第79話 ここからは、プロだ
ミラは、鼻をひくつかせた。
(……いい匂い)
次の瞬間、寝袋を蹴飛ばす勢いでテントの入口から飛び出した。
「ミラ! 起きたのか!」
ダリウスが、火の向こうから嬉しそうに手を振る。
「さっきは助かったぜ!」
オットーが豪快に笑い、でかい手で骨付き肉をひょいと持ち上げた。
「さぁ、ご飯にしましょう」
エドガーが、いつもの穏やかな微笑みで空いている席を指し示す。
「…………」
エリーだけが、ほんの一瞬だけ目を細めた。嫌な予感と、確信とが混じったような沈んだ色。
「わー、スペアリブ!」
しかしミラはその空気に気づくことなく、目を輝かせて駆け寄った。
「いただきます!」
木皿の上には、照りのあるソースをまとった分厚い肉が何本も並んでいた。
表面はこんがりと焼き色がつき、ところどころに浮かぶ脂が、ランプの灯りを受けて艶やかに光る。
オットーが豪快に一本をつかみ、骨ごとかぶりついた。
噛んだ瞬間、パリッと焼けた皮が小さく音を立て、すぐ下から熱をたっぷり含んだ肉汁がほとばしる。
塩気の効いたソースに、はちみつのまろやかな甘み。そこへニンニクの香りがぐわっとせり上がり——口の中で、しっとりと柔らかい豚肉が、歯を受け止める。
「っはー……これだ、これだよなぁ!」
オットーが幸せそうに目を細める。
「おいしそ〜!」
ミラの喉が、ごくりと鳴った。
木皿に乗った一本へ向かって、右手を伸ばす——。
(……あれ?)
指先が、うまく肉を挟めない。
骨をつかんだつもりが、するりと抜ける。力が入らない。いや、それ以前に——何も「つかんでいる感覚」がない。
「どうした、ミラ?」
不思議そうなダリウスの声。
「ええっと……おかしいな」
ミラは笑ってごまかそうとした。
もう一度、今度は意識して力をこめて、肉へ指を伸ばす。
けれど、やはり掴めない。
木皿だけが、カタ、と空しく揺れる。
(なんで……?)
焦りと、不安がじわりと胸の底からせり上がる。
「……はぁ」
その横で、エリーが小さく首を左右に振った。
深いため息とともに、ランプの灯りに照らされた青い髪が揺れる。
エリーは立ち上がると、ミラの隣に腰を下ろした。
「ミラ」
名前を呼ぶ声は、意外なほど静かだった。
そして、迷いのない手つきで、ミラの右袖へ指を伸ばす。
布をつまみ、めくろうとした、その瞬間——。
「やめて!!」
テントの外まで響きそうな悲鳴だった。
ミラ自身も驚くほどの声量で、彼女はエリーの手をはたき落とす。
空気が、一気に凍りつく。
「……やめて」
さっきの叫びが嘘のように、小さな声になる。
「自分で、やるから」
震える声でそう言うと、ミラは右袖の端を、自分の左手でつまんだ。
指先が汗で滑る。何度か深呼吸をしてから——ゆっくりと、布をめくり上げていく。
手首。
前腕。
肘。
上腕。
肩口へと近づくにつれ、木皿の上でスペアリブの湯気だけが、場違いにのんきに立ち上っていた。
ランプの光に照らし出されたのは——。
手首から、右肩まで。
人肌の色を一切失い、灰色の石へと変わり果てた右腕だった。
誰も、すぐには言葉を出せない。
ダリウスも、オットーも、エドガーも——三人とも目を見開いたまま、石になったのはミラの腕だけじゃないかと思うほど、固まっていた。
「……なんでだよ」
最初に声を絞り出したのは、ダリウスだった。
「早すぎるだろ、こんなの」
声には、現実を拒むような色が混じっていた。
ミラは小さく首を振る。
俯きながら、左手で石の右腕をそっと撫でた。感触を、もう一度確かめるように。
「十階層で、オットーに《神光再命》を使った時から……」
ぽつり、ぽつりと言葉を落としていく。
「奇跡を使うと、石化が進行するって、わかったの」
「ちっ……」
オットーが舌打ちした。自分の奥歯を噛み砕きそうな勢いで。
「そんな時から……」
エドガーの声は、限界まで薄くかすれていた。
彼はミラの腕と、自分の手とを見比べ、何度か瞬きをしている。
「今は……」
ミラは、一度喉の奥で言葉を噛みしめた。
涙がこぼれないように、きゅっと唇を噛む。
「今は、加護を使うだけでも、少しずつ進行するようになっちゃった」
沈黙が、焚き火よりも重く降りてきた。
ダリウスは拳を握ったまま俯き、オットーは肩を震わせ、エドガーはただただランタン光を眺め、何も言えない。
「……これからは、私が加護を使うわ」
エリーの声だけが、奇妙に平坦だった。
感情を削り落とし、必要な情報だけを告げるような、冷静な調子で。
