第71話 青い髪が揺れる
ベッドの上で、エリーは天井を見つめていた。
さっきまでの会話の余熱がまだ胸の奥に残っている。
(……結局、どちらにせよ一人になるのよね)
ぽつりと心の中で呟く。
それは千年のあいだ、何度も何度も心の中で反芻してきた、擦り切れた一文だった。
まぶたが重くなる。
体の疲労と、心の疲弊とが、ようやく彼女を眠りへと引きずり込んでいく。
——そして、夢が始まる。
*
最初に浮かんだのは、まだ若い男の横顔だった。
茶色の長い髪を後ろで一つに束ね、顔立ちはどこか線が細く、どこか頼りない。
けれど、その目だけは真剣で、紙の上に載ったインクの光沢を、少年みたいなきらめきで見つめていた。
「はぁあああ……素晴らしい」
興奮を隠しきれない声。
白衣の袖でインクの染みをぞんざいに拭いながら、彼——ディートリッヒは振り向く。
「インクの配合を変えたんです。なんと! 出力が、〇・〇〇三上がりました!」
誇らしげに掲げられた魔導書。
ページの端にまでびっしりと書き込まれた注釈が、彼の執念深さを物語っている。
対面の椅子に座っていたエリーは、青い髪を一房すくい上げ、無造作にかきあげた。
年月の流れを受けつけない、澄んだ水のような青。その色は、彼と出会った頃から、何一つ変わらない。
「ふふっ、それ、誤差じゃない?」
肩をすくめて笑うと、ディートリッヒはむっとしたように唇を尖らせ——そのあと、照れたように笑った。
「誤差かどうかは、積み重ねてから決まるんですよ。……百年あれば、きっと大差になります」
「百年ね。短いわ」
「やっぱり、感覚がバグってますよ、あなた」
二人の笑い声が、書斎に小さく弾けた。
——そのときの彼の髪は、陽に透けるような茶色。
ほんのりと赤みを帯びたその色は、まだ“若さ”という名の光沢を保っていた。
*
景色がゆっくり上書きされていく。
積み重なった紙束がさらに高くなり、机のインク壺は新しいものに取り替えられ、窓の外の樹木は一回り太くなる。
その間——エリーの髪色は、まったく変わらない。
相変わらず、澄んだ青。年月の重さを拒むように、透明なままだ。
けれど、ディートリッヒだけは違った。
茶色の長髪はそのままだが、こめかみのあたりに、細い銀色の糸が一本、また一本と混じり始める。
最初は冗談半分に「絵の具が跳ねた」などと言っていた白が、いつしか誤魔化せない“色”へと変わっていく。
頬には、細かな皺が刻まれた。
睡眠より実験を優先した夜が重なり、そのたびに一本、線が増えていく。
「——《穿炎連鎖》」
魔導書を片手に、彼は静かに詠唱を終えた。
次の瞬間、迸った炎は一本の線ではなく、絡み合う蛇の群れのように形を変える。
紅の蛇たちは岩を溶かし、爆ぜた熱風が暴風のように吹き荒れ、前方にいたワーウルフをまとめて焼き尽くした。
焼け焦げた匂いと、魔力の残滓が空気を震わせる。
「……完成した」
ディートリッヒは、震える指でページをなぞりながら、掠れた声で呟いた。
「貫通魔法だ……。やっと、やっとだ……」
額には汗。
息は少し荒く、声にはかすかな老いの影が混じり始めている。
それでも、その瞳には——昔と同じ、いや、あの頃よりもずっと強い輝きが宿っていた。
エリーは、青い髪を揺らしながら彼のほうへ歩み寄る。
風に踊った髪は、初めて出会った日と変わらぬ色で光を弾いた。
「すごいわね……。これからは、魔法体系が変わるわ」
心からの賛辞だった。
技巧でも慰めでもない、純然たる事実としての賞賛。
ディートリッヒは、少しだけ照れたように目を細める。
「変わってくれますかね。誰か、ちゃんと読み解いてくれればいいんですが」
「読み解くわよ。……私が」
そう言って微笑んだエリーの横顔は、やはり変わらない。
ただ、その視界の端で——彼の髪の茶色は、さっきより少しだけ淡くなって
*
時間は、残酷なほど律儀に、彼だけを老いさせていった。
かつて茶色だった髪は、今では一本残らず白く染まっている。
枕に散ったその白髪は、雪を思わせるほど淡く、頼りない。
ディートリッヒはベッドに横たわっていた。
