第78話 冷たい奇跡
四十六階層。
峡谷をまたぐように続く岩棚は、いやになるほどだだっ広かった。
足元はざらついた灰色の岩肌が一面に広がり、遮蔽物と呼べるものは、ところどころにぽつぽつと転がる人ひとり分ほどの岩塊だけだ。
「ここなら、伏兵の心配はなさそうだね」
ミラがぐるりと見渡し、慎重に言う。
「そうね」
エリーも同じように視線を巡らせ、短く同意した。
「——来たぞ」
ダリウスが剣を構え、前方を睨む。
砂煙を上げて現れたのは、武装したリザードマンとゴブリンの群れだった。
彼らは半円を描くように隊列を整え、じりじりと四人と一人を包み込んでいく。その後方では、ゴブリンメイジたちが魔導書を抱え、いつでも呪文を放てる態勢で待機していた。
「包囲網ってやつか」
オットーが舌打ちし、盾を正面に構え直す。
「包囲は薄いわ!」
ミラが即座に声を張った。
甲高いが、よく通る声だ。
「エリー、ダリウス! 左右から各個撃破して!」
呼びかけと同時に、エリーとダリウスは左右へと飛び出す。
ミラはくるりと振り返る。そこでは、エドガーがすでに魔導書を開き、詠唱を始めていた。
「オットーは、やや前方で《シールドバッシュ》! 遠距離攻撃にも警戒して!」
早口だが、言葉ははっきりしている。
指示を出し終えると、ミラは両手を合わせ、エドガーと自分の周囲に淡い光の結界を展開した。
*
右翼。
エリーは剣を構え、迫るリザードマンの槍をいなして懐に飛び込む。
一撃、二撃。鋼と鋼がぶつかり合い、火花が散る。切り伏せながらも、彼女の意識の一部は後方へ向けられていた。
(予想以上ね、ミラの指揮)
敵の数も、位置も、こちらの布陣も。
全体を見た上で、一切淀みなく命令が飛んでくる。そのおかげで——
(その分、私が前に出られる)
エリーは口の端だけで笑い、さらに一歩踏み込み、リザードマンの首筋を切り払った。
*
「《深き森》」
ダリウスが低く呟いた瞬間、世界の輪郭が溶けていった。
色も音も、温度さえも遠のき、白く霞んだ「線」だけが浮かび上がる。
敵の軌道、自分の踏み込み、刀身の延び——未来の動きが、分岐した道のようにつながって見える空間。
(右はダメか、潰される。左も分厚い……なら——上だ)
ダリウスは地面を蹴り、空へ跳んだ。
跳躍の軌道上から見下ろした視界で、包囲陣形の綻びが鮮やかに浮かび上がる。
そこへ、最適な角度と速度で剣が落ちる。
一撃。着地と同時に反転。二撃目は次の敵が踏み込む「前」に。
白い世界の導きに沿うように、敵が次々と斬り伏せられていく。
削られていく包囲陣形。
中央では——
*
オットーが光の壁を支えていた。
「《シールドバッシュ》!」
盾を地面に叩きつけるように構えると、前方に大きな光の板が立ち上がる。
そこに、ゴブリンメイジの放った火球や、弓兵の矢が次々と叩きつけられ、火と光が弾けた。
衝撃のたびに、オットーの腕に重さがのしかかる。
それでも彼は、歯を食いしばって一歩も退かない。
「……行けそうだな」
額に薄く汗を浮かべながら、オットーはぽつりと呟いた。
*
ミラは結界の内側で、じっと戦場全体を見ていた。
(……軽すぎるよ、攻撃が。数の割に押しが弱い。何があるの? 伏兵は——いないよね?)
嫌な違和感が背筋を這い上がる。
ミラはすぐさま隣のエドガーに向き直った。
「エドガー、《伸縮紐》でみんなをいつでも回収できるように準備しておいて」
声はいつもより低く、真剣だった。
「わかりました」
エドガーが冷静に頷き、魔導書の別ページへと指を滑らせる——。
その瞬間だった。
ゴゴゴゴ、と。
地面の奥底から、岩盤ごと揺さぶるような地鳴りが響いた。
「——っ!」
オットーのすぐ横、岩棚が内側から破裂するように盛り上がり、そこから巨大な影が飛び出した。
一瞬、巨大な土の柱にも見えたそれは、ぬらりとした皮膚を持つ、巨大なワームだった。
肥大化したミミズのような身体。だが、その口は環状に開き、内側には鋭い牙が幾重にも並んでいる。ひとたび噛み砕かれれば、ただでは済まないと、誰の目にもわかる凶悪な口だ。
「チッ……!」
だが、オットーの反応はそれ以上に速かった。
長年の戦場経験が、思考より先に身体を動かす。
オットーは反射的にワームから一歩退き、大斧の柄へと手を伸ばす。阿修羅を叩き込むつもりで——。
その足元が、崩れた。
「な——!」
岩棚がぱきぱきと音を立てて割れ、そのまま足場ごと崩落する。
「落とし穴! てめぇ、掘ったのか!?」
怒鳴りながらも、オットーの目は冷静だった。
視界が切り替わる。地面はもう「遥か下」、ワームは崩れた縁から身を乗り出し、後を追うように落ちてくる。
(深い……! 《シールドバッシュ》で落下の勢いを殺すか? それともワームにぶつけるか?)