「エリー、お前……知っていたのか?」
ダリウスが顔を上げる。目の奥に、怒りと戸惑いが混ざっていた。
「ええ」
エリーはまっすぐ、その視線を受け止めた。
「ごめんなさい」
ほんの少しだけ、眉尻が下がる。
「エリーを責めないで」
ミラが、その言葉を遮るように口を開いた。
「私が、黙ってたの」
灰色の腕に添えた指先が、ぎゅっと布を掴む。
「ミラ……」
オットーが動いた。
巨大な身体をミラの正面に持ってきて、石の右腕ではなく、ちゃんと生身の左手の方を見ながら言う。
「ミラ、ありがとうな」
それは冗談でも、慰めでもない、真っ直ぐな声音だった。
「そこまでして、俺を治してくれてよ」
ミラは小さく首を振る。
ダリウスも、ゆっくりと近づいてきた。
いつもの暖かな微笑みもない。肩にのしかかる罪悪感の重みが、そのまま声になっていた。
「ああ、そうだな……」
自分に言い聞かせるように一度区切ってから、ダリウスは続ける。
「ミラ、すまない。ずっと、お前に背負わせてしまった」
エドガーも、眼鏡の奥の目を細める。
「ミラ、あなたはまだ子どもです」
いつもの講義口調とは違う、柔らかな叱責だった。
「もっと大人を頼ってくれていいんです。……いいえ、頼らないとダメなんです」
言いながら、ふと視線が灰色の腕へ落ちる。
「でないと、私たちは……」
その先の言葉は、喉の奥でほどけて、音にならなかった。
「ごめんね」
ミラが小さく謝る。
俯いたまま、それでも逃げずに言葉を続けた。
「でもね……」
涙で滲んだまなざしを、ゆっくりと上げる。
「みんなが死にかけた時は、迷わず使う」
その瞬間、ランプの光が、ミラの瞳の中で揺れた。
子どもの顔のまま、大人の覚悟だけがそこに宿る。
「決めてるから」
静かな宣言だった。
オットーの顔から、感情の色がすっと引いていく。代わりに、戦場で見せる「盾役」の表情になる。
「それは——覚悟してるのか?」
低く、腹の底から響く声。
ミラは一瞬だけ目を伏せた。
すぐに、また顔を上げる。今度は俯かない。
「うん」
短く、しかしはっきりと頷いた。
「周りを悲しませてもか?」
オットーの目が、鋭く細くなる。
怒鳴りつけているわけではない。ただ、その問いだけが、刃のように重かった。
ミラは、真正面からその視線を受け止めた。
「うん」
涙で滲んだ目で、それでもまっすぐ見つめ返す。
「みんなが死んじゃうくらいなら——」
一拍、息を吸う。
「使う」
その声は震えていたが、言葉だけは揺らがなかった。
しばしの沈黙のあと、オットーは大きく息を吐いた。
「……わかった」
その顔に浮かんだのは、諦めでも、許しでもない。
ただ、同じ土俵に立った者を認める時の、戦士の眼だった。
「使え」
短く、それだけを告げる。
「ちょっと、あなた」
エリーの声が、場の温度を一段下げた。
次の瞬間だった。
ダリウスががばっと立ち上がり、オットーの胸ぐらをつかむ。
「おい……!」
細身と巨体がぶつかり合い、テーブルと皿ががしゃりと鳴った。
「お前、ミラを殺したいのか?」
いつもの温厚さはどこにもなかった。
低く押し殺した声が、逆に怒りの深さを物語っていた。
オットーは、つかまれたままも視線だけは逸らさない。
「違ぇよ」
ひと文字ずつ噛みしめるように言葉を置く。
「ミラは話してくれた。覚悟も見せた。あいつはもう、守る対象でも子どもでもねぇ」
ぐっと指先に力がこもるダリウスを、正面から見返す。
「俺は、プロとして——仲間として、認めるって言ってんだ」
「ふざけるな!」
ダリウスの声が一段上がる。
「俺たちはな、お前がまだ《阿修羅》をろくに制御できなかった頃、何度、お前が死ぬんじゃないかって……どれだけ傷ついたかわかってんのか!」
オットーの肩がぴくりと揺れる。
昔の傷を抉られたような表情になり、それでも目だけは逸らさない。
「それでもだ」
低く唸るように返す。
「仲間のために命を張るなら、そいつはもう“プロ”だ」
言葉と一緒に、長年積んできた戦場の重みがテーブルに叩きつけられる。
「ダリウス、落ち着きましょう」
エドガーが割って入った。
間に立ちながら、両方を見比べる。
「ここで殴り合っても、誰も救われません」
「ダメだ!」
ダリウスはなおも引かない。
怒りが頂点に達し、とうとう本音が飛び出した。
「許されない!許すわけがない!」
喉元まで出かかっていた言葉を、とうとう飲み込まずに吐き出した。
「ミラは俺の娘だ!」
