第68話 届かない悲鳴
四十二階層のセーフエリアは、まるごと一つの渓谷をくり抜いて作られた街だった。
切り立った巨大な崖に、木材で組まれた足場が縦横無尽に張り巡らされている。岩肌にはところどころ大きな穴が掘られ、そこが住居や店舗になっていた。崖の途中から灯りがこぼれ、足場の板の隙間からは、下の段の明かりがこぼれ落ちる。
上下の移動手段もまた、地上の街とはまるで違っていた。人がぎゅうぎゅうに乗れるほどの大きな木箱がロープに吊られ、滑車でギシギシと巻き上げられていく。階段や梯子でひいこら登る者もいれば、その木箱に乗って悠々と昇り降りする者もいる。
ここでも、住民の多くはモンスターだった。
苔と石でできた身体を持つゴーレムが、太い指で器用に花束を束ね、花屋の店先に並べている。少し離れた足場では、鋭い嘴を持つ鳥型の魔物が、自分の翼で剣や防具を支えながら「今日のおすすめだ」とばかりに客に売り込んでいた。
その頭上を、ときおりトロッコがガタガタと音を立てて走り抜けていく。
けたたましい警告の鐘も、怒鳴り声も、不思議と殺伐とはしていない。渓谷に響くその騒がしさは、この場所で暮らす者たちの息づかいと混ざり合い、「危険」よりもむしろ、生き生きとした生活の匂いを強く感じさせた。
渓谷の中を吹き抜ける風が、木の足場をぎしぎしと鳴らしていた。
「とりあえず飯にしようぜ!」
三段腹をぽんぽんとさすりながら、オットーが実に真剣な顔で宣言する。
「そうですね」
エドガーは顎に手を添え、いつもの癖で少し考え込むような仕草をした。
「ダリウス、コンラートからもらった資金はどれくらい残ってますか?」
「それがなぁ——」
ダリウスは、腰のあたりからしわくちゃの皮袋を取り出す。口紐をほどき、中をのぞき込んでため息をついた。
「全く減らないんだよ」
袋の中では、虹色にきらめく硬貨がいくつも光を弾いていた。ダリウスはその一枚を指先でつまみ、苦笑い混じりにぼそりと呟く。
「本当に、どんな計算してんだあの爺さんは……」
「ちょっと見せなさい」
隣から、エリーがすっと顔を寄せてきた。白く細い指が皮袋の口を押し広げる。
「……あら」
中身を確認したエリーは、呆れたように目を細める。
「それだけあったら、十年は遊んで暮らせるわよ?」
「えっ!?」
ミラが文字どおり飛び上がった。金髪がぴょこんと揺れる。
「コンラート、お金持ちだったんだ……!」
「まあ、あのおっさんだもの」
エリーは肩をすくめ、ため息を一つ落とす。
「どうせ手広く商売でもやってるんでしょ。武具に薬に情報屋、ついでに魔物の愚痴聞きまでね」
「コンラートはお爺さんだよ?」
ミラが、きょとんとした顔で首をかしげる。
その言葉に、エリーの表情が一瞬だけ揺れた。驚きが走り、それから、ふっと薄く脆そうな影が差す。
「……そう。そうよね」
納得するように、どこか諦めるように、小さくもう一度繰り返す。
エドガーは、その横顔をちらりと見た。何かを察したように、話題を切り替える。
「——さぁ、資金は豊富です」
わざとらしいほど明るい声色で、両手を軽く広げてみせる。
「いつもは食べられないような豪華な食事にしましょう」
「おいおい」
ダリウスが半眼になり、エドガーをじろりと見る。
「俺の飯が豪華じゃないって言いたいのか?」
「そ、それは——」
エドガーは慌てて視線を逸らした。
「そういう意味では、決して……!」
ダリウスは一拍置いてから、ふっと笑ってみせる。
「冗談だよ。わかってる」
その笑みに釣られるように、オットーが「はっはっは」と腹を抱え、ミラもつられて笑い出す。
エリーも、口元に手を当てながら、以前よりずっと自然な笑みを浮かべていた。
渓谷の喧騒の中、彼らの笑い声が、木の足場と岩壁に柔らかく反響していった。
*
食後の渓谷は、頭上から日差しが斜めに差し込み、岩肌と木の足場をぽかぽかと温めていた。
木で組まれた通路の上を、五人はのんびりと歩きながら、露店に並ぶ装備や食料をあれこれ眺めていく。
「はぁ〜……私、あんなおっきい海老、初めて食べたかもー」
ミラがふくらんだお腹をさすりながら、幸せそうにため息をついた。
「ほら、じっとしてなさい」
隣を歩くエリーが、やれやれといった様子で立ち止まる。クマさんの刺繍が入った可愛らしいハンカチを取り出すと、ミラの口元についたソースを丁寧に拭った。
「まったく。口の横に、べったりついているわよ」
「えへへ」
ミラが照れ笑いすると、その様子を見ていたエドガーが、ふっと小さく笑う。
「……あなたもですよ」
何気ない調子でそう言われ、エリーはきょとんと目を瞬かせた。
「は? そんなわけ——」
「ここです」
エドガーは軽く身をかがめると、自分の指先で、エリーの口元の端をそっと指し示した。
思った以上に距離が近い。透き通るような青髪が、エドガーの肩にかかりそうになる。
「っ——!?」
エリーの頬が、瞬く間に赤く染まる。
「……嘘です」
エドガーは肩をすくめて、わざとらしく視線を逸らした。
「あなたねー!」
エリーがかっとなって、一歩詰め寄る。怒ったふりをしているが、その目元はどこか笑っていて、距離はむしろ縮まっていく一方だった。
ミラは、その二人を数歩後ろから眺めていた。
(……おっと。これは——)
脳内で、きゅいーんと「恋愛警察」の警笛が鳴る。
(今、エリーの顔、けっこう赤かったよね? そしてエドガーも、ちょっとだけ嬉しそうだったよね?)
