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【完結済】息切れ・痛風・老眼おっさんパーティ、“老齢の塔”に挑む 旧:塔の頂きへ  作者: けんぽう。


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第71話 青い髪が揺れる


 ベッドの上で、エリーは天井を見つめていた。

 さっきまでの会話の余熱がまだ胸の奥に残っている。


(……結局、どちらにせよ一人になるのよね)


 ぽつりと心の中で呟く。

 それは千年のあいだ、何度も何度も心の中で反芻してきた、擦り切れた一文だった。


 まぶたが重くなる。

 体の疲労と、心の疲弊とが、ようやく彼女を眠りへと引きずり込んでいく。


 ——そして、夢が始まる。



 最初に浮かんだのは、まだ若い男の横顔だった。


 茶色の長い髪を後ろで一つに束ね、顔立ちはどこか線が細く、どこか頼りない。

 けれど、その目だけは真剣で、紙の上に載ったインクの光沢を、少年みたいなきらめきで見つめていた。


「はぁあああ……素晴らしい」


 興奮を隠しきれない声。

 白衣の袖でインクの染みをぞんざいに拭いながら、彼——ディートリッヒは振り向く。


「インクの配合を変えたんです。なんと! 出力が、〇・〇〇三上がりました!」


 誇らしげに掲げられた魔導書。

 ページの端にまでびっしりと書き込まれた注釈が、彼の執念深さを物語っている。


 対面の椅子に座っていたエリーは、青い髪を一房すくい上げ、無造作にかきあげた。

 年月の流れを受けつけない、澄んだ水のような青。その色は、彼と出会った頃から、何一つ変わらない。


「ふふっ、それ、誤差じゃない?」


 肩をすくめて笑うと、ディートリッヒはむっとしたように唇を尖らせ——そのあと、照れたように笑った。


「誤差かどうかは、積み重ねてから決まるんですよ。……百年あれば、きっと大差になります」


「百年ね。短いわ」


「やっぱり、感覚がバグってますよ、あなた」


 二人の笑い声が、書斎に小さく弾けた。


 ——そのときの彼の髪は、陽に透けるような茶色。

 ほんのりと赤みを帯びたその色は、まだ“若さ”という名の光沢を保っていた。



 景色がゆっくり上書きされていく。

 積み重なった紙束がさらに高くなり、机のインク壺は新しいものに取り替えられ、窓の外の樹木は一回り太くなる。


 その間——エリーの髪色は、まったく変わらない。

 相変わらず、澄んだ青。年月の重さを拒むように、透明なままだ。


 けれど、ディートリッヒだけは違った。


 茶色の長髪はそのままだが、こめかみのあたりに、細い銀色の糸が一本、また一本と混じり始める。

 最初は冗談半分に「絵の具が跳ねた」などと言っていた白が、いつしか誤魔化せない“色”へと変わっていく。


 頬には、細かな皺が刻まれた。

 睡眠より実験を優先した夜が重なり、そのたびに一本、線が増えていく。


「——《穿炎連鎖》」


 魔導書を片手に、彼は静かに詠唱を終えた。


 次の瞬間、迸った炎は一本の線ではなく、絡み合う蛇の群れのように形を変える。

 紅の蛇たちは岩を溶かし、爆ぜた熱風が暴風のように吹き荒れ、前方にいたワーウルフをまとめて焼き尽くした。


 焼け焦げた匂いと、魔力の残滓が空気を震わせる。


「……完成した」


 ディートリッヒは、震える指でページをなぞりながら、掠れた声で呟いた。


「貫通魔法だ……。やっと、やっとだ……」


 額には汗。

 息は少し荒く、声にはかすかな老いの影が混じり始めている。


 それでも、その瞳には——昔と同じ、いや、あの頃よりもずっと強い輝きが宿っていた。


 エリーは、青い髪を揺らしながら彼のほうへ歩み寄る。

 風に踊った髪は、初めて出会った日と変わらぬ色で光を弾いた。


「すごいわね……。これからは、魔法体系が変わるわ」


 心からの賛辞だった。

 技巧でも慰めでもない、純然たる事実としての賞賛。


 ディートリッヒは、少しだけ照れたように目を細める。


「変わってくれますかね。誰か、ちゃんと読み解いてくれればいいんですが」


「読み解くわよ。……私が」


 そう言って微笑んだエリーの横顔は、やはり変わらない。

 ただ、その視界の端で——彼の髪の茶色は、さっきより少しだけ淡くなって



 時間は、残酷なほど律儀に、彼だけを老いさせていった。


 かつて茶色だった髪は、今では一本残らず白く染まっている。

 枕に散ったその白髪は、雪を思わせるほど淡く、頼りない。


 ディートリッヒはベッドに横たわっていた。

 痩せた肩は布団に沈み、頬はこけ、皮膚は紙のように薄い。目は開いているのに、その黒はどこにも焦点を結んでいない。ただ、天井のどこかを、ぼんやりと見つめているだけだった。