その一言で、空気が変わる。
「……ダリウス!」
ミラの声が、思った以上に大きく響いた。
「もう、子ども扱いしないで!」
ダリウスの手が止まる。
ぽかんとした顔でミラを見る。
「ミラ……?」
ミラは涙をぽろぽろこぼしながら、真っ直ぐダリウスを睨んだ。
「みんなに相談しなかったことは、ごめん!」
最初の一言だけは、はっきり謝る。
「でも、私の覚悟を——バカにしないで!!」
「怖いよ。死ぬのも、石になるのも、全部」
震える声で、それでも続ける。
「それでも前に出たいって決めたの。みんなと同じ場所、同じ方向を見て、ちゃんと戦うって」
その叫びに、ダリウスの指から力が抜けた。
オットーの胸ぐらを離し、一歩だけ後ろに下がる。
「……済まん」
短く、ぎこちない謝罪。
「オットー。ミラ」
オットーは鼻を鳴らして肩を回し、ミラは涙を拭いながらこくりと頷いた。
「ミラ」
エドガーが、静かに彼女の方へ向き直る。
さっきまでの怒声とは違う、穏やかな声音で。
「これからは、あなた一人で背負う必要はありません」
眼鏡の奥の瞳が、真剣に彼女を見据える。
「その代わり——私も、あなたを“プロ”として見ますよ」
甘やかしではなく、同じ土俵に立たせる宣言だった。
「うん」
ミラは涙だらけの顔のまま、それでもしっかりと頷いた。
「恐らく——」
エリーが口を開く。いつもの調子に戻ったような、冷静で事務的な声だ。
「命の危険が出るまでに、《神光再命》をあと五回は使えると思うわ。安全マージンを取るなら三回。それが限度ね」
具体的な数字が出たことで、場の空気が少しだけ現実へ引き戻される。
「わかった」
オットーが腕を組みなおす。
「基本の加護はエリーに任せる。即死級の怪我を負った時だけ、ミラに頼もう」
「ちょっと待て」
ダリウスが眉をひそめる。
「二回までだ。それ以上は譲れない」
「……わかった」
オットーはしばし黙り、やがて真剣な顔で頷いた。
「飲む」
そのやり取りを見届けてから、エリーはふうっと小さく息を吐く。
「いろいろ混乱してると思うわ」
皆の顔を順番に見回す。
「一旦、今日はもう寝ましょう。冷静になる時間が必要よ」
誰も反論はしなかった。
それぞれが、石の腕と、言ってしまった言葉と、これから数えることになる「残り回数」のことを抱えたまま——静かに、自分の寝袋へと散っていった。
*
テントの中は、外の冷気が嘘みたいにぬるくて、息苦しかった。
寝袋に横になっても、目は冴えるばかりだ。ミラはごろりと寝返りを打ち、背を丸めて、膝をぎゅっと抱き寄せる。
(もっと早く相談すればよかった……)
胸のあたりが、きゅうっと痛んだ。
(本気も、覚悟も……ちゃんと、最初から全力でぶつければよかった)
自分だけで勝手に決めて、勝手に抱え込んで。
そのくせ、限界になってから泣きついて——結果、みんなをあんな顔にさせてしまった。
ミラは、ゆっくりと右腕を見やる。寝袋の中でも、石の冷たさははっきりと分かった。
もう、人の腕じゃない。
(……戻らないんだろうな)
心のどこかで分かっていた言葉に、はっきりと形がつく。
ミラは、きゅっと目を閉じた。
暗闇の中で、小さく息を吸い込む。
「……ここからは、私はプロだ」
誰にも聞こえないような声で、はっきりと言う。
(次に誰かが倒れたら——)
頭に、さっきのオットーの顔が浮かぶ。血の気の引いた唇。震える声。
(ひとりでネックレスを握らない)
(まずエリーに言う。「一緒にお願い」って)
(ダリウスの顔を見て、「使うよ?」って聞く)
想像するだけで、胸の奥がぞわぞわとむず痒くなる。
怒られるかもしれない。止められるかもしれない。
(それでも——)
ミラは、左手で自分の胸をぎゅっと掴んだ。
「それをしてから、奇跡を使う」
呟きながら、自分で自分に約束の印を押すように、胸元をひとつ叩く。
「不調のときは相談する。
ひとりで決めない。
それでも必要なら——そのときは、ちゃんと全部出す」
言葉にすることで、自分に刻みつける。
もう「なんとなく」頑張る子どもじゃいられない。
命を預かる側として、ちゃんと頼って、ちゃんと並んで、ちゃんと戦う——そう決めた。
しばらく、テントの天井をぼんやり見つめていたが、やがて瞼が重くなってくる。
外では風が、遠くではランタンの火がかすかに揺れている。
そんな音とも気配ともつかないさざめきに紛れて、ミラの意識は少しずつ深いところへ落ちていった。
峡谷の夜は、静かに、更けていく。




