第70話 団欒のあとで
エドガーは片手で皿を重ね、もう片方の手で残飯をまとめて掻き集める。
洗い物は泡立てた水の中へ放り込み、その合間に床に散乱したパンくずや食べかけの干し肉を拾い上げては、空いた皿にぽいぽいと乗せていく。
魔導書はひとまず角を揃えて積み上げ、ソファに脱ぎ捨てられた服は種類ごとに分けて、椅子の背や棚の端に引っかける。
動きに無駄がない。まるで、何度も同じ光景を片付けてきた人間のようだった。
エリーは、椅子の上で膝を抱えたまま、その背中をただ見つめていた。
(……本当に、あの人そっくりね)
遠い昔の記憶の中で、同じように洗い物を片づけ、散らかった魔導書を拾い上げていた誰かの姿が蘇る。
インクの匂い、紙の手触り、混ざり合った香辛料と薬草の匂い——そんなものが、一気に胸の奥まで押し寄せてきた。
胸の奥が、きゅ、とつかまれる。
次の瞬間、息が詰まり始めた。
「っ……は……」
喉がきしむ。
空気を吸おうとしても、肺の中へはほんの少ししか入っていかない。
吸っても、吸っても、足りない。
(ま、また……)
胸の内側から水が満ちていくみたいだった。
息を吸うたびに、その水が気道へ入り込んでくるような、ひどく理不尽な溺れ方だ。
「は……っ、はぁ……っ……」
視界の端がじわじわと暗くなり、耳鳴りが遠くで鳴り始める。
その時、シンクの方を向いていたエドガーが、洗い物を手に取ったままふと振り返った。
「まったく、これはいつの靴下ですか……」
呆れ半分、諦め半分のぼやき。
それが途中で不自然に途切れた。
「……エリー?」
彼の声色が、一拍で変わる。
「エリー!?」
椅子に座ったまま肩で荒い息を繰り返すエリーに駆け寄り、その身体を支えるように抱き起こす。
青い髪が乱れ、視線はどこにも焦点を結んでいない。
「っ、はぁ……はぁ……」
かすれた呼吸が喉の奥で引っかかる。指先は冷え、腕は小刻みに震えていた。
「大丈夫です、動かないで」
エドガーは短く言うと、そのままひょいとエリーの身体を抱き上げた。
重さを確かめるように一度だけ足を踏みしめ、ベッドの方へと運ぶ。
崩れ落ちそうな体重を腕の中で支えながら、エドガーは眉間に皺を寄せた。
(やっぱり……一人にしておくべきじゃなかった)
そう心の中で呟きながら、彼は慎重にベッドの上へエリーを横たえた。そしてベッドの縁に腰を下ろし、ゆっくりとエリーの背中をさすった。
「大丈夫ですよ。……はい、ゆっくり。大きく息を吸って……そうです、それから吐いて」
肩が上下するたびに、ひゅう、と心許ない音が漏れる。
何度か繰り返すうちに、その音は少しずつ静かになっていった。痙攣していた指先から力が抜け、胸の上下も落ち着きを取り戻していく。
エドガーは、しばらく彼女の呼吸のリズムを確かめてから、そっと立ち上がった。
「少し待っていてください」
そう言ってキッチンへ向かう。散乱していたコップの山の中から一つを取り上げ、さっき洗ったばかりの清潔なものを選ぶと、水を注ぐ。
踵を返して戻ってきたときには、いつもの穏やかな笑みを顔に戻していた。
「水です。……あ、コップはちゃんと洗ったので大丈夫ですよ」
その一言に、エリーは思わず吹き出した。
「ふ……っ」
自分でもおかしいと分かっているのだろう。涙の名残で濡れた目尻を指でこすりながら、弱々しく笑みを浮かべる。
「あなたって、本当に……」
続きを言葉にする前に、また胸が震えそうになる。
エドガーはそれを見て、首を軽く振った。
「無理して喋らなくていいですよ。……ゆっくり、水を飲んでください」
差し出されたコップを両手で包み込むように持ち、エリーはひと口、ふた口と慎重に喉へ流し込んだ。冷たい水が熱を帯びた喉を通りすぎ、胃のあたりに落ちていく感覚が、少しだけ現実へと自分を引き戻してくれる。
「……もう、大丈夫よ」
声は掠れているが、さきほどのような切迫感はなかった。
エリーは息を整えながら、伏せていた視線をゆっくりと上げる。青い瞳が、真っ直ぐエドガーを捉えた。
「ねぇ、少し……昔話をしても、いいかしら?」
エドガーはその目を見返し、静かに頷く。
椅子を引き寄せ、ベッドの傍らに腰掛けた。
「もちろんですよ」
促すように微笑むと、エリーは一度だけ目を閉じ、言葉を探すように息を吸った。
「人の子と、交流を持ったエルフがどうなるか……知ってる?」
