第76話 合理的判断
四十五階層。
峡谷の底でもなく、かといって余裕をかませる高さでもない。
およそ二十メートルほどの切り立った岩壁が両側にそびえ、その間を、細い谷が蛇のようにうねりながら続いていた。
足元には、崩れた岩がごろごろと転がっている。
もし、ここで不意に強い揺れでも来れば——と想像しただけで、背筋がひやりとする。
「……嫌な地形だな」
ダリウスが顔をしかめて呟いた。
視線は常に前方と頭上を行き来している。戦場の匂いを嗅ぎ慣れた男の、それは癖のようなものだった。
「このエリアが峡谷の上まで続いてるなら、上からと下からで挟撃される可能性があるね」
ミラが、唇に指を当てながら言う。
ただの感想ではない。覚えたばかりの「戦術」という言葉を、きちんと消化した上での推測だった。
「ミラ、お前、本当に勉強ができるんだなぁ」
オットーが、頭の後ろで手を組み、感心したように笑う。
「オットー、ただ覚えるだけだよ?」
ミラは、不思議そうにオットーを見上げた。
彼女にとっては、本当に「覚えたことをそのまま口にしているだけ」なのだ。
「ミラは特待生だからな」
ダリウスが、どこか自慢げに付け足す。
その声には、「自分のパーティーの自慢の子だ」という色が濃くにじんでいた。
「結局、エリーの“楽しい授業”について行ったのは、ミラだけでしたからね……」
エドガーは肩をすくめ、どこか遠い目でため息をついた。
「一応、私もノートは取っていたんですが——途中で“補足資料”として渡された書簡一覧が、国立魔法院の卒業試験範囲の三倍あったんですよ。あれを『ちょっと読んでおきなさい』で済ませる師匠側と、それを全部覚えてくるミラだけが人間じゃないんです」
そうぼやく声には、僅かな嫉妬と、純度の高い尊敬が混ざっている。
「えへへ……」
褒められているのかどうかよくわからず、とりあえずミラは照れ笑いを浮かべた。
ミラが足を止め、ぐるりと周囲の岩壁を見回した。
「エリー、マッピングお願いできる?」
振り返った先で、エリーはすでに口角を上げていた。
「もちろんよ。さすがね、よく理解できてるじゃない」
さらりと褒め言葉を添えつつ、長い青髪をかき上げ、胸元の魔導印にそっと指を添える。その仕草だけで、「頼られること」が少し嬉しいのが分かる。
「あ、あの、ミラ」
おずおずと手を上げたのは、エドガーだった。
「私もマッピングはできますが……再現率百で」
自信はある。あるのだが、若干声が小さい。
「遅いから却下ね」
ミラは即答した。
本当に、悪気ゼロで。
「なっ……」
口を開いたまま固まるエドガー。その横で、エリーの指先から淡い光が溢れ出す。
「——できたわよ」
足元の岩肌に、峡谷一帯を俯瞰した立体図がすうっと浮かび上がる。谷筋、分岐、風の通り道まで線で描かれていく。ミラが身をかがめて、それを確認した。
「ほらね」
さらっと肩をすくめるミラ。やっぱり悪意はない。ただ純粋に、早くて便利な方を選んだだけだ。
「……しかしですね」
それでも、エドガーは食い下がる。眼鏡の位置を直しながら、マッピングされた光の端を指さした。
「精度が。ほら、端の部分、少し色が薄いです。情報密度が……」
「でも、ゆっくりしてたら挟撃されちゃうから」
ミラはさらっと言う。
「エドガーのを待つと、ティータイムになっちゃうよ」
エドガーの胸に刺さるストレート。
本当に悪意はない。ただ、事実を述べただけ——なのが余計に痛い。
エリーは「やれやれ」と言いたげに手をひらひら振った。
「そういうわけだから、今回は私ので行きましょう?」
「我々はですね」
エドガーは、なんとか一矢報いようと、胸元を正して咳払いした。
「魔術師の偉大な物語を紡ぐ責任が……その歴史の一ページとして、精度を——」
「そんなこと“どうでもいい”から」
ミラは本当にさらっと、明るい声で言い切った。
「エドガー、伸縮紐で渓谷の上まで運んで」
笑顔。悪意ゼロ。純度百パーセントの「お願い」である。
「…………」
エドガーは一瞬、空を仰いだ。
中年の男が、無言で受け止めるにはあまりに容赦がない。
「……了解しましたよ。どうせ私は、“運搬用魔術師”ですよ……」
ぶつぶつ言いながらも、ちゃんと魔導書を開きかけたところで、エリーがすっとその前に割り込んだ。
