表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【完結済】息切れ・痛風・老眼おっさんパーティ、“老齢の塔”に挑む 旧:塔の頂きへ  作者: けんぽう。


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

61/93

第61話 線を越えるドリア


 三十八階層。


 三体のサハギンに囲まれ、泡立つ浅瀬の真ん中で、ダリウスは片膝をついた。

 足元の砂がぐしゃりと沈み、手をついた掌に、冷たい海水がぬるりとまとわりつく。


「はぁ……はぁっ、はぁ……」


 肺が焼けるように痛い。

 視界の端で、サハギンの槍先がじりじりと揺れている。


(くそっ……もう時間切れか!)


 深く沈めたはずの意識が、水面へと強制的に浮かび上がってくる。

 《深き森》は、そこから先へ踏み込む前に、ぷつんと糸を切られた。


「っ《伸縮紐》!」


 エドガーの声が、すぐさま飛んだ。

 透明な魔力の紐がダリウスの腰に絡みつき、弾かれたゴムのような勢いで、彼の身体をサハギンの輪の外へと引きはがす。


 遅れて、ダリウスが立っていた場所に、槍の穂先が三本、ぐさりと突き立った。



 三十九階層。


 通路一面に、水弾の嵐が叩きつけられていた。

 石壁も床も、直撃を受けた箇所はくぼみ、砕け、無惨な穴だらけになっている。


 ダリウスは、間一髪でその雨を抜けきった直後、ふらりと足をもつれさせた。


(くそっ……! 景色が……溶ける!)


 壁も床も、敵の姿も。

 輪郭という輪郭がどろりと崩れ、遠いのか近いのかすら分からない。


 踏み込んだつもりの足が、空を切った。

 身体が横に流れ、そのまま――


「うおっ!?」


 オットーのシールドバッシュの軌道に、ダリウスが雪崩れ込む形になった。

 弾かれたように転がり、その場に手をついた瞬間、こらえきれずに胃の中のものをぶちまける。


 鉄と潮と胃液の匂いが、湿った通路に広がった。


「大丈夫か!」


 水弾を盾で受け止めながら、オットーが怒鳴る。

 ダリウスは返事をしようとして――喉の奥で、言葉がまた吐き気に変わった。


 ──三十八、三十九階層と、ダリウスの《深き森》は階層を重ねるたびに短くなっていった



 四十階層・ボス部屋前。


 巨大な扉が、塔の心臓部を塞ぐようにそびえ立っていた。

 黒鉄で組まれた扉には、古い傷や打ち痕が幾重にも刻まれ、天井は松明の光の届かない闇に溶けている。


 その手前の広間に、ダリウスたちは野営地を設けていた。


 焚き火の上では、大きな鍋と耐熱皿が並び、ダリウスが黙々と木べらを動かしている。

 濃厚なチーズとホワイトソースの香りが、湯気とともに立ちのぼり、空気をこってりと満たしていた。


 少し離れたところで、オットーとミラが薪を崩してはくべ、火の具合を見ている。

 エドガーは椅子に腰かけ、魔導書を膝の上に広げ、布で一枚一枚、丁寧に拭き上げていた。


 その輪から、ほんの少し外れた壁際。

 エリーは腕を組んだまま、その光景をじっと眺めていた。


(……私も、そろそろご飯の時間かしら)


 腰のポーチから、いつもの干し肉の袋を取り出す。

 口を開けて、中身をそっと覗き――そのまま、逆さに振った。


 ぽろり。


 小指の先ほどの欠片が一つ、掌に転がり落ちる。


(……終わりね)


 袋の中は、見事に空っぽだった。


「はぁ……」


 思わず、ため息が漏れる。


「一緒に食べませんか?」


 横から、柔らかな声がした。


 顔を向けると、エドガーが、少し照れくさそうな、けれどあたたかな微笑みを浮かべて立っていた。


「いえ、いいわ。……一食くらい、我慢するから」


 手をひらひらと振ってそう言い切った、その直後だった。


 ぐぅぅぅぅ……


 静かな広間に、盛大な音が響いた。


「……」


 エリーの肩が、ぴくりと跳ねる。


 エドガーは一拍置き、わざとらしく目を丸くしてみせた。


「お腹のほうから、『腹が減ったので至急補給せよ』って抗議文が届いてますよ?」


 さらりとそう言って、にっこり笑う。


「う、うるさいわね!」


 耳まで真っ赤に染めながら、エリーは噛みつくように言い返した。


「さ、こちらへ」


 エドガーは、責めるでもなく、ただ変わらない柔らかな笑みで手を差し出す。


「ダリウスのご飯は絶品ですよ」


「私は!」


 エリーが反射的に声を張った、その瞬間――


 ぐぅぅうう……


 二回目の、腹の抗議が響いた。


 焚き火のそばでミラがくすりと笑い、オットーが肩を震わせる。

 エドガーは何も言わず、ただ「どうぞ」とでも言うように、穏やかな眼差しでエリーを促した。


「…………」


 エリーは顔を真っ赤にしたまま、ぎゅっと唇を結ぶ。

 足はその場から動かないくせに、肩だけが小刻みに震えていた。


(……負けた気しかしないわ)