一瞬で、いくつもの選択肢が脳裏をよぎる。
だが、どれも致命的な穴がある。
(ワームに向けりゃ、地面で潰れる。ここで死んだら意味がねぇ……!)
結論は一つだった。
「……地面だ!」
オットーは落下の途中で盾を構え直し、歯を食いしばる。
「《シールドバッシュ》!!」
着地と同時に、光の盾が地面に叩きつけられた。
轟音とともに衝撃が全身を駆け抜ける。
盾が落下の力を受け止め、衝撃を散らしてくれたのだ。
だが、息をつききる前に。
頭上から、巨大な影が落ちてくる。
ワームが口を大きく開き、鋭い牙を剥き出しにして、オットーめがけて突っ込んでくる。
「舐めるなぁっ!!」
吠えながら、オットーは地面を蹴った。
落下の勢いを利用し、半ば無理やり身体を捻る。
ぎちぎちと、筋肉と関節が悲鳴を上げた。それでも、身体は空中で回転し、致命の一撃だけは外れる軌道へと滑り込んでいく。
その代償として——。
ワームの牙が、オットーの左肩から腕を、丸ごと持っていった。
「——ッッ!!」
熱いものが噴き出す。
左肩から先が、突然「消えた」。遅れて痛みが脳を焼く。
だが、オットーはその痛みを、怒りと共に飲みこむ。
(落ち着け。ここで阿修羅を暴走させたら終わりだ……怒りは、斬るために使え)
「……いてぇなあ、こらぁ……」
低く、喉の奥で唸るように言いながら、オットーは大斧を両手——いや、片腕と残った筋肉で握りしめた。
「《阿修羅十連》!!」
振り下ろされた大斧が、残像を引く。
一撃目でワームの牙を叩き折り、
二撃目で口蓋を砕き、
三撃目で眼窩を潰し、
四撃目、五撃目——怒涛の連撃が、頭部を原形のない肉塊へと変えていく。
なおも動こうとする巨体に、オットーは斧を振り上げたまま、崩れた穴の壁へと叩きつけた。
壁に食い込んだ大斧の反動を利用して、一直線に駆け上がる。
引きずられるように、ワームの長い身体が千切れ、岩肌に血の帯を残しながら引き裂かれていった。
地上に躍り出たオットーは、そのまま地面を転がり、仰向けに倒れ込む。
左肩からは、止めどなく血が噴き出していた。
灰色の岩の上に、真っ赤な水たまりがじわじわと広がっていく。
「《伸縮紐》!」
エドガーが短く詠唱を締めくくると同時に、見えない紐がオットーの胴に巻きつく。
次の瞬間、ぶん、と空気を裂く音とともに、オットーは穴の底から一気に引き上げられ、後衛の足元へと転がり込んできた。
「オットー!!」
ミラの悲鳴が、峡谷の風に裂けて飛ぶ。
地面に仰向けになったオットーの顔は、血の気が引ききって真っ白だった。
それでも、彼はどうにか口角を上げてみせる。
「へへっ……どじっちまったぜ……」
笑い声は、ひどく頼りない。
ミラは膝から崩れ落ちるようにオットーのそばへにじり寄ると、胸元のネックレスを両手でぎゅっと握りしめた。
(今すぐ治さなきゃ。今すぐ——)
その瞬間、頭の奥でエリーの声が、鮮明によみがえる。
『次に“あれ”を使ったら——言うわよ』
エリーの冷たい視線。
岩陰で見せられた、灰色に変色した自分の腕。
全部が、一瞬でフラッシュバックする。
「……っ」
ミラは思わず目をぎゅっとつむり、首を左右に振った。
(そんなの、どうでもいい。
オットーを今すぐ治す。助ける。それしかない)
胸の内で、自分自身に叩きつけるように言い聞かせる。
ミラは大きく息を吸い込んだ。震える声を、無理やり整える。
そして、ネックレスを掲げるように両手で持ち上げ——。
「——暖かき女神の息吹よ、肉体を再び編み直せ。《神光再命》!!」
詠唱のラストと同時に、眩い光がオットーの身体を包んだ。
ミラの視界の端で、エリーが何かに気づいてこちらへ振り返る。
慌てて手を伸ばし、走り出す気配。
「ダメ!!」
エリーの叫びが届いた時には——もう、遅かった。
光が、弾ける。
失われていたはずの左腕が、まるで巻き戻しを見ているかのように、骨から筋肉、血管、皮膚へと、一瞬で再構成されていく。
青白かったオットーの顔に、じわじわと赤みが戻った。
「……お、おお……?」
自分の腕を見つめ、オットーが呆然と指を握ったり開いたりする。
ミラの視界が、ぐにゃりと揺れた。
遠くなっていく音。
心臓の鼓動だけが、やけに大きく響く。
(間違ってない。間違ってない。
私がやるの。私が全部——治すんだ)
必死にそう繰り返そうとした言葉は、声になる前に途切れる。
ミラの膝から力が抜けた。
ネックレスを握ったまま、糸が切れた操り人形のように、その場に崩れ落ちる。
「——ミラ!」
誰かの叫ぶ声を、もうはっきりとは聞き取れなかった。
最後に見えたのは、自分の右腕。
袖の中で、石のような冷たさが、また少しだけ広がっていく感覚——。
そこで、ミラの意識はぷつりと暗転した。