二人の肩と肩が、さりげなく並ぶ。エリーが小声で何か文句を言い、エドガーが半歩だけ前に出てエリーを人混みからかばうように歩く。
(ダメダメダメ、ここで話しかけたら台無し! ここは見守るのが私の役目……いや、恋愛警察官としての職務……!)
ミラは、そろそろと自分だけ数歩分スピードを落とし、二人との距離をさりげなくあけた。
そこへ、まったく空気を読まない足音が一つ。
「はっはっは、エドガーがシャンパン頼んでくれるとは思わなかったぜ」
オットーがずい、と横から割り込み、当然のようにエドガーの肩に腕を回した。
せっかくエドガーとエリーの距離がいい感じに縮まっていたのに、その一撃で全部ご破算である。
(邪魔だよオットー、空気読んでよ!)
ミラは心の中でテーブルをひっくり返した。
「でもさ」
ダリウスがくるりとエドガーの方へ向き直る。
「フルコースでも魔導書持ちながら食う癖は、健在だったな」
図星を突かれたエドガーが、気まずそうに視線を逸らす。
(ダリウスー!! オットーはしょうがないけど、ダリウスはわかるでしょ!!)
ミラは両手で自分の頬をむにむにとつねりながら、必死に話題を変えようとした。
「み、みんな、ここの滞在はどれくらいかな?」
わざとらしく声を張り上げる。
「私はさ、ちょっと疲れちゃったから……長めにとりたいなぁ、とかね!」
ダリウスは腕を組み、渓谷の上の空を見上げてしばらく考え込む。
「そうだな。かなり装備がくたびれてきたからな。俺の剣も、オットーの斧も新調するか。……五日後に出発しよう」
(きたきた!)
ミラの目がきらりと光る。
「じゃ、宿はどうする? 私とダリウスは一緒でもいいよ。オットーはイビキが大きいから一人部屋ね」
「おい」
オットーが小さく抗議の声を上げるが、ミラは聞こえないふりをしてニヤリと笑う。
「エリーは……」
(行け、エドガー! ここで男を見せるのよ!!)
しかし、その期待の一歩先を、別の声がさらっていった。
「そうね」
エリーは、少しだけ視線を落としてから顔を上げた。その淡い碧眼には、どこか寂しげな迷いがにじんでいる。
「ちょっと一人で考えたいことがあるの。……私は、あっちの少し離れた宿にするわ」
(なんでぇ!?)
「えっ、でもみんなと——」
ミラが慌てて口を挟もうとした、そのとき。
「ミラ」
エドガーがにこりと微笑み、そっとミラの顔を覗き込んだ。
「大人にはですね、一人になって整理したい時間があるんですよ」
穏やかな声だった。
その言葉に、ミラは思わず口をつぐむ。
「……そっか」
エリーは何も言わず、くるりと踵を返す。
「じゃあね。五日後」
それだけ残して歩き出す後ろ姿は、いつもより少しだけ速い。渓谷の足場を駆け上がるたび、青い髪がふわりふわりと揺れて、上へ、さらに上へと消えていく。
その背中を見送りながら、ミラは胸のあたりが、きゅっと縮むような感覚を覚えていた。
*
その夜。
エリーは薄暗い一人部屋の狭いベッドの上で、シーツにくるまっていた。
寝台はきしきしと頼りなく軋む。壁は近く、天井も近い。渓谷の夜風が窓の隙間からひゅうと鳴って、どこか遠くでトロッコの軋む音がこだましている。
(もう、彼らは十分強くなった……)
頭の中で、さっきまでの光景が繰り返し再生される。
ドラゴンの爪を躱すダリウス。
再生するオーガの首を斬り飛ばすオットー。
自分一人でワーウルフを仕留めたエドガー。
それを、上から見ているだけだった自分。
(私の役目は終わった。……もう、離れるべき)
そう言い聞かせるように思考が回る。
だが、その輪に必ず「でも」が挟まる。
(でも……)
何度も寝返りを打つ。シーツがくしゃくしゃになり、肌に張り付く。落ち着きなく足が動き、心の中だけじゃ足りずに、体までもがそわそわと落ち着かない。
(ついていきたい。……彼らがどんな答えに辿り着くのか、見てみたいって、思う自分がいる)
その願いを認めた瞬間、胸のどこかがちくりと刺された気がした。
エリーは仰向けになり、天井を見つめる。
「……この天井」
ぽつりと、誰に聞かせるでもなく声が漏れる。
(実家に、似てる……?)