(でも……いい匂い……)


 ほんの少しだけ俯き、握りしめていた干し肉の袋を、そっとポーチへ戻した。



 結局――。


 エリーは、焚き火のそばの丸太に、顔を真っ赤にしたまま、こっそり腰を下ろしていた。

 肩をすくめ、視線はテーブルの木目に固定。どう見ても「通りすがりの第三者」ではない。


「よくきたな、ダリウス亭へ!」


 オットーが、がははと大口を開けて笑い、木のマグカップを掲げた。


「酒は飲むか? 今日のはちょいと奮発してるぜ?」


「な、なんでそうなるのよ! これは……その……あなたたちの進行速度が遅いから、仕方なく混ざっているだけで――」


 言い訳を並べるエリーを、ミラがニヤニヤ顔で覗き込む。


「ついに負けちゃったねぇ、エリー。もう戻れないよ? 塔の攻略より先に、こっちのテーブルに捕まっちゃったね?」


「負けてないわ! そもそもおかしいでしょ、三百歩くらい歩くたびにお茶って! どんな貴族よ!」


「いやいや」


 エドガーが肩をすくめ、湯気の立つマグを片手に、さらりと言った。


「この年になるとですね、盾職や魔法職のあいだに“紳士”って職業が一つ増えるんですよ。ティータイムはもはやスキルです」


 ミラが吹き出し、オットーが大笑いでテーブルを叩く。


「できたぞ」


 そんな笑い声を背に、ダリウスが料理を載せた木のトレイを運んできた。


 テーブルの中央に、湯気の立つ皿が四つ、ことり、と置かれる。


 皿の中では、淡いクリーム色の海が、ふつふつと小さく泡立っていた。

 表面にはところどころ、焦げ目が浮かび、香ばしい匂いを焚き火の煙へと混ぜていく。チーズとホワイトソース、バターと出汁の香りが絡み合い、空気そのものが濃くなったようだった。


「ドリアだ。熱いから気をつけろよ」


 ダリウスがそう言うや否や、ミラは大喜びでスプーンを構え、オットーは「待ってました」と腹をさすり、エドガーは思わず喉を鳴らした。


 エリーの前にも、一皿が静かに押し出される。


「……」


 しばし、無言で見つめる。


 皿の上で、とろりと揺れるクリーム色。

 鼻腔をくすぐるチーズの香り。


(……危険だわ)


(これを食べたら、本当に……戻れなくなる)


 人の子たちと同じ火を囲み、同じ鍋からよそわれたご飯を食べてしまったら――。

 自分で引いたはずの線を、もう一度引き直すことなんて、きっとできない。


 スプーンを握る指先が、わずかに震えた。


「冷めますよ?」


 エドガーが、穏やかに釘を刺す。


 エリーは、観念したように小さく息を吐き、そっとスプーンを皿に入れた。


 さくっ。


 表面の焼けたチーズとパン粉が、軽やかな抵抗を返す。

 さらに押し込むと、その下から、とろりとしたホワイトソースとチーズが、糸を引きながら溢れ出した。

 そのとろみの中には、ぷりっとした小エビや、こんがり炒めた玉ねぎ、きのこの欠片が顔を覗かせる。


 立ちのぼる湯気に、クリームとバターの甘い香り。

 その奥から、こんがりと炒めた米の香ばしさが、じわりと追いかけてくる。


(……ライスだけでも、美味しそう)


 エリーは、ごくりと喉を鳴らした。


 小さくひと口分をすくい、恐る恐る口へと運ぶ。


 舌に触れた瞬間、ホワイトソースの熱と、チーズの塩気とコクが、一気に押し寄せた。

 とろりとしたソースの向こうから、米の一粒一粒が、歯ごたえとともに「ここにいる」と主張してくる。

 エビのぷりっとした食感と、玉ねぎの甘さが、次々に押し寄せてきて――


(な、なにこれ……)


 脳天に、クリームとチーズと炊き込みライスの“暴力”が突き抜けた。


(……ダメ。こんなの、認めたら終わりよ)


 そう思った瞬間には、もう二口目をすくっていた。


「んーーーーーっ!!」


 エリーは思わず、スプーンを握ったまま、目に涙を滲ませて天を仰いだ。


 その顔を、ダリウス以外の三人――ミラ、オットー、エドガーが、そろってドヤ顔で見つめている。


 腕を組み、うんうんと頷くミラ。

 「だろ?」と言わんばかりに鼻を鳴らすオットー。

 どこか誇らしげに微笑むエドガー。


「……な、なによ、その顔は!」


 エリーは我に返って、慌ててスプーンを握り直した。


「べ、別に……特別おいしいわけでも……っ」


 言いかけた口に、次のひと口を押し込む。


 クリームとチーズと、ライスの暴力。


「…………っ」


 何も言えなくなった。


 一瞬だった。エリーの皿は、きれいに空になり、おかわりの皿は、二枚目も、三枚目も、同じ運命を辿ることになった。



 食後のテーブルには、湯気の薄くなったマグと、食べ終わった皿だけが残っていた。

 焚き火はぱちぱちと小さく爆ぜ、濃厚なドリアの香りは、今はもう、ほんの名残りだけを夜気に残していた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