「そっちより、私の《飛翔》でいきましょう」
ニヤリ、と悪戯っぽくエドガーを見やる。
「エドガー、すぐに魔力切れするから。マナポーションも節約したいわ」
「ちょっ……!」
抗議の声は、一拍遅れた。
ミラは顎に指を当てて、素直にうなずく。
「本当だね」
「ミラまで!?」
中年の誇りが、容赦なくズタズタである。
結局その場の多数決(という名の空気)に押し切られ、移動手段はエリーの《飛翔》に決まった。
*
「じゃ、行くわよー。《飛翔》」
エリーが軽く詠唱すると、足元の大地がふわりと遠ざかっていく。魔法陣が身体を支え、全員の体が渓谷の斜面からすーっと浮き上がった。
「……」
エドガーは腕を組んだまま、わざとらしく口をつぐんでいる。顔は正面を向いているが、耳までほんのり赤い。
完全に拗ねていた。
中年にも関わらず、である。
「おいエドガー」
隣で浮かびながら、オットーが肩をぽんぽん叩いた。
「お前が魔力切れで倒れたら、俺たちも困るからな。気を遣ったんだよ。な?」
「……慰めになっているようで、全然なっていないのですが」
エドガーは視線を落とし、峡谷の底を見ないようにしながらぼそりと答える。
「それでも、俺はお前の魔法、頼りにしてるぞ」
ダリウスが、少し真面目な声で付け加えた。
「そうそう。お前の高火力な魔法があるから、俺も前に出られるんだ。……ま、今日は飛行魔法様に花を持たせてやろうぜ」
オットーが笑い、ダリウスも釣られて笑う。
エドガーは小さく息を吐いた。
「……善処しますよ。ええ」
渓谷の風が、くるりと一行を撫でていく。
ふわりと高度が上がり、岩肌の向こうに、次の戦場となる大地が顔を出した。
拗ねた中年を両脇から励ましながら、四人と一人は、渓谷の上へと運ばれていった。
*
峡谷の上は、思ったよりも平らだった。
切り立った崖の縁から少し離れた場所に、岩がごろごろ転がるだけの開けた道が伸びている。
「ここを進めば、大丈夫そうだな」
オットーが前方を見渡しながら、いつもの調子で言う。
「ああ、そうだな」
ダリウスも頷き、剣の柄に軽く手を添えた。
「…………そうですね」
ひとりだけ、声に覇気がない。
エドガーはまだ口を尖らせ、さっきまでの“飛翔事件”を引きずっていた。
「エドガー、元気ないね? どうしたの?」
心配そうに覗き込むミラに、エドガーは慌てて姿勢を正す。
「いえ、別に。私は常に平常運転ですよ」
「ミラ」
エリーが、なぜか勝ち誇った目で割って入る。
「大人はね、たまにそういう時もあるのよ。いろいろ積み重なると、拗ねたくなるの」
「へえ……大人って大変なんだね」
「大変なのよ」
エリーは、ちらりとエドガーを憐れむように見て、楽しそうに微笑んだ。
「前方、ゴブリン!」
ダリウスの声が空気を張りつめさせた。
その瞬間には、ダリウスとオットーが前に踊り出ている。
エドガーも条件反射のように魔導書を開き、指で栞を挟んだ。
岩陰から飛び出した十数体のゴブリンたち。
虚を突かれたのは、完全に向こう側だった。
「よし、数も少ない。これなら——」
勝利を確信しかけた、その時だった。
「……ッ!」
オットーの右足が、ぴき、と小さく痙攣した。
次の瞬間、顔がぐにゃりと歪む。
「くぅうううううう!!」
巨体が前のめりに、ずしん、と地面に倒れ込んだ。
渓谷の上の岩場が揺れたような気さえする。
もちろんその衝撃は全身を駆け巡る。
そして——
「ぐぅうう! 腰もかぁあ!!」
痛風と腰痛のダブルコンボである。
「オットーーー!!」
「オットーーー!!」
エドガーとダリウスの叫びが見事にハモった。
そこには、茶化し抜きの友情があった。
「俺に構わず……行け……前に……!」
オットーは青ざめた顔のまま、地面に寝転がった体勢で、盾をぎゅっと抱え込む。
そして、寝たまま吠えた。
「《シールドバッシュ》!!」
どごん、と鈍い音。
地面から光の盾が生えたように、目の前に巨大な防壁がせり上がった。
姿勢は最悪、角度は妙に斜め。
それでも、ゴブリンたちの突撃を正面から受け止めるには十分だった。
盾の向こうから、金属音と悲鳴が響く。
それでもオットーは、腰を押さえながら歯を食いしばる。
(仲間だけは……通さねぇ……!)
