第61話 線を越えるドリア
三十八階層。
三体のサハギンに囲まれ、泡立つ浅瀬の真ん中で、ダリウスは片膝をついた。
足元の砂がぐしゃりと沈み、手をついた掌に、冷たい海水がぬるりとまとわりつく。
「はぁ……はぁっ、はぁ……」
肺が焼けるように痛い。
視界の端で、サハギンの槍先がじりじりと揺れている。
(くそっ……もう時間切れか!)
深く沈めたはずの意識が、水面へと強制的に浮かび上がってくる。
《深き森》は、そこから先へ踏み込む前に、ぷつんと糸を切られた。
「っ《伸縮紐》!」
エドガーの声が、すぐさま飛んだ。
透明な魔力の紐がダリウスの腰に絡みつき、弾かれたゴムのような勢いで、彼の身体をサハギンの輪の外へと引きはがす。
遅れて、ダリウスが立っていた場所に、槍の穂先が三本、ぐさりと突き立った。
*
三十九階層。
通路一面に、水弾の嵐が叩きつけられていた。
石壁も床も、直撃を受けた箇所はくぼみ、砕け、無惨な穴だらけになっている。
ダリウスは、間一髪でその雨を抜けきった直後、ふらりと足をもつれさせた。
(くそっ……! 景色が……溶ける!)
壁も床も、敵の姿も。
輪郭という輪郭がどろりと崩れ、遠いのか近いのかすら分からない。
踏み込んだつもりの足が、空を切った。
身体が横に流れ、そのまま――
「うおっ!?」
オットーのシールドバッシュの軌道に、ダリウスが雪崩れ込む形になった。
弾かれたように転がり、その場に手をついた瞬間、こらえきれずに胃の中のものをぶちまける。
鉄と潮と胃液の匂いが、湿った通路に広がった。
「大丈夫か!」
水弾を盾で受け止めながら、オットーが怒鳴る。
ダリウスは返事をしようとして――喉の奥で、言葉がまた吐き気に変わった。
──三十八、三十九階層と、ダリウスの《深き森》は階層を重ねるたびに短くなっていった
*
四十階層・ボス部屋前。
巨大な扉が、塔の心臓部を塞ぐようにそびえ立っていた。
黒鉄で組まれた扉には、古い傷や打ち痕が幾重にも刻まれ、天井は松明の光の届かない闇に溶けている。
その手前の広間に、ダリウスたちは野営地を設けていた。
焚き火の上では、大きな鍋と耐熱皿が並び、ダリウスが黙々と木べらを動かしている。
濃厚なチーズとホワイトソースの香りが、湯気とともに立ちのぼり、空気をこってりと満たしていた。
少し離れたところで、オットーとミラが薪を崩してはくべ、火の具合を見ている。
エドガーは椅子に腰かけ、魔導書を膝の上に広げ、布で一枚一枚、丁寧に拭き上げていた。
その輪から、ほんの少し外れた壁際。
エリーは腕を組んだまま、その光景をじっと眺めていた。
(……私も、そろそろご飯の時間かしら)
腰のポーチから、いつもの干し肉の袋を取り出す。
口を開けて、中身をそっと覗き――そのまま、逆さに振った。
ぽろり。
小指の先ほどの欠片が一つ、掌に転がり落ちる。
(……終わりね)
袋の中は、見事に空っぽだった。
「はぁ……」
思わず、ため息が漏れる。
「一緒に食べませんか?」
横から、柔らかな声がした。
顔を向けると、エドガーが、少し照れくさそうな、けれどあたたかな微笑みを浮かべて立っていた。
「いえ、いいわ。……一食くらい、我慢するから」
手をひらひらと振ってそう言い切った、その直後だった。
ぐぅぅぅぅ……
静かな広間に、盛大な音が響いた。
「……」
エリーの肩が、ぴくりと跳ねる。
エドガーは一拍置き、わざとらしく目を丸くしてみせた。
「お腹のほうから、『腹が減ったので至急補給せよ』って抗議文が届いてますよ?」
さらりとそう言って、にっこり笑う。
「う、うるさいわね!」
耳まで真っ赤に染めながら、エリーは噛みつくように言い返した。
「さ、こちらへ」
エドガーは、責めるでもなく、ただ変わらない柔らかな笑みで手を差し出す。
「ダリウスのご飯は絶品ですよ」
「私は!」
エリーが反射的に声を張った、その瞬間――
ぐぅぅうう……
二回目の、腹の抗議が響いた。
焚き火のそばでミラがくすりと笑い、オットーが肩を震わせる。
エドガーは何も言わず、ただ「どうぞ」とでも言うように、穏やかな眼差しでエリーを促した。
「…………」
エリーは顔を真っ赤にしたまま、ぎゅっと唇を結ぶ。
足はその場から動かないくせに、肩だけが小刻みに震えていた。
(……負けた気しかしないわ)
(でも……いい匂い……)
ほんの少しだけ俯き、握りしめていた干し肉の袋を、そっとポーチへ戻した。
*
結局――。
