第65話 未来の避け方
その頃、別の穴の底では——。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
ダリウスは肩で息をしながら、赤い巨体と対峙していた。
四肢は鋼鉄の柱、鱗は溶けた鉄を叩き固めたように重い。洞窟の奥で、ドラゴンの瞳だけが獣じみた光を宿している。
「一人でドラゴンの相手なんて……どこのお伽話だよ、まったく……」
軽口とは裏腹に、喉はひどく渇いていた。
直後、尾が横一文字にしなり——赤い閃光となって襲いかかる。
空気を裂く轟音。
ダリウスは半歩だけ、間合いをずらす。
風圧が頬を裂くように掠め、背後の岩肌が粉々に砕け散った。
(落ち着け。間合いをギリギリで保て。一センチ、一ミリも無駄にするな)
すぐさま、上から影が覆い被さる。
巨大な爪が振り下ろされるのを、彼はほんの数ミリ、かかとを引くだけでやり過ごした。
「ここだ!」
足元の魔力の流れを踏み抜くように、ダリウスは低く地を蹴る。
ドラゴンの腹部の死角へ、一気に潜り込むと——
「《ダブルスラッシュ》!」
斜め上と水平、二段軌道の斬撃が、赤い腹部を切り裂かんと走る。
——キィン。
乾いた金属音が響いた。
刃は鱗の表面で跳ね、頼りなく弾かれる。
「くっ……!」
反射的に身をひねり、迫る爪を地面を転がることでいなしながら、ダリウスは再び間合いの外へと飛び出した。
(ダメだ……攻撃は躱せる。だが——決定打が、足りない)
ドラゴンが、ぐわりと顎を開いた。
喉の奥が、炉の底みたいに真っ赤に燃え上がる。
そこへ集まる魔力が、空気ごと焼き切るような熱を生んでいた。
「おいおい、嘘だろ。間合いも何もないってのは……反則だろ」
思わずぼやきが漏れる。
しかし足は止まらない。むしろ、前に出る。
(ブレスを躱すには——これしかない)
「《深き森》」
呟いた瞬間、世界の輪郭が静かに沈んだ。
赤い炎が、線になって放たれる。
洞窟の空気を一瞬で蒸発させるような、赤い奔流——それがダリウスめがけて一直線に伸びてきた。
だが、彼の意識は既に深く潜り込んでいた。
(見える……あいつの動きが。俺の軸が……このまま、決め切る)
時間が伸びる。
炎のビームは、遅延再生している映像のようにゆっくりと迫ってくるだけだ。
ダリウスは、一歩。
ただ、一歩、滑るように踏み込んだ。
足元から伝わる感触、重心のライン、肩の回転——全てが、自分のものとは思えないほど澄み切っている。
赤い奔流を紙一重でかすめながら、そのまま巨体の懐へ潜り込んだ。
「——《月下無痕》」
閃光のような一閃が、ドラゴンの胸元を横一文字に走る。
それだけでは終わらない。
この技の真髄は、一振りで二撃を刻むという矛盾を、成立させてしまうところにあった。
横薙ぎの軌跡と、縦に振り抜かれた斬撃が、同時に存在する。
ありえないはずの二本の線が、胸郭の上で交差した。
厚い鱗が、外側からではなく内側から断ち割られたように裂ける。
肉が開き、骨が砕け、その隙間から——
脈動する紫の光が、ふたつ。
洞窟の暗闇の中で、心臓の鼓動のように、ぼう、ぼう、と明滅していた。
(……あれが、コアか)
ダリウスは、刃先についた血を払うことも忘れたまま、その光だけを見据えていた。
獰猛な獣のように、ダリウスは低く身を沈めた。
猫科の猛獣が飛びかかる直前——あの、全身のばねを一点に圧縮するような姿勢。
肩の力を抜き、腰だけを沈め、つま先に重心を溜めていく。
(……今度こそ、仕留める)
むき出しになった二つの紫のコアが、目の前で脈動していた。
あそこに届きさえすれば——。
その瞬間だった。
ドラゴンの輪郭が、わずかに“滲んだ”。
赤い鱗の縁がぼけ、鋭かった爪の線が、ほんの少しだけ柔らかく崩れる。
地面の石の継ぎ目も、洞窟の壁のひび割れも、輪郭がゆるゆると溶け始めた。
世界そのものが、ぬるい水の中に沈められていくようだった。
(……くそぉ、またか!!)
