第62話 千年ぶりの食卓
四人と一人は、いつもと同じようにテーブルを囲み――ただ、今は誰も、すぐには口を開かなかった。
ミラが、両手で包んだマグを見つめたまま、おずおずと顔を上げる。
「ねぇ、ダリウス……」
金のまつげが、心配そうに揺れた。
「次のボス……前線から下がった方がいいんじゃないかな?」
マグを持つダリウスの指が、ぴくりと止まる。
向かい側で、オットーが無精ひげを指で撫で、視線を自分のマグに落とした。
「……そうだな」
低く、しぼり出すような声だった。
「前線は、俺がなんとかするぞ」
(あぁ……間に合わなかった)
胸の内側で、ダリウスがつぶやく。
ミラの視線も、オットーの言葉も、全部「優しさ」だとわかっている。
それでもなお、自分の足元に影が落ちていく音が、はっきりと聞こえる気がした。
だからこそ、彼は笑った。
「ありがとう。わか――」
「ダメよ」
鋭く、乾いた音のように、その声が差し込んだ。
エリーだった。
マグを口元まで持ち上げかけていた全員の動きが止まり、視線が一斉に青髪のエルフに向く。
エリーは、炎を映した瞳でダリウスだけをまっすぐ射抜き、冷ややかに言い放った。
「前に出なさい」
焚き火のぱち、と爆ぜる音が、やけに大きく聞こえる。
「あなたには……いいえ、“あなたたち”には、守りに入る時間なんて残っていないの」
(これは賭けよ)
(この階層のボスで《深き森》を自分のものにできるかどうか――じゃなきゃ、先の階層で全員、静かに死ぬ)
胸の内側でだけ、エリーは自分の判断に賭け金を積む。
「おい」
低く、圧のこもった声が、その思考を断ち切った。オットーだ。
いつもの冗談交じりの調子は消え、酒場で喧嘩を止める老兵のような、重い声音になっている。
「なんだかは知らねぇが……ダリウスにはそれが必要か?」
真正面から向けられた問いに、エリーもまた、真剣な眼差しで応じた。
「必要よ」
短く。迷いなく。
オットーは、しばらく何も言わず、エリーの瞳を覗き込んだ。
焚き火の光が、彼の皺の刻まれた顔に、揺れる影を作る。
「それは、“今この時”に必要なんだな?」
言葉を一つだけ、強く踏み込む。
エリーは、まばたきもせず、その視線を受け止めた。
「ええ」
揺れない返事。
オットーは、長く息を吐いた。
「……わかった」
いつもの癖で、がしがしと頭を掻く。
「お前がそう言うんなら、信じるよ」
「おいおい、ちょっと待て――」
ダリウスが慌てて口を挟む。
みんなを落ち着かせなくては、と頭のどこかが叫んでいた。
「お前ら、そんな大事な話を俺抜きで進めるな――」
「ダリウス」
エドガーが、穏やかな声で遮った。その瞳がまっすぐこちらを見る。
「決めるのは、リーダーのあなたです」
静かな言葉だったが、その重みは焚き火よりも熱かった。
「もしあなたが前に出ると決めるなら――私は、全力でバックアップしますよ」
ミラも、オットーも、エリーも、黙ってダリウスを見ていた。
誰の顔にも、冗談も、軽い笑いもなかった。
(……ああ、そうか)
ダリウスは一度、ゆっくりと目を閉じた。
心臓の鼓動が落ち着くのを待つように、ひと呼吸。
深く息を吸い込み、吐き出し――それから目を開ける。
その顔に、迷いはなかった。
「……ありがとう、エドガー」
焚き火の明かりの中で、彼は笑った。
さっきまでとは違う、少しだけ吹っ切れた笑みだ。
「明日、俺が前でバテたら――回収、頼む」
「ええ、もちろん」
エドガーも笑みを返す。
次に、ダリウスはオットーへと顔を向けた。
「オットー。俺がいないあいだ、前線はかなり厳しくなる。けど――任せていいか?」
「だからよ」
オットーは、爪楊枝で歯の間をしゅっしゅと掻きながら肩をすくめた。
「お前が言うなら、そうするさ」
それから、ミラの方へ。
「ミラ――」
彼女の金の髪が、焚き火の光を受けて、小さく揺れる。
「明日は、お前が何もしなくても勝つ。……心配させずに、勝ってみせるよ」
ミラは、唇をきゅっと結び、目を伏せ――やがて、決意をこめて顔を上げた。
「……うん」
小さな、けれどはっきりした声で。
「決めたんだよね? だったら、私も全力でみんなを助けるから。後ろからでも、絶対に」
その様子を、エリーは黙って見ていたが――口元に、ゆっくりと、薄い笑みを浮かべた。
沈黙をひとつ区切るように、ダリウスがぱん、と手を叩いた。
「よし。じゃあ気を取り直して――明日もいつも通り、想定モンスターから始めようか」
号令のような一言に、三人が「おっ」と顔を上げる。
「シーサーペント、クラーケンあたりが妥当ですかね?」
エドガーが真顔で軍師のような顔をしながら言う。
もう完全に「作戦会議モード」だ。
「水辺の魔物にこだわらず想定しようぜ」
オットーは顎をかきながら、いつものように“経験者の顔”をする。
「うーん、なんだろう……」
ミラは腕を組み、真剣な顔で悩みだした。