痩せた肩は布団に沈み、頬はこけ、皮膚は紙のように薄い。目は開いているのに、その黒はどこにも焦点を結んでいない。ただ、天井のどこかを、ぼんやりと見つめているだけだった。
「……エリー」
か細い声が、乾いた空気を震わせる。
「……近くにいるのか?」
ベッド脇の椅子に座っていたエリーは、青い髪を小さく震わせた。
彼女の髪だけは、あの日のままだ。澄んだ湖の底のような青が、変わらぬまま彼女の肩を流れている。
「えぇ、ここにいるわ」
そっと手を伸ばし、枯れ枝のように痩せた指先に、自分の指を絡める。
ディートリッヒは、ふっと微笑んだような気がした。
「もう……魔導書も読めないな」
言葉は細く途切れながらも、どこか少年みたいな響きを含んでいる。
「でも、このインクの染みた匂い……紙の手触り……」
彼はわずかに指を動かし、枕元に積まれた魔導書の山の方向を探る。
「……全部が、美しいんだ」
エリーは、喉の奥がきゅっと締めつけられるのを感じた。
「そうね……」
それ以上、言葉が続かない。
何を言っても、薄っぺらな慰めにしかならない気がして、唇を噛んだ。
ディートリッヒは、ゆっくりと息を吸い込み——そして、かすかな笑い声を漏らす。
「君より……長生きするつもりだったんだがな。計算が……外れた」
冗談めかした言い方なのに、その声は優しく、どこか誇らしげですらあった。
エリーは、泣きそうな声で笑う。
「バカね。私はエルフよ?」
数百年も千年も、平気で超える種族だ。
寿命だけを比べるなら、最初から勝負になっていない。
それでも、彼は首を小さく横に振る。
白髪が、枕の上でさらりと擦れた。
「違うんだ」
その声は、かすれているのに、不思議とはっきりと耳に届く。
「人は……忘れられたときに、消え去る」
エリーは息を呑んだ。
「魔法だよ。……私の魔法は、難しすぎた。誰も、再現できなかった」
ぼそぼそとしたつぶやき。
悔いとも諦めともつかないものが、その隙間からこぼれ落ちる。
エリーは、何も言えないまま彼の手を握りしめた。
ディートリッヒは目を閉じかけ、それでも、途切れ途切れに言葉を紡ぐ。
「私の魔法を……ずっとそばに……」
ゆっくりと、言葉を選ぶみたいに。
「悠久の時を生きる……君と一緒に……連れていきたかったんだ」
エリーの視界が、ぼやけた。
ぽたり、と。
頬を伝った涙が、ディートリッヒの手の甲に落ちる。
「いつか……出てくるわよ」
かすれた自分の声が、自分のものじゃないみたいに響く。
「私には、時間が無限にあるもの」
涙を拭おうともせず、エリーは彼の手を両手で包み込んだ。
「だから、あなたの魔法を再現する人が現れるまで……頑張ってみるわ」
それは約束であり、祈りであり、呪いにも似た誓いだった。
白くなりきった髪を枕に散らした男と——
出会った日と同じ色の青髪を揺らすエルフが、静かな部屋で手をつなぐ。
外の世界では、相変わらず時間が流れ続けている。
けれど、このささやかな書斎だけは、今にも止まりそうなほど、静かだった。
*
ばっと、シーツが跳ね上がった。
エリーは勢いよくベッドから飛び出す。
裸足の足裏に、冷たい床板の感触が刺さるように伝わった。
(……忘れてた)
胸の奥で、何かが弾けた。
(忘れてたじゃない……置いてきてたんだわ。ディートリッヒは——)
青い髪がふわりと舞う。
彼女はタンスを開け放ち、ローブを乱暴に引き抜いた。
(魔法は、生きてる。あの人の魔法は、今も私のそばにいる)
ベルトを締める。弓を背負う。
矢筒の重さが背中に戻った瞬間、胸の迷いが少しだけ薄れた。
(行かなきゃ)
ブーツをつっかけながら、心臓がうるさいほど鳴る。
(もしかすると私は、どこかで壊れるかもしれない。きっとまた、喪う。絶望する)
それでも、と彼女は奥歯を噛みしめる。
(それでも——あいつらバカと、一緒に塔を登る)
部屋の扉を開け放つと、夕方の光が廊下を満たしていた。
日差しはすでに傾き、渓谷の向こうへと沈みかけている。
「……もう、こんな時間」
待ち合わせ場所に駆け込むが、そこは空っぽだった。
風だけが、崖の隙間をすり抜けて鳴っている。
(間に合わなかった……?)