それが、オットーという漢だった。
「——オットー、任せろ!」
シールドの端から飛び出したダリウスが、一直線に駆け込んでいく。
剣閃。
一閃。また一閃。
ゴブリンの棍棒が振り下ろされる前に、腕が飛ぶ。
剣を構えるより早く、喉が裂ける。
逃げようと背を向けた者の背骨を、容赦なく切り上げる。
十、十五、二十——
ダリウスが踏み込むたびに、緑色の影が地面に崩れ落ちていく。
数秒後には、立っているゴブリンは一体もいなかった。
渓谷の風が、ふわりと静けさを連れてくる。
「……終わったぞ、オットー」
剣を払ってから振り返ったダリウスに、オットーは地面に寝転んだまま、親指だけをぐっと立ててみせた。
「おう……さすがだな……」
勝利は、あまりにもあっさりと——しかし、確かな連携のもとに訪れたのだった。
*
戦闘が終わり、ようやく一息つける空気になったころ。
オットーはまだ地面に座り込んだまま、汗で前髪を額にはりつかせながら、苦しそうに顔を上げた。
「すまん、ミラ。加護をかけてくれ」
呼ばれた名前に、ミラの顔がぱっと明るくなる。
「うん、わかった!」
いつものようにネックレスへ手を伸ばしかけた、その瞬間——。
エリーの細い腕が、すっと彼女の前に差し出された。
白い手の甲が、行く手を遮る。ミラがきょとんと見上げた先で、エリーは笑っていなかった。
氷のように冷えた琥珀色の瞳が、真っ直ぐミラを射抜く。
——使ったら、言うわよ。
言葉にはならないはずの“警告”が、その視線だけで肌に刺さる。
ミラの喉が、小さくひゅっと鳴った。
さっきまで赤らんでいた頬から、みるみる血の気が引いていく。
「私がやってあげる。ミラは調子が悪いみたいだから」
エリーは淡々とそう告げると、オットーの方へ向き直った。
その声音には、さっきミラに向けた鋭さなど一欠片もない。
「そうなのか、ミラ。何かあれば言えよ」
オットーは心配そうに眉をひそめ、寝転んだ体勢のまま首だけこちらへ向ける。
「……うん」
ミラは俯いたまま、小さく答えるのがやっとだった。
「今日は野営の準備しなくていいから休んでおいていいぞ。調子が悪い時は早めにな」
ダリウスが、いつもの柔らかな笑顔に心配を混ぜて言う。
「ありがと……」
やっぱり顔は上げられない。
足元の砂利を、つま先でそっといじる。
「確かに加護はミラに偏り過ぎてましたね。エリーもいることですし、分担した方がいいですね。ミラ、気が回らなくてすいません」
エドガーもまた、申し訳なさそうに目尻を下げて微笑んだ。
みんな、優しい。
ちゃんと心配してくれているのはわかる。わかるのに——。
「……大丈夫……」
ミラは顔を上げようとして、途中でやめた。
口だけ笑いの形に引きつらせて、か細い声でそう返す。
その硬い笑顔の裏で、胸の奥がきゅうっと痛む。
ネックレスに伸ばしかけた指先は、ぎゅっと握られたまま、行き場をなくして震えていた。