エリーは、焚き火のそばの丸太に、顔を真っ赤にしたまま、こっそり腰を下ろしていた。
肩をすくめ、視線はテーブルの木目に固定。どう見ても「通りすがりの第三者」ではない。
「よくきたな、ダリウス亭へ!」
オットーが、がははと大口を開けて笑い、木のマグカップを掲げた。
「酒は飲むか? 今日のはちょいと奮発してるぜ?」
「な、なんでそうなるのよ! これは……その……あなたたちの進行速度が遅いから、仕方なく混ざっているだけで――」
言い訳を並べるエリーを、ミラがニヤニヤ顔で覗き込む。
「ついに負けちゃったねぇ、エリー。もう戻れないよ? 塔の攻略より先に、こっちのテーブルに捕まっちゃったね?」
「負けてないわ! そもそもおかしいでしょ、三百歩くらい歩くたびにお茶って! どんな貴族よ!」
「いやいや」
エドガーが肩をすくめ、湯気の立つマグを片手に、さらりと言った。
「この年になるとですね、盾職や魔法職のあいだに“紳士”って職業が一つ増えるんですよ。ティータイムはもはやスキルです」
ミラが吹き出し、オットーが大笑いでテーブルを叩く。
「できたぞ」
そんな笑い声を背に、ダリウスが料理を載せた木のトレイを運んできた。
テーブルの中央に、湯気の立つ皿が四つ、ことり、と置かれる。
皿の中では、淡いクリーム色の海が、ふつふつと小さく泡立っていた。
表面にはところどころ、焦げ目が浮かび、香ばしい匂いを焚き火の煙へと混ぜていく。チーズとホワイトソース、バターと出汁の香りが絡み合い、空気そのものが濃くなったようだった。
「ドリアだ。熱いから気をつけろよ」
ダリウスがそう言うや否や、ミラは大喜びでスプーンを構え、オットーは「待ってました」と腹をさすり、エドガーは思わず喉を鳴らした。
エリーの前にも、一皿が静かに押し出される。
「……」
しばし、無言で見つめる。
皿の上で、とろりと揺れるクリーム色。
鼻腔をくすぐるチーズの香り。
(……危険だわ)
(これを食べたら、本当に……戻れなくなる)
人の子たちと同じ火を囲み、同じ鍋からよそわれたご飯を食べてしまったら――。
自分で引いたはずの線を、もう一度引き直すことなんて、きっとできない。
スプーンを握る指先が、わずかに震えた。
「冷めますよ?」
エドガーが、穏やかに釘を刺す。
エリーは、観念したように小さく息を吐き、そっとスプーンを皿に入れた。
さくっ。
表面の焼けたチーズとパン粉が、軽やかな抵抗を返す。
さらに押し込むと、その下から、とろりとしたホワイトソースとチーズが、糸を引きながら溢れ出した。
そのとろみの中には、ぷりっとした小エビや、こんがり炒めた玉ねぎ、きのこの欠片が顔を覗かせる。
立ちのぼる湯気に、クリームとバターの甘い香り。
その奥から、こんがりと炒めた米の香ばしさが、じわりと追いかけてくる。
(……ライスだけでも、美味しそう)
エリーは、ごくりと喉を鳴らした。
小さくひと口分をすくい、恐る恐る口へと運ぶ。
舌に触れた瞬間、ホワイトソースの熱と、チーズの塩気とコクが、一気に押し寄せた。
とろりとしたソースの向こうから、米の一粒一粒が、歯ごたえとともに「ここにいる」と主張してくる。
エビのぷりっとした食感と、玉ねぎの甘さが、次々に押し寄せてきて――
(な、なにこれ……)
脳天に、クリームとチーズと炊き込みライスの“暴力”が突き抜けた。
(……ダメ。こんなの、認めたら終わりよ)
そう思った瞬間には、もう二口目をすくっていた。
「んーーーーーっ!!」
エリーは思わず、スプーンを握ったまま、目に涙を滲ませて天を仰いだ。
その顔を、ダリウス以外の三人――ミラ、オットー、エドガーが、そろってドヤ顔で見つめている。
腕を組み、うんうんと頷くミラ。
「だろ?」と言わんばかりに鼻を鳴らすオットー。
どこか誇らしげに微笑むエドガー。
「……な、なによ、その顔は!」
エリーは我に返って、慌ててスプーンを握り直した。
「べ、別に……特別おいしいわけでも……っ」
言いかけた口に、次のひと口を押し込む。
クリームとチーズと、ライスの暴力。
「…………っ」
何も言えなくなった。
一瞬だった。エリーの皿は、きれいに空になり、おかわりの皿は、二枚目も、三枚目も、同じ運命を辿ることになった。
食後のテーブルには、湯気の薄くなったマグと、食べ終わった皿だけが残っていた。
焚き火はぱちぱちと小さく爆ぜ、濃厚なドリアの香りは、今はもう、ほんの名残りだけを夜気に残していた。