――そこまでは、いつも通りの老齢の塔キャンプ夜会議。
ただ一人を除いて。
エリーは、きょろきょろと四人の顔と焚き火を交互に見回し、眉をひそめる。
「……????」
耐え切れず、口を挟んだ。
「ちょっと。あなたたち、いったい何してるの?」
「え?」
ダリウス、エドガー、ミラ、オットーが、揃って間抜けな声を出す。
エリーはこめかみに指を当て、ゆっくりと言葉を選んだ。
「……もしかして、ボス部屋の魔物を“予測”してるの?」
四人「え?」第二弾。
「だったら、それ意味ないわよ」
「え?」
今度はハモり具合が完璧だった。
エリーはため息をひとつ落とし、淡々と告げる。
「意識が読めるこの塔に、そんなの通じるわけないでしょう」
「………………え?」
今度は沈黙ごと固まる四人。
焚き火のぱちぱちという音だけが、しばし彼らの頭上を通り過ぎていく。
エリーは表情を引き締めて、真顔に戻った。
「この塔はね。試練もボス部屋も、“願う祝福”の大きさによって姿を変えるの」
夜の空気が、少しだけ重くなる。
「あなたたちの場合、望んでいるのは病気の治癒なんて生ぬるいものじゃない。もう“死の回避”よ。代償は、当然かなり大きくなる」
エリーの青い瞳が、焚き火の光を反射して揺れた。
「ボス部屋でエルダードラゴンが出てきたのが、その証拠よ」
ごくり、と誰かの喉が鳴る音がした。
おそるおそる、ミラが手を胸の前でぎゅっと握りしめながら口を開く。
「それって……」
視線が、揺れながら仲間たちをなぞる。
「それって、もしかして……私のせいで、みんな毎回、死にかけてるってこと……?」
焚き火の火が、ミラの横顔に影を落とす。
エリーはそこで、ちらりと三人――オットー、エドガー、ダリウス――を見渡し、肩をすくめた。
「気にしちゃダメよ」
その前置きに、ミラの顔がぱっと上がる。
「こいつらが中年で、弱いのが悪いんだから」
「返す言葉もねぇな」
オットーは、頭の後ろで手を組んだまま、天井の見えない暗がりを仰いだ。
「全くですね」
エドガーも、諦めのようなため息を一つ吐く。
ダリウスは小さく笑い、ミラの頭に手を置いた。
「ミラ。そういうことだから、気にするな」
ミラは、一度「でも」と言いかけて、唇を噛みしめ――やがて、小さくうなずいた。
「……うん」
その様子に、エリーはふぅ、と目に見えない息をこぼした。
「そういうことだから、今日はもう早く寝なさい」
声の調子は相変わらず淡々としているが、どこかいつもより柔らかい。
「連携のパターンは、ここまでの階層で散々試した通りにやればいいわ。余計なことを考えずにね」
そう言って踵を返し、テントへと歩き出す。
布の入り口に手をかけたところで、ふと足を止めた。
振り返る。
焚き火の光が、エリーの横顔だけを照らした。
「――おやすみなさい」
今度の声は、驚くほど優しかった。
ミラが目を丸くし、オットーが瞬きを忘れ、エドガーがわずかに息を飲む。
そしてエリーは、全員の目を、順に一度だけ見据える。
「もしもの時は、私が必ず守るから」
それだけ告げて、テントの影に消えていった。
テントの中は、嘘みたいに静かだった。
灯りは落としてある。わずかなランタンの残り火が、布越しにぼんやりと薄明かりを落としているだけだ。
寝袋に仰向けで潜り込みながら、エリーは天井――見えもしない帆布をただじっと見つめていた。
(……誰かが作ってくれたご飯なんて)
ふと、そんな思考が浮かぶ。
(千年ぶり、くらいかもしれないわね)
さっき口にしたドリアの熱さと、チーズの香りが、まだ舌の奥に残っている気がした。
湯気の向こうで笑い合う顔。くだらない冗談。
ミラのはしゃぎ声と、オットーの馬鹿笑いと、エドガーのどうでもいい薀蓄。
(…………美味しかったな)
素直にそう思ってしまった自分に気づき、眉間にしわが寄る。
(美味しかったし、楽しかった)
胸の奥が、きゅう、と軋んだ。
エリーは寝袋の中でごろりと寝返りを打つ。
布がかさ、と擦れる音が、やけに大きく聞こえた。
(完全に、一線を超えた)
距離を取っていればよかった。
干し肉をかじって、冷たい水を飲んで、それで終わりにできればよかった。
(もう、引き返せない)
目を閉じると、ダリウスの「任せろ」という顔が浮かぶ。
オットーの不器用な信頼の目が浮かぶ。
ミラの「家族でしょ?」とでも言いたげな笑顔が浮かぶ。
そして――
(また、一人になる)
一瞬だけ、昔の焚き火が重なりかける。炎の向こう側で、膝に開いた魔導書を指でなぞりながら笑っていた誰かの横顔——そこまで像が結びそうになって、エリーは慌てて闇の底へ沈めた。
ぽつりと、心の中で言葉が落ちた。
静寂が過去と現在をごちゃ混ぜにして、遠い記憶を掘り起こそうとする。
エリーは寝袋の口をぎゅっと締め、目を固く閉じた。
(……だから嫌なのよ、こういうの)
胸の奥の痛みをごまかすように、浅い眠りへと自分を投げ込むしかなかった。




