があると知っている顔だった。
ミラが握っているのは、絶望を消す光じゃない。
手を離したらすぐ消えそうな、小さな火種だった。
誰かが「そんなもの」と笑ったら、その一言で吹き消えてしまう気がした。
だから誰も、言わなかった。
オットーは木皿を抱えるようにして、口いっぱいにシチューを詰め込んだ。頬が膨らみ、言葉が少し遅れて出る。
「このゴロッとしたジャガイモがうめぇよな! ……っはぁ。これはこれで酒が進むぜ!」
喉を鳴らして笑う。塩気と乳の甘さに、じゃがいもの土っぽい香りが芯を作っている。噛むほどにほろりと崩れ、舌の上でとろけた。
鍋の前にいたダリウスが、木べらを肩に担ぐみたいにして言う。
「それだけじゃないんだ。ジャガイモ、少しペーストにして混ぜてある」
「なにぃ?」とオットーが目を丸くする前に、エドガーの目がぱっと点いた。虫眼鏡を持つ手が、危険なほど軽い。
「この濃厚さはそれですか。実は魔導書の写しでも似た考え方がありまして――配合したインクをしばらく置いて、あえてもう一度インクを入れることで――」
熱が乗る。いつもの調子だ。講義が始まる前の、あの息継ぎ。
しかし、エリーのスプーンが空を切る音が、ぴしゃりとその前置きを断ち切った。
「それ、どうでもいいわ。おかわり頂戴」
有無を言わせない、勝利宣言みたいな声だった。
エドガーの口が半開きで止まる。ダリウスが木べらで鍋をかき混ぜながら、堪えきれないように肩を揺らした。
ミラが、負けじとスプーンを高く掲げる。左手だ。元気いっぱいの、その動きだけがやけに眩しい。
「私もおかわり! くださーい!」
「はいはい」とダリウスが応じる。
「ほら見ろ、講釈よりメシだ」とオットーがにやつく。
「私は講釈も……」とエドガーが言いかけ、またエリーの視線に押し戻される。
笑いが、ランタンの灯りの輪の中で転がった。くだらない。たわいもない。――だからこそ、誰も雑には扱わなかった。
明日、あの扉の向こうで、誰が傷つくか分からない。もしかしたら、命を落とすかもしれない。
だから今夜だけは、スプーンの音と、湯気と、笑い声を、慎重に手のひらで包むようにして、時間を進めた。
ミラは左手のスプーンを握りしめ、石の右腕にそっと寄りかからせた。
それだけで、少しだけ、明日に届く気がした。




