第64話 怒りの源泉
オーガの大斧が、容赦なく振り下ろされる。
ぶつかり合うのは鉄と鉄。
シールドの表面で火花が散り、そのたびに甲高い金属音が洞窟の奥まで突き刺さった。
ガァン! ガァンッ!
衝撃が腕から肩、背中へと抜けるたびに、オットーの足はじり、じり、と後ろへ削られていく。
(……ちくしょう)
荒い息が漏れる。
額からは汗が垂れ、顎のあたりで一度ためらってからぽたりと地面に落ちた。
(こいつ、十階層の奴とは違って速ぇ)
十階層で戦ったオーガの姿が一瞬だけ脳裏をよぎる。あの鈍重さは、ここにはない。
眼前の巨体が斧を振り下ろし、振り上げ——その軌道が、ほんの一拍だけ乱れた。
一瞬。
ひと呼吸に満たない、わずかな隙。
(——今だ!)
「《阿修羅・二連》!!」
オットーの大斧が、爆発でも起きたかのような加速を見せた。
一撃目——
オーガの大斧の腹を横から叩きつけ、軌道をねじ曲げる。
ガキィン!
凄まじい衝撃に、オーガの巨体がのけぞった。
すかさず、二撃目。
斬撃の軌道がわずかに捻じ曲がり、今度は斧ではなく、その“持ち手”——右腕へと吸い込まれていく。
(まずは、斧を持てなくしてやる……)
肉を裂き、骨を砕く、生々しい感触が柄を握る手に伝わる。
ぶちり、と嫌な音を立てて——
オーガの右腕が、肩口から吹き飛んだ。
「ぐぅおおおおおお!!」
血飛沫が噴き上がる。
大量の血が地面を叩き、鉄臭い匂いがむっと立ち込めた。
咆哮が大穴に響き渡る。空気そのものがびりびりと震えた。
オットーは汗まみれの顔で、にやりと口角を吊り上げる。
「へへっ……ざまぁみろ」
——次の瞬間だった。
吹き飛んだはずの右肩が、ぼこり、と不自然に盛り上がる。
肉の断面から、泡立つように筋肉がせり出し、骨が伸び、皮膚が追いつく。
ぼこ、ぼこぼこぼこ——。
まるで時間を巻き戻すかのような勢いで、ちぎれた腕が瞬く間に再生していった。
「……はぁ!?」
オットーは素で声を裏返らせた。
オーガはニヤリと口角を吊り上げると、血に濡れた新しい腕で、何事もなかったかのように大斧を拾い上げる。
その光景に、オットーは乾いた笑いを漏らすしかなかった。
「はっ、はは……ちょっとは、手加減しろよ?」
返ってきたのは答えではなく、殺意だけだった。
——ヒュッ。
大斧が、さっきまでのそれとは別物の速さで振るわれる。
重さを感じさせない切っ先が、ナイフのような鋭さでオットーの首筋をなぞりにくる。
「っ……!」
オットーはシールドを前に突き出した。
「《シールドバッシュ》!」
盾面と刃がぶつかり合い、火花が散る。
だが、今度は押し返せない。
斧の圧力に押されるようにして、オットーの足が、じり、じり、と後退を強いられていく。
(くそっ……振り出しに戻っただけかよ)
重い一撃が、ひとつ。
ふたつ。
みっつ。
そこから先は、一方的な時間だった。
オーガの斧が、サンドバッグを叩き続けるかのように、容赦なく盾を打ち据える。
衝撃が腕を痺れさせ、肩を軋ませ、背中を壁へと押し込んでいく。
ついには背後に岩壁の硬さが触れた。
逃げ道は、もうない。
「……っぐぅ」
オットーは壁に片足をかけるように踏ん張り、全身で盾を支えた。
押し潰されそうな圧力に、歯を食いしばる。
オットーは、じりじりと押し込まれながら、乾いた笑いを漏らした。
(へっ……笑えるな。十階層じゃあ、俺がシールドでオーガ潰してやったってのによ……今度は逆に、俺が潰されそうじゃねぇか)
目の前で、オーガの大斧が再び振りかぶられる。
受け止めた盾の表面に、ぱち、ぱち、と細かなひびのような光が走った。
——シールドの耐久が、限界に近い証だった。
(シールドも、やべぇ……)
さらに一撃。
岩壁ごと叩きつけられたような衝撃に、オットーの視界が一瞬白く染まる。
(……阿修羅もだ。練習での最高連撃は三回。そこまでやると、必ず意識を飛ばしてぶっ倒れる)
額から汗が流れ落ちる。呼吸は荒く、肺が焼けるようだった。
上空。
吹き抜けになった天井近くで見下ろしているエリーは、ぎゅっと弓を握りしめていた。
今にも援護の矢を放ちそうな指に、白い力がこもる。
「……ぐぅう」
歯の隙間から漏れた唸り声は、怒りとも悔しさともつかない音だった。
(ムカつくぜ……)
斧が叩きつけられるたび、だらしなく突き出た腹が揺れる。
酒が抜けた今は、手が小刻みに震える。
足首には、少しでも無理をすれば悲鳴を上げる痛風の予感。
(たかがオーガに……いや、違ぇな)
ぐっと奥歯を噛みしめる。
(ムカつくのは、こいつじゃねぇ。俺自身だ……!
だらしない腹。酒がねぇと震える手。痛風持ちの足。
俺は今まで、何してきた……? 何をサボって、何から逃げてきた……?)