奥歯を噛みしめる。
視界の端で、ドラゴンの巨体さえも、絵の具を薄めたように形を失っていく。
(あと……十秒。せめて十秒、持ってくれ!)
「《グランドスラッシュ》!」
気合いとともに地面を蹴る。
視界の端で、紫のコアが二つ、灯台のように瞬いている。そこへ向かって、全身を無理やりぶつけるように踏み込んだ。
刃が振り上げられ、落ちる——その、ほんの刹那前。
膝が、抜けた。
「——っ!?」
全身の力を込めたはずの脚が、何の予兆もなく沈み込む。
斬撃の軌道はわずかにずれ、光の線はコアの手前で虚空を裂いただけに終わった。
ダリウスの身体は、そのまま前のめりに崩れ落ちる。
剣を杖のように突き立てることすらできず、腕が支えを失い——
岩肌の上を這うような格好で、地面にへばりついた。
「……っ、はぁ……はぁっ……!」
肺が焼けるように痛む。
肩が上下するたびに視界がぶれ、世界がぐにゃりと歪んで見えた。
ドラゴンは、何が起きたのか理解できていないように、しばしその様子を眺めていた。
目の前の小さな獲物は、こちらを睨み返すどころか、地面に這いつくばり、苦しそうに身じろぎするばかりだ。
やがて、その巨大な口元がニィ、と歪む。
面白がるような笑みだった。
ドラゴンは、ゆっくりと前脚を持ち上げる。
鋭い爪を突き立てるでもなく、本当に「つつく」程度の動きで、ダリウスの背中をなぞるように——軽く、ちょこんと触れようとした。
(こいつ……遊びやがって)
悔しさが、焼けた鉄みたいに胃の奥でじゅう、と泡立つ。
それでも、身体は言うことを聞かなかった。
「……っ」
立ち上がろうとした。
だが、膝に力を込めた瞬間、ふらりと崩れ落ちる。
その偶然の“膝抜け”が、結果としてドラゴンの爪をかろうじて回避していた。
爪はダリウスの頭上すれすれを掠め、岩を軽くえぐる。
(……もう一度だ)
荒い息の合間に、言葉を押し込むように、心の中で繰り返す。
(もう一度《深き森》に入る……!)
汗が滝のように流れ、額から顎へ、顎から地面へとぽたり、ぽたりと落ちていく。
肺は火を飲み込んだように熱い。頭の中は、酸素が欠乏した霞で満たされていた。
「《深き森》」
ドラゴンの次の爪が、ゆっくりと振り下ろされる——ように見え始めた。
景色が、また遅くなる。音が遠のき、時間だけがぐい、と引き延ばされていく。
(右に……転がる)
思考が、先に動く。
身体はまだ重いのに、頭だけが妙に冴え、最適解だけがくっきりと浮かび上がる。
そう、はずだった。
その瞬間——
地面が、溶けた。
さっきまで『線』だった爪の軌道が、ぼやける。
洞窟の壁が、ろうそくの蝋みたいにだらりと垂れ、床と混ざり合う。
世界の上下左右の区別が消え、すべてがぐるぐると回り出した。
空と地面が反転する。
ドラゴンの影が伸び、縮み、輪郭を失って、ただの黒い渦に変わっていく。
(……っ、また……かよ……)
ダリウスの視界は、溶けた世界の中で、ぐしゃぐしゃにかき混ぜられていった。
*
(……ははっ)
おかしくもないのに、喉の奥で乾いた笑いが転がった。
(ここまでか。……ミラ、ごめんな)
視界の端で、世界が溶けていく。
地面も、ドラゴンも、上下の感覚すらも曖昧になって——代わりに、別の「映像」が脳裏にせり上がってきた。
一枚、また一枚と、古い絵葉書をめくるみたいに。
(あぁ……これ、最初にうちに来た日か)
まだあどけない少女の姿。
