第67話 空になった棚
四十一階層——試練の部屋。
そこは、見慣れてしまったはずなのに、やはりどこか現実味のない空間だった。
床も、壁も、天井も、すべてが真っ白だ。
中央にぽつんと据えられた灰色の石台だけが、そこに「物質」が存在することをかろうじて主張している。
周囲があまりに均一な白なので、石台の大きささえふっと曖昧になる。
目を凝らせば凝らすほど、奥行きや距離感の方が溶けていってしまいそうだった。
——そして、またあの声が響く。
『よく来たね、しかし驚いたよ』
男の声のようにも、女の声のようにも。
子どものようにも、大人のようにも聞こえる声が、耳ではなく頭蓋の内側に直接落ちてくる。
その声からは、相変わらず感情が読み取れない。
本当に驚いているのか、それともどこかで嘲笑っているのか、そのどちらとも取れてしまう。
オットーはと言えば——。
「……」
片方の小指を、遠慮なく耳の中に突っ込んでいた。
ぐりぐり、と豪快に耳の奥をほじくり、何かを引っかける感触を得ると、満足そうに小指を引き抜く。
そして、その指先についた耳垢をふっと息で吹き飛ばした。
「俺らを殺す気だったか? 残念だったな」
実にいつも通りの、ふてぶてしい笑みである。
『殺さないよ。僕は君たちを愛している』
白い空間いっぱいに、からりとした声が響く。
「落とし穴に落としておいて言うことですか?」
エドガーは、肩をすくめながら冷ややかに返した。
声の調子は落ち着いているが、その言葉には苦味の混じった嫌味がよく乗っている。
『今回の試練は——』
「私にしてちょうだい」
ぴしゃりと、その言葉を切り落としたのはエリーだった。
青い髪が揺れる。
その横顔は、いつも以上にきっぱりとしていて、一切の迷いが感じられない。
『……まあ、いいか。エリー、では君だ』
短い沈黙のあと、声はあっさりと承諾する。
次の瞬間——。
エリーの足元から光が立ち上った。
淡い光が彼女の身体を包み込み、その輪郭がふんわりとぼやけていく。
青い髪も、白い肌も、すべてが光の粒に分解されるようにして、真っ白な空間へと溶けていった。
そこに残されたのは、ただ静まり返った白と、仲間たちのわずかな息づかいだけだった。
*
——視界が、色を取り戻す。
白一色だった世界がほどけ、その代わりに潮の匂いが鼻を突いた。
石畳の道。
軋む木造の桟橋。
遠くで揺れるマストと帆布。
行き交う人々のざわめきと、波の砕ける音。
港町の昼下がりが、まるで絵の具をぶちまけたみたいに、エリーの周囲へと広がっていく。
「……相変わらず趣味が悪いわね」
うんざりしたように吐き捨てる。
ここは、彼女にとって決して“懐かしい”だけでは済まない場所だった。
『今回の試練は——』
「さっさと記憶を奪ってちょうだい」
声を遮るように、エリーは淡々と告げた。
その横顔には、覚悟とも諦めともつかない硬さがある。
『相変わらずだね。じゃあ、遠慮なくいただくよ』
頭の奥が、きゅう、と小さく軋んだ。
——抜かれていく。
千年分の風景が、音が、感情が、ひとつずつほどけていく。
積み上げた本の山を、上から順番に崩されていくみたいに、心の中の「棚」が静かに空いていく。
胸のあたりが、ぽっかりと冷たい空洞になっていくようだった。
やがて、その流れがふっと途切れた。
『ごちそうさま。千年分の記憶は、さすがに味わいがあるね』
エリーは、ほんの少しだけ目を伏せる。
「今回も……あの記憶は奪ってくれないのね」
声は淡々としているのに、そこにはわずかな滲みがあった。
『当たり前だよ。順序が逆になってしまう。
君の望む奇跡は、“愛した者たちの記憶の消去”。
この階層で消してしまったら、意味がなくなるだろう?』
「……それもそうね」
短く息を吐く。
わかっていた答えだ。わかっていたのに、確認せずにはいられなかった。
『そうだ、君にプレゼントだ』
からん、とガラスの触れ合うような音がした。
エリーの目の前に、小さな瓶がふわりと浮かび上がる。
中には、琥珀色の液体がとろりと揺れていた。光を受けて、海面みたいにきらりと瞬く。
「これは?」
エリーは感情を抑えた声で問いかける。
『失った記憶を取り戻す薬だ……ただし、“君が耐えられるなら”ね』
エリーは、ふっと口元だけで笑った。
それは愉快さとは程遠い、侮蔑を含んだ笑みだった。
「あなた本当に趣味が悪いわね。……友達、なくすわよ?」
『知っているだろう? 友はみんな、“現象”に帰った』
その言葉に、エリーの視線が一瞬だけ遠くを彷徨う。
波止場。
夕焼け。
伸ばした手。
届かなかった背中。
記憶の“縁”だけが、ぼんやりと疼いた。
「……」
何かを言いかけて、やめる。
代わりに、彼女はすっと右手を伸ばした。
浮かんでいた瓶が、ぱしりとその掌に収まる。
「まあいいわ。貰っておく」
琥珀色の液体が、瓶の中で小さく揺れた。
それを見下ろすエリーの瞳は、底の方で、誰にも見せない決意の色を灯していた。
*
真っ白な試練の部屋に、ふいに光が満ちた。
中央の灰色の石台の上に、淡い光柱が立ちのぼる。
それはゆっくりと形を持ち——やがて、一人のエルフの姿へと収束していった。
「……大丈夫か?」
真っ先に声をかけたのはダリウスだった。
肩に力が入っている。声も、いつもよりわずかに硬い。
エリーはうっすらと目を開け、彼を一瞥する。
「ええ。私の場合は、特殊だから」
エリーは頭の奥で、さきほど抜き取られた空白の大きさだけを淡々と確認する。千年分——数字としては把握できても、そのあいだ両親と笑い、友人たちと歩いたはずだということを示す絵は、一枚も残っていない。
エドガーが一歩近づき、心配そうにその顔を覗き込んだ。
その言い方も口調も、いつも通り——のはずだった。
だが、どこか「温度」を測りかねるような淡さが混じっている。
「本当に……?」
眉根を寄せた視線を、エリーは正面から受け止める。
そして、ふっと片目を閉じ、いたずらっぽくウィンクしてみせた。
「心配無用よ」
唇の端を少しだけ上げる。
それは、彼女にしては珍しく“わかりやすい”微笑だった。
エドガーは一瞬、言葉を失う。
エリーはもう彼を見ていない。くるりと踵を返すと、透き通るような青い髪を揺らしながら、何事もなかったかのように出口へ向かって歩きだす。
細い背中。
白い部屋を切り裂く青の軌跡。
——その後ろ姿を、エドガーはじっと見送った。
(……何かが)
言葉にならない違和感が、胸のどこかにひっかかる。
仕草も、声も、笑い方も、いつものエリーだ。
それなのに——
(何かが、欠けている……?)
喉の奥まで出かかったその感覚を、彼は飲み込んだ。
代わりに、軽く息をつき、皆と同じように歩き出す。
彼の視線の先では、青髪のエルフが、あたかも何も失っていないかのような足取りで、塔の奥へと進んでいくのだった。