木の梁の組み方。染みの形。
既視感が喉の奥まで込み上げてきた、次の瞬間。
(誰かが、私の名前を呼んでいた気がする。でも、その声の主の顔がどうしても浮かばない。……そうか)
エリーの目が細められる。
(この記憶も、食われたのか)
思い出そうとした瞬間、輪郭が砂のように崩れていく。
笑い声も、食卓も、呼ぶ声も……全部、指の隙間から零れ落ちる水みたいに消えていく。
追おうとするほど、消えていく。
息が詰まった。
エリーは視線をそらすように、勢いよく横を向き、窓の外を見た。
渓谷の上に浮かぶ夜空には、大きな赤い月が、ゆらゆらと歪みながら淡い光を投げていた。
(ついていけば——絶望する)
胸の奥で、誰かの声にも似た言葉が鳴り響く。
(何度も、何度も、何度も。……そうだった)
愛したものを失う感覚。
気づけば一人だけ残されているあの静寂。
見送るしかできなかった背中。
赤い月が、じわりと涙ぐんだ視界の中で、血の色のようににじむ。
(でも……)
ふいに、脳裏に浮かぶのは、ほんのささいな昼の光景だ。
誰かが作ってくれる食卓。
グラスをぶつける音。
くだらない冗談で笑い合う声。
どこにでもある、安っぽくて、何の価値もないような話で過ぎていく時間——なのに、胸の奥をじんわりと温めてくれる、あの感覚。
そして。
(……エドガー)
名前を思い浮かべた途端、胸の中心がぎゅっと握り潰されたみたいに痛んだ。
「っ……」
呼吸が、急にうまくできなくなる。
肺に空気が入ってこない。入ろうとして、喉のあたりで詰まる。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……」
エリーは上体を起こし、胸に手を当てた。心臓が暴れるように跳ねている。
指先が冷えていく。足の先まで血が引いていくように感覚が遠のく。
呼吸すればするほど、息が足りなくなっていく。
(やめて……また? 今さら? そんなはずない、私は大丈夫、もう平気なはず……)
頭の中がぐるぐると回る。
かつての夜が蘇る。
誰もいなくなったテーブル。
冷えた皿。
何も返してくれない椅子。
あの日、崩れ落ちるように床に座り込んで、同じように息ができなくなったこと——。
(落ち着け。これは……昔の話よ。私は大丈夫。心を殺せ。何も感じるな。もう終わったのよ)
必死に自分に命令を浴びせる。
だが、胸の痛みは言うことを聞かない。
喉はひゅうひゅうと情けない音を立て、視界はじわじわと狭まっていく。
胸の真ん中を、冷えた手で内側からぎゅっと握られているみたいだった。
「はぁっ……はぁっ……っ……!」
エリーはベッドから身を乗り出し、水差しに手を伸ばした。
震える手でコップに水を注ぎ、喉に流し込む。冷たい水が食道を通る感覚だけが、辛うじて「今ここ」に自分をつなぎ止める。
何度か、むせるように水を飲み続けるうちに、少しずつ呼吸が整ってきた。
肩が上下する幅が、すこしずつ、すこしずつ小さくなる。
「……っ、ふぅ……」
ようやく、肺の奥まで空気が届いた気がした。
その場に崩れ落ちるように、エリーはベッドへ倒れ込む。
外では、誰かの笑い声が小さく響いていた。
枕に顔を埋める。布の匂いが、鼻に、喉に、直接触れる。
涙が滲んでいるのか、視界はやわらかくぼやけていく。
(終わったのよ……)
内側から押し寄せる叫び声を、言葉に変えて押し戻す。
(終わらせるのよ。ここで、ちゃんと。……ついて行っては、ダメ)
そう繰り返さなければ、心がぱきんと音を立てて折れてしまいそうだった。
本当は、怖くてたまらない。
この先、また失うかもしれないことが。
今度こそ、自分の中で何かが完全に壊れてしまうことが。
それでも、「大丈夫」と、「終わり」と、自分に言い聞かせ続けるしかない。
枕に押し付けた唇が震えた。
泣くことすら許されていないみたいで、エリーはただ、目を閉じる。
静かな部屋の中で、誰にも届かないところで。
限界まで擦り減った心だけが、かすれた声で、助けを求めるように悲鳴を上げていた。
——けれど、その声が届く相手は、部屋のどこにもいなかった。