「……エリー」


 か細い声が、乾いた空気を震わせる。


「……近くにいるのか?」


 ベッド脇の椅子に座っていたエリーは、青い髪を小さく震わせた。

 彼女の髪だけは、あの日のままだ。澄んだ湖の底のような青が、変わらぬまま彼女の肩を流れている。


「えぇ、ここにいるわ」


 そっと手を伸ばし、枯れ枝のように痩せた指先に、自分の指を絡める。


 ディートリッヒは、ふっと微笑んだような気がした。


「もう……魔導書も読めないな」


 言葉は細く途切れながらも、どこか少年みたいな響きを含んでいる。


「でも、このインクの染みた匂い……紙の手触り……」


 彼はわずかに指を動かし、枕元に積まれた魔導書の山の方向を探る。


「……全部が、美しいんだ」


 エリーは、喉の奥がきゅっと締めつけられるのを感じた。


「そうね……」


 それ以上、言葉が続かない。

 何を言っても、薄っぺらな慰めにしかならない気がして、唇を噛んだ。


 ディートリッヒは、ゆっくりと息を吸い込み——そして、かすかな笑い声を漏らす。


「君より……長生きするつもりだったんだがな。計算が……外れた」


 冗談めかした言い方なのに、その声は優しく、どこか誇らしげですらあった。


 エリーは、泣きそうな声で笑う。


「バカね。私はエルフよ?」


 数百年も千年も、平気で超える種族だ。

 寿命だけを比べるなら、最初から勝負になっていない。


 それでも、彼は首を小さく横に振る。

 白髪が、枕の上でさらりと擦れた。


「違うんだ」


 その声は、かすれているのに、不思議とはっきりと耳に届く。


「人は……忘れられたときに、消え去る」


 エリーは息を呑んだ。


「魔法だよ。……私の魔法は、難しすぎた。誰も、再現できなかった」


 ぼそぼそとしたつぶやき。

 悔いとも諦めともつかないものが、その隙間からこぼれ落ちる。


 エリーは、何も言えないまま彼の手を握りしめた。


 ディートリッヒは目を閉じかけ、それでも、途切れ途切れに言葉を紡ぐ。


「私の魔法を……ずっとそばに……」


 ゆっくりと、言葉を選ぶみたいに。


「悠久の時を生きる……君と一緒に……連れていきたかったんだ」


 エリーの視界が、ぼやけた。


 ぽたり、と。

 頬を伝った涙が、ディートリッヒの手の甲に落ちる。


「いつか……出てくるわよ」


 かすれた自分の声が、自分のものじゃないみたいに響く。


「私には、時間が無限にあるもの」


 涙を拭おうともせず、エリーは彼の手を両手で包み込んだ。


「だから、あなたの魔法を再現する人が現れるまで……頑張ってみるわ」


 それは約束であり、祈りであり、呪いにも似た誓いだった。


 白くなりきった髪を枕に散らした男と——

 出会った日と同じ色の青髪を揺らすエルフが、静かな部屋で手をつなぐ。


 外の世界では、相変わらず時間が流れ続けている。

 けれど、このささやかな書斎だけは、今にも止まりそうなほど、静かだった。



 ばっと、シーツが跳ね上がった。


 エリーは勢いよくベッドから飛び出す。

 裸足の足裏に、冷たい床板の感触が刺さるように伝わった。


(……忘れてた)


 胸の奥で、何かが弾けた。


(忘れてたじゃない……置いてきてたんだわ。ディートリッヒは——)


 青い髪がふわりと舞う。

 彼女はタンスを開け放ち、ローブを乱暴に引き抜いた。


(魔法は、生きてる。あの人の魔法は、今も私のそばにいる)


 ベルトを締める。弓を背負う。

 矢筒の重さが背中に戻った瞬間、胸の迷いが少しだけ薄れた。


(行かなきゃ)


 ブーツをつっかけながら、心臓がうるさいほど鳴る。


(もしかすると私は、どこかで壊れるかもしれない。きっとまた、喪う。絶望する)


 それでも、と彼女は奥歯を噛みしめる。


(それでも——あいつらバカと、一緒に塔を登る)


 部屋の扉を開け放つと、夕方の光が廊下を満たしていた。

 日差しはすでに傾き、渓谷の向こうへと沈みかけている。


「……もう、こんな時間」


 待ち合わせ場所に駆け込むが、そこは空っぽだった。

 風だけが、崖の隙間をすり抜けて鳴っている。


(間に合わなかった……?)


