台座に手を、数式に魂を
老齢の塔は、昼の陽光を浴びて白くそびえ立っていた。
空へ向かってまっすぐ伸びる塔は、見上げても最上階が見えない。視線を上げるほど首が痛くなる。形は細く、圧がある。
草原からの風が、四人の外套を揺らす。
「……着いたな」
ダリウスは深く息を吸い、短く呟いた。胸が膨らみ、吐く息が少しだけ震える。
「よーし! 早速入るわよ!」
ミラは弾むように言うと、
「入り口探してくる!」
と言って、塔へ向かって駆け出した。
「お、おいミラ! 待て!」
オットーが慌てて手を伸ばすが、当然届かない。靴底が草を蹴る音だけが遠ざかる。
エドガーはこめかみを押さえ、ため息をついた。
「……始まりましたね」
ミラは塔の外周へ走り、姿が小さくなる。乾いた土が舞い、足音が消えた。
しばらくして戻ってくる。息が乱れ、肩が上下していた。
「遅かったですね」
エドガーが諦めたように言うと、
「はぁ……はぁ……なかったよ……入り口……」
ミラは膝に手を当て、息を切らしていた。
「ミラ、人の話は聞け」
ダリウスは額に手をやり、指先でこすった。
「当然でしょう。形状からして、これは転移型ダンジョンです」
エドガーは淡々と言い、塔を指さした。
「外周の幅が不自然に狭い。通常の階層構造ではあり得ません」
「てん……い……がた?」
ミラは首をかしげる。
オットーが鼻の下をかきながら言った。
「塔の外の見た目と、中の構造が違うんだよ。
入り口から一歩踏み込んだ時点で、別空間に転移させられるタイプだ」
「へぇ……そんなのが……」
ミラは目を丸くした。
「まぁ、いろんなダンジョンに潜ったからな」
ダリウスは肩をすくめる。
「何事も経験だ」
「で、ダリウス」
オットーが前のめりになる。息が早く、口元が緩んでいる。
「転移の仕組みはどうなんだ? どうやって入る?」
「ああ」
ダリウスは手元のメモをひらりと見て答える。
「資料によると……塔の前の“台座”に手を乗せて、
三十五歳以上なら第一層に飛ばされるらしい」
ミラの目が光る。肩が上がり、背筋が伸びる。
「ダリウス、すごいね……形見るだけでダンジョン分かるんだ……」
「まぁな」
ダリウスは照れずに胸を張る。
「それより台座に手を乗せようぜ!」
オットーが三段腹を揺らしながら、子どものように前のめりになる。
「……まぁ、試してみましょう」
エドガーは冷静を装っているが、袖の下で指が微妙に震えていた。
(久しぶりの冒険……期待していないと言ったら嘘ですね……)
四人は台座の前に立った。
白い石は陽光を弾き返し、目を細めたくなる。表面は滑らかで、近づくほど冷たい気配がする。
全員が手を乗せた。
沈黙。
何も起きない。石は微動だにせず、風の音だけが通る。
「……反応しないな」
ダリウスが眉を寄せる。
エドガーは顎に手を添えた。視線が台座をなぞり、口がわずかに動く。
「やはり、ミラが十六歳なので条件を満たしていないのでしょう」
また沈黙。
ミラは目をぱちぱちさせたのち、
「あっ、わかった!」
声が跳ねた。背筋が伸びる。
どこから出したのか、チョークを取り出す。
「みんな手を乗せて!」
言われるがまま、三人は再び台座に手を置く。
ミラは台座の縁に、迷いなく数式を書き始めた。
Y>35 ⇒ X解放条件
Σ(冒険者年齢)/n ≥ 35
∵35≒π×10+5
√ミラ+ダリウス²=愛
「よしっ」
ミラは胸を張り、鼻息を鳴らす。目がきらきらしている。
その瞬間。
ゴッ……!
台座が震え、微かな光が走る。
「は?」
エドガーが声を漏らす。
光が一気に強まった。足元が細かく震え、塔の白い壁が脈打つように見える。
四人の影が揺れ、輪郭が薄くなる。
「反応した!?」
ダリウスが目を見開いた。
ミラは誇らしげに腕を組む。
「ほらね!」
「な、なぜだ……? 数学で扉が開く時代なんですか……?」
エドガーは眉を寄せ、口元を引きつらせた。握った指が台座から離れない。
光がさらに強まり。
四人の姿は、台座からかき消えた。
*
次の瞬間、四人は薄暗い空間の中に立っていた。
湿った空気。
岩肌から滴る水の音。
松明の火がぽつぽつと並び、足元だけを照らしている。半径五メートルほど先から先は闇に溶けた。
「……ダンジョン内部だ」
ダリウスが即座に腰を落とし、周囲を見る。剣の柄に手がかかる。
「バ、バカな……入れた……?
理屈が……っ、理屈が崩壊してる……!
ダンジョンは因果と法則の塊なんですよ!?
なぜ“落書き”に従うんですか! なぜ!?」
エドガーは本気で混乱していた。魔導書を抱え直し、息が細かい。
「ふっ……まぁな……」
オットーは胸を張る。目が泳ぐのを必死に止めている。
ミラは胸をドーンと張り、鼻でふん! と笑う。
「どうだ! 私の計算、完璧でしょ!」
湿った空気の中で、水滴の音が響く。
ダリウスだけは目線を闇へ固定し、剣に手を添えたまま動かない。
「……正面に五体。来るぞ!」
声と同時に、闇の奥が動く。
松明の灯りの縁に、黄色く濁った目が並んだ。
棍棒。錆びた剣。拳に握られた石。
素手の二体は牙を剥き、口を開けたまま走ってくる。
「ギャァァァァッ!!」
五体のゴブリンが一斉に突進してくる。
「オットー、前線! シールドバッシュ!
エドガー、即時発射の魔法を!
ミラは後ろへ!」
ダリウスの指示が飛ぶ。言葉が短く、間がない。
「了解!!」
オットーは胸板を張り、地面を蹴った。
しかし。
「ぐっ……!」
走り出した瞬間、ひざがガクン、と沈んだ。
顔が歪む。歯が鳴る。片足が止まった。
オットーは膝を押さえ、声を絞る。
「くっ……ダリウス……すまん……膝だ……
痛風が……出た……!」
沈黙。
言い方が妙に重かったせいか、ゴブリンの動きまで止まる。
「……ギ?」
オットーは真剣な眼差しで仲間に叫ぶ。
「みんな! 前線を下げて、俺の後ろまで来てくれ!!」
ダリウスはバックステップでゴブリンの剣をいなしながら返す。
「いきなり痛風か! エドガー、魔法はどうだ!?」
「老眼もありますが……ドライアイが来ました!
目薬をさすので少々待ってください!!」
エドガーは真剣な表情のまま、魔導書を鼻先ぎりぎりに寄せる。
次の瞬間、腰のポーチから小瓶を取り出した。
目薬。
沈黙。
五体のゴブリンも困惑したように動きを止めていた。
「ギ……ギャ?」
薄暗い洞窟の中で、別の戦いが進んでいた。
老いと、体調と、呼吸の乱れ。中年たちの方が先に追い詰められていく。