胸の奥で、じりじりと燃えていたものが、一気に火柱のように噴き上がった。
「——やるなら今だろうが!!」
吠えるように叫び、オットーは盾を押し返す。
大斧の軌道が、ほんのわずかに上へ逸れた。
「《阿修羅・六連》ッ!!」
次の瞬間。
一撃目。
オーガの振り下ろした斧を、横薙ぎの一閃が叩き払う。火花と衝撃音が洞窟に弾けた。
二撃目。
すでに振り抜き終わった斧の死角を潜り抜け、逆袈裟に右腕を打ち裂く。
ぶちっ——と嫌な音がして、筋肉と骨ごと、大斧を握っていた腕が吹き飛んだ。
オーガの咆哮が、洞窟を揺るがす。
「ぐぅおおおおお!!」
三撃目。
まだ叫び終わらぬうちに、反対側へ回り込み、左腕の腱ごと斧を握る力を断ち切るように叩き込む。
ぶらり、と垂れ下がる左腕。
その巨体が、初めて不安定によろめいた。
四撃目。
オットーは地面を蹴り、巨躯の懐へ飛び込むと、首筋めがけて渾身の一撃を叩き込んだ。
「もらったぁぁーー!!」
ギィイン——!
金属同士がぶつかったような、耳障りな音が鳴る。
オーガの首に、紙一枚ほどの深さの裂傷が走っただけだった。
(……ムカつくぜぇ。首も、かてぇのかよ)
五撃目。
怒りを乗せた斧が、同じ場所をなぞるように振り抜かれる。
今度は肉が裂け、赤黒い血が、滝のように噴き出した。
六撃目。
さらにそこへ追い打ちをかけるように、同じ一点へ斧を叩き込む。
骨がきしむ鈍い感触が、柄を通して腕に伝わった。
オーガの表情に、一瞬、はっきりとした「恐れ」が浮かぶ。
だがそれもすぐに、余裕を含んだ笑みに上書きされる。
首は、あと一歩のところで繋がったままだった。
巨体は、まだ倒れない。
再生の気配すら、じわりと傷口の奥から滲み始めていた。
オットーは、肩で息をしながら、目前の巨体を睨み据えた。
(ちくしょう……まだ、足りねぇか……)
ずるり、と。
オーガの裂けた首筋が、ありえない速度でうねり、肉と骨を盛り上げていく。
さっきまで深く刻んだ傷が、みるみるうちに塞がり始めた。
その光景を見て——ふとオットーは気づく。
(……ん?)
息は荒い。膝も笑っている。
だが、脳が真っ白になって倒れていた、あの「限界」の感覚はどこにもない。
(……俺、意識があるぞ?)
次の瞬間、オットーの口元に、ゆっくりと大きな笑みが広がっていく。
「がははははは、わかっちまったぜぇ」
乾いた笑いではない。
底の底から煮え立った何かが、そのまま声になったような、豪快な笑いだった。
(この力の——いや、この“呪い”の源泉は、怒りだ)
オットーは、自分の胸の奥で燃えているものに、はっきりと名前を与える。
(スキルを分割する、繊細で研ぎ澄ました状態に……俺の怒りを、ぶつけてやればいい)
再生しきろうとしているオーガは、目を白黒させていた。
さっきまで押し潰されかけていた相手が、今や笑いながら斧を構えているのだから、無理もない。
「……俺がなぁ……」
喉の奥からしぼり出すような声だった。
「人生で一番ムカついたのはなぁ……」
額を流れ落ちる汗と一緒に、古い記憶がにじみ上がる。
祭壇。闇。こっちを向いて笑った二人の仲間。
何もできないまま、ただ見ているしかなかった、自分自身。
「阿修羅のために、生贄になった二人をなぁ……」
声が震えた。
怒鳴っているはずなのに、その奥に、ひどく幼い嗚咽が混じる。
「指くわえて見送って、尻尾巻いて逃げ出した——」
あのとき背を向けた瞬間の、情けなさ。足の震え。
逃げるたびに、少しずつ腐っていった自分。
「俺自身への怒りなんだよぉおお!!!」
最後の一声は、悲鳴に近かった。
洞窟じゅうの空気を震わせる咆哮——けれどその芯には、失ったものの重さと、自分への憎しみが、ぎゅうぎゅうに詰め込まれていた。
「《阿修羅・二十連》!!」
叫んだ瞬間、オットーの両眼が、ぎらり、と赤く光を帯びる。
同時に——その巨体が、視界からふっと掻き消えた。
次の瞬間——オーガの首元に、「それ」が叩き込まれた。
ぼすっ——という鈍い音と同時に、空気が爆ぜる。
一撃目で、分厚い首の筋肉がぐにゃりと歪み、衝撃波が洞窟の壁を震わせた。
二撃、三撃、四撃——。
ひと振りごとに、目には見えない暴風が巻き起こり、オーガの巨体がぐらりと揺れる。
飛び散った血飛沫が、遅れて線を描いて空中に残った。
やがて、連撃の軌跡は一点に収束した。
オーガの太い首の、同じ場所に、狂気じみた精度で叩き込まれ続ける斧撃。
——ごぎゃり。
嫌な音とともに、限界を超えた肉と骨が、一気に砕けた。
最後の一撃がめり込み、蓄積された暴力が一気に解放される。
オーガの首が、爆ぜるように吹き飛んだ。
巨体が、どさり、と膝を折り、そのまま前のめりに倒れ込む。
床一面に血の池が広がり、鉄臭い匂いがむっと立ちこめた。
——その中に、ひとりだけ。
光を失いかけた盾を左手に、血飛沫まみれの斧を右手に。
肩で息をしながらも、なお悠然と立ち続けている男がいた。
オットーだった。
(……呪いを完全に制御したわね)
エリーは、安堵とも不安ともつかない息をひとつ吐いた。