胸がきゅっと締まる。ほんの一瞬、足が止まりかけた。
それでもすぐに、エリーは自分の頬をぺちんと軽く叩く。
(まだよ。次の階層に行けば——きっと、まだ間に合う)
彼女は渓谷の足場を蹴り、四十三階層への転移陣へと走り出した。
ロープの軋む音、木箱を引き上げる滑車の音、行き交う人々の喧噪——すべてを背中に置き去りにして。
*
転移の光が収まると、目の前の景色が一気に開けた。
四十三階層。
峻険な岩肌の向こうに、また別の渓谷が広がっている。薄く霧がかかり、赤みを帯びた空が、その向こう側をぼんやりと照らしていた。
足元には、モンスターの死骸がいくつも転がっている。
焼け焦げた皮膚からは、まだ熱が立ちのぼっていた。
その中で——
「いってぇぇ……っ、ちょ、ミラ、加護を!早く!」
「わかったわ!いくわよ!」
痛風の足を押さえて騒ぐオットーと、真剣な顔で治療するミラ。
「……はぁ、はぁ……ドラゴンの後でこれはないだろ……」
膝に手をつき、ぜいぜいと息をついているダリウス。
「……ふむ。やはりこの高さだと、目薬の浸透感が違いますね」
そして少し離れた岩の上で、老眼用の目薬を器用にさしながら、どこか満足げに瞬きをしている男——
古き魔法を、現代に呼び戻した魔導士。
「…………」
エリーの胸から、力が抜けた。
喉まで出かかっていた後悔も、逃げ出したくなるような恐怖も、全部、拍子抜けするくらい一瞬で。
「エリー!!」
四人の声が重なる。
痛風、息切れ、老眼——それぞれにガタの来た身体を引きずりながら、それでも全員がこちらを振り向いて叫んでいた。
エドガーが、一歩前に出る。
「いいんですか?」
その声は、どこか覚悟をうかがうような、少しだけ慎重な響きを帯びていた。
「一緒についてきて」
エリーは、ふっと笑った。
「あなた達、中年で弱いから危なっかしいのよ」
わざと肩をすくめ、呆れたような口調で続ける。
「……しょうがないから、もう少しだけ付き合ってあげるわ」
エドガーもわざとらしく肩をすくめ口をひらく。
「では“さようなら”は撤回ですね」
ダリウスが大きく息を吐き、空を仰いでから笑った。
「よし。じゃあ飯にしよう!」
さっきまで死にかけていた男とは思えない声量だ。
「今日は腕によりをかけるぞ!」
「こりゃ、期待しただけで腹が減るぜ!」
オットーが腹をさすりながらにやりと笑い、ミラが勢いよく手を挙げる。
「肉! 肉がいいわ!」
「はいはい、わかってるよ」
エドガーは微笑み、慣れた手つきで折りたたみ式のテーブルを組み立て始める。
その横顔を見つめながら、エリーは小さく息を吐いた。
さっきまで、自分の中で世界が終わるみたいな顔をしていたのが馬鹿みたいだ。
この連中は——何度死にかけても、こうしてすぐ「飯だ」「酒だ」と笑っている。
渓谷を吹き抜ける強い風が、青い髪を大きく揺らした。
いつもなら肌を刺すように冷たいはずの風が、今日はやけに心地よい。
「……まったく」
思わず、口元がほころぶ。
「ほんと、救いようのないバカばっかり」
それでも、彼らの隣は——
一万年の孤独で擦り切れた心には、あまりにもあたたかすぎた。
エリーは、皆の輪へと歩いていった。
夕暮れの渓谷には、いつものように、どうしようもなく騒がしくて、どうしようもなく幸せな笑い声が響き始めていた。