問いかける声は、まだ弱々しい。それでも、その奥には触れてはいけない何かを掘り起こそうとする覚悟が滲んでいた。
エドガーは、嫌な予感を覚えながらも、目を逸らさない。
「……いえ」
短い否定のあとに、重い沈黙が落ちる。
「みんな、自死よ」
ぽつりと落とされた言葉は、部屋の空気を一瞬で冷やした。
さっきまで漂っていた洗剤と紙の匂いが、急に遠くに感じられる。
「…………」
エドガーは言葉を失ったまま、拳を膝の上で握りしめる。
エリーは天井を見上げた。視線は遥か昔、ここではないどこかを彷徨っている。
「だからエルフは、結界の中で隠れて生きるの」
エリーは、握っていたコップをそっと胸の上に置いた。白い指先が、ほんのかすかに震えている。
「……一万年のあいだで」
まだ力の戻りきらない声が、静かに部屋に零れた。
「愛した人は、三人いた……。みんな、自分の腕の中で看取ったわ」
そう言って笑おうとしたのかもしれない。けれど唇の端はうまく上がらず、代わりに、悲しみを塗り隠し損ねた表情がそこに浮かんだ。
「最後に看取った人が、ディートリッヒ。原書を書く魔術師だったわ」
その名を口にした瞬間、空気がほんの少しだけ揺らいだ気がした。
エドガーの肩が、ビクリと跳ねる。
「げ、原書を……!? どうやって!? いや理論的にはあり得るんです、インクと媒体の——あっ……すいません、続けてください」
つい前のめりになりかけた自分を慌てて押しとどめ、エドガーは口を押さえる。
エリーはその様子に、かすかに目を細めた。
「そういうところ、そっくり」
今度の笑みは、ちゃんと形になっていた。懐かしさが、そこに混じる。
「本当に、魔法が好きでね。……あなたの使ってる貫通魔法」
「穿炎連鎖、ですか?」
エドガーが思わず自分の胸元——魔導書のある場所へと手をやる。
エリーは視線を天井へとさ迷わせながら、ぽつり、ぽつりと言葉を紡いだ。
「そう。あれを書いたのが、彼……ディートリッヒ。
あなたが、それをあんな精度で再現したとき——」
そこで一度、喉が震えた。
声にならない息が、一拍ぶん、途切れる。
「……彼が、生き返ったような気がしたの」
涙が今にも零れそうになるのを、必死に睫毛のところで食い止める。
エリーはぎゅっと目を閉じ、深く息を吸った。
「あなたたちと一緒にいるとね」
そう前置きして、今度は視線をエドガーに向けず、遠くを見るように続ける。
「思い出すの。昔の旅を……団欒を……、くだらない言い合いも、命がけの戦いも。
新しい魔法を見つけたときの、あのどうしようもない好奇心も……」
一つひとつの言葉に、色の違う記憶が乗っているようだった。
「……そして、愛した人や友人、それを失う悲しみを」
最後の一語だけが、ひどくか細くなった。
胸の奥から引き剝がしたばかりの傷口を、無防備にさらけ出すみたいに。
「だからね」
エリーは、ようやくエドガーの方へ目を向ける。
そこには強がりと弱さが、危ういバランスで同居していた。
「これ以上は、一緒に行けないの」
低く落とされた宣告に、エドガーはすぐに返事をしなかった。
言葉を選ぶように、ほんの少しの沈黙が流れる。
やがて彼は、ゆっくりと息を吐き、柔らかな笑みを浮かべた。
「……いいんですよ」
その声は、責めも泣き言も含まない、ごく、普通の調子だった。
「あなたが、元気でいてくれる方が大事ですから」
その一言に、エリーの肩がぴくりと揺れる。
「……やめてよ」
寝返りを打ち、毛布ごと背中を向けてしまう。
見えない顔の向こうで、笑っているのか泣きそうなのか、声だけでは判別できない。
「そう言われると……また行きたくなっちゃうでしょ」
拗ねたような、震えたような、小さな抗議だった。
エドガーは椅子から立ち上がる。ギシ、と木の脚が床を鳴らす。
「もう、大丈夫そうですね」
出入り口の方へ二、三歩進んでから、振り返る。
エリーはまだ、背中を見せたままだ。
「では、私はここで失礼します」
「……えぇ」
返ってきたのは、枕に埋もれたようなくぐもった返事だった。
エドガーは、ほんの一瞬だけ迷うように視線を揺らし——それから、いつものように穏やかな笑みを作る。
「さようなら」
扉へと向かう背に向かって、そっと告げる。
エリーの喉が、小さく鳴った。
「……さようなら」
泣き出す直前の子どものような、頼りない声だった。
その一言が、板張りの部屋の中に淡く残響し、やがて静寂に溶けていく。