ボロ布みたいな服を着て、玄関の敷居で固まっていたミラ。
目だけがやたらと大きくて、周囲をうかがう子犬みたいに落ち着きなく揺れている。
(この時は、ほとんど何も喋らなかったな……)
次の一枚が上書きされる。
(で、こっちは……神学校の入学式か)
ぶかぶかの制服。
「かわいい」と言われるたびに、耳まで真っ赤にして俯いていた姿。
袖をそわそわと引っ張って、「似合ってる?」とやっとのことで絞り出した声。
(自分で鏡見て、にやけてたの、バレてないと思ってたんだろうな)
さらに、夏の光景が流れ込んでくる。
(夏に、二人で海に行った時の……)
潮風。
日焼け止めの匂い。
波打ち際を走り回るミラの笑い声。
転びかけて、慌てて手を伸ばした自分の、その手を掴んで、満面の笑顔で「だいじょーぶ!」と笑った顔。
(潮風、気持ちよかったよな……そういえば、あいつ、貝殻を拾って——)
思考が、ふいに途切れた。
(……あれ? 俺は今、何を考えて……)
そこで、景色が変わる。
目の前に「それ」が現れていた。
自分自身と、ドラゴン。
巨大な爪が振り下ろされる、その刹那の構図——が、そのまま切り取られて、空間に静止している。
時間が、止まっていた。
(……なんだ、これ……溶けた世界の奥はこれがあったのか?)
ダリウスは、ただの観客のように、その“残像”を眺めた。
爪は今にも頭蓋をかち割ろうとしていて、自分は猫背気味に身をかがめ、中途半端に右へ逃げようとしている。
(ははっ……俺、こんな猫背だったか?)
自嘲まじりに思う。
背中は丸まり、肺は潰れ、これではまともに酸素が吸えない。
(これじゃ、空気をうまく吸えないだろ……)
そう考えた瞬間、「残像の自分」の姿勢に、手を伸ばしていた。
触れた途端、当たり前みたいに“動かせた”。
(……?)
驚きつつも、猫背の背をぐい、と起こす。
腰をほんの少しだけ落とし、胸郭を開き、肩の力を抜いて軸を立てる。
(ちょっと軸がブレてるな……足は、この位置だ)
足の幅を調整し、つま先の向きをわずかに変える。
重心を前に乗せすぎないよう、爪先と踵の真ん中に落とす。
すると、停止していたはずの“映像”が、わずかに変化する。
姿勢を変えた「自分」に合わせて、ドラゴンの爪の軌道もほんの少しだけずれた。
(……これで、右に避ければ)
そう思った瞬間、「時間」が動き出す。
爪が下りる。
修正した姿勢のまま、右へ転がる“未来の自分”の残像が走り——その先で、尾がなぎ払う光景までが、一気に再生された。
視界の隅を、赤い尾がぶん、と薙ぎ払っていく。
さっきと同じように、世界はゆっくりなのに、「次に何が起こるか」だけがはっきりと見えた。
(……なるほど。右に避けると、次は尾が邪魔、ってわけか)
心の中で呟くと同時に、意識だけが“巻き戻る”。
ドラゴンの爪が振り下ろされる直前へ。
さっき修正した姿勢の残像と、止まった爪とが、再び静止画のように目の前に戻ってくる。
(じゃあ、こうだな)
今度は「自分」の身体を、下へ。
うつ伏せになるように、地面にへばりつくイメージで避ける動きを組み込む。
再び、時間を送る。
爪が振り下ろされる。
残像のダリウスは、地面に張りつくように身を伏せ、爪が頭上を掠める。
続けざまに振るわれる尾は、そのさらに上、空っぽの空間を虚しく薙いだ。
(……うん。これでいい)
妙な確信が、胸の奥にすとん、と落ちた。
自分の身体の動き。
ドラゴンの攻撃の流れ。