 胸がきゅっと締まる。ほんの一瞬、足が止まりかけた。


 それでもすぐに、エリーは自分の頬をぺちんと軽く叩く。


(まだよ。次の階層に行けば——きっと、まだ間に合う)


 彼女は渓谷の足場を蹴り、四十三階層への転移陣へと走り出した。

 ロープの軋む音、木箱を引き上げる滑車の音、行き交う人々の喧噪——すべてを背中に置き去りにして。



 転移の光が収まると、目の前の景色が一気に開けた。


 四十三階層。

 峻険な岩肌の向こうに、また別の渓谷が広がっている。薄く霧がかかり、赤みを帯びた空が、その向こう側をぼんやりと照らしていた。


 足元には、モンスターの死骸がいくつも転がっている。

 焼け焦げた皮膚からは、まだ熱が立ちのぼっていた。


 その中で——


「いってぇぇ……っ、ちょ、ミラ、加護を!早く!」


「わかったわ!いくわよ!」


 痛風の足を押さえて騒ぐオットーと、真剣な顔で治療するミラ。


「……はぁ、はぁ……ドラゴンの後でこれはないだろ……」


 膝に手をつき、ぜいぜいと息をついているダリウス。


「……ふむ。やはりこの高さだと、目薬の浸透感が違いますね」


 そして少し離れた岩の上で、老眼用の目薬を器用にさしながら、どこか満足げに瞬きをしている男——


 古き魔法を、現代に呼び戻した魔導士。


「…………」


 エリーの胸から、力が抜けた。


 喉まで出かかっていた後悔も、逃げ出したくなるような恐怖も、全部、拍子抜けするくらい一瞬で。


「エリー!!」


 四人の声が重なる。

 痛風、息切れ、老眼——それぞれにガタの来た身体を引きずりながら、それでも全員がこちらを振り向いて叫んでいた。


 エドガーが、一歩前に出る。


「いいんですか?」


 その声は、どこか覚悟をうかがうような、少しだけ慎重な響きを帯びていた。


「一緒についてきて」


 エリーは、ふっと笑った。


「あなた達、中年で弱いから危なっかしいのよ」


 わざと肩をすくめ、呆れたような口調で続ける。


「……しょうがないから、もう少しだけ付き合ってあげるわ」


 エドガーもわざとらしく肩をすくめ口をひらく。


「では“さようなら”は撤回ですね」


 ダリウスが大きく息を吐き、空を仰いでから笑った。


「よし。じゃあ飯にしよう!」


 さっきまで死にかけていた男とは思えない声量だ。


「今日は腕によりをかけるぞ!」


「こりゃ、期待しただけで腹が減るぜ!」


 オットーが腹をさすりながらにやりと笑い、ミラが勢いよく手を挙げる。


「肉! 肉がいいわ!」


「はいはい、わかってるよ」


 エドガーは微笑み、慣れた手つきで折りたたみ式のテーブルを組み立て始める。

 その横顔を見つめながら、エリーは小さく息を吐いた。


 さっきまで、自分の中で世界が終わるみたいな顔をしていたのが馬鹿みたいだ。

 この連中は——何度死にかけても、こうしてすぐ「飯だ」「酒だ」と笑っている。


 渓谷を吹き抜ける強い風が、青い髪を大きく揺らした。

 いつもなら肌を刺すように冷たいはずの風が、今日はやけに心地よい。


「……まったく」


 思わず、口元がほころぶ。


「ほんと、救いようのないバカばっかり」


 それでも、彼らの隣は——


 一万年の孤独で擦り切れた心には、あまりにもあたたかすぎた。


 エリーは、皆の輪へと歩いていった。

 夕暮れの渓谷には、いつものように、どうしようもなく騒がしくて、どうしようもなく幸せな笑い声が響き始めていた。


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