そのどちらもが、手のひらの上の盤面みたいに、はっきりと見通せていた。
*
——現実が、どさりと戻ってきた。
砂埃の匂いが肺に刺さる。
焼け付くようだった呼吸は、さっきまでよりほんの少しだけ楽になっていた。
頭だけが異様に冴えている。音も光も、ドラゴンの爪の軌道すら、線ではなく面で見えるような感覚だった。
巨大な爪が振り下ろされる、その瞬間——。
ダリウスは、迷いなく地面に身を叩きつけるように飛び伏せた。
爪が頭上を掠め、風圧が髪を撫でる。続けざまに振るわれた尾が、さっきまで彼の頭があった空間を、ぶん、と鋭い音を立てて薙いでいった。
(……右に避けてたら、今ので終わってたな)
砂を噛むような喉で、心の中だけで苦笑する。
(ん? なんで“あらかじめ知ってた”みたいに動けたんだ、俺は)
ドラゴンが、わずかに目を細めた。
獲物が潰れているはずの場所にいないことへの、理解できないという色が、その瞳の奥にちらつく。
だが、すぐに顎を持ち上げると、喉の奥に紅蓮の光を灯した。
大きく口を開け、胸郭が大きく膨らむ。次の一撃は——ブレス。
(……なんだか、息もいつもより吸える気がする)
ダリウスは一度、肺の奥まで空気を流し込んだ。
さっきまで焼けるようだった胸が、不思議と滑らかに動く。
全身の軸が一本にまとまり、足裏から頭のてっぺんまで、すっと一本の線が通ったような感覚。
(身体も軽い……行ける)
ドラゴンの口内で炎が収束していく、その瞬間——ダリウスの身体が、前へと跳んだ。
炎の正面、死地のど真ん中へ。
ドラゴンの口角が、わずかに吊り上がる。
喉奥に溜めた炎は虚。
真に狙っていたのは、飛び込んでくる瞬間を叩き潰す、両腕の爪だった。
両の前脚が、しなる。
刃のような爪が、十字に交差する軌道で、ダリウスを挟み込もうと迫る。
(爪が——来た)
その瞬間、ダリウスの脳裏に、さっき見た“残像”の盤面が重なった。
(……いや、“来る”。今から。このあとどの角度で振られて、どこに死角が生まれるか——なんで俺は、それを分かってる?これが《深き森》の“次”ってわけか?)
問いは最後まで言葉にならなかった。
身体が、先に動いたからだ。
ダリウスは足裏で床を蹴り、爪と爪の軌道の、ほんの紙一重の隙間へ滑り込む。
背中すれすれを刃が掠める感覚。その勢いを殺さず、懐へ潜り込んだまま、跳躍に切り替える。
「——《月下無痕・二段》!」
青白い残光が、四つ、同時に走った。
一閃目と二閃目が、横へ。
三閃目と四閃目が、縦へ。
一本の剣で、同じ瞬間に相反する軌道を描く——矛盾をねじ伏せる、技の極致。
二つ並んだ紫のコアを、十字に切り裂く。
鈍い音とともに、コアが弾け飛んだ。
ドラゴンの胸腔から光が漏れ、喉奥に集めかけていた炎が霧散していく。
巨体が、一歩、二歩とよろめいた。
天井近くまであった頭部が、ゆっくりと崩れ落ち——石畳を揺らす重い衝撃音が、遅れて耳に届いた。
「……ふぅ。ちょっと、疲れたな」
ダリウスは剣先をわずかに下げ、肩で息をしながらも、口元だけは薄く笑わせた。
先ほどまでとうてい届かなかった“決定打”が、今は手応えとして確かに掌に残っている。
高所の足場で、弓を引き絞っていたエリーが、ゆっくりと姿勢をほどいた。
弦から指を離し、矢を下ろし、細く息を吐く。
「……ふぅ」
小さく漏れたその吐息には、安堵と——ほんのわずかな驚嘆が、混じっていた。




