第60話 家族でしょ
三十七階層・昼。
しとしとと降る雨は、昨日よりいくらか弱まっていた。
どす黒く荒れていた海も、波頭の鋭さを失い、鈍い鉛色のうねりが、ゆっくりと砂浜を撫でては引いていく。
——その穏やかさを、下から突き破るように。
海面が、ぼこり、と盛り上がった。
泡立つ水飛沫を割って現れたのは、海蛇のように長くうねる巨体。
鋼鉄じみた光沢を帯びた鱗が、びっしりと隙間なく並び、サメを思わせる獰猛な顎が、ぎらりと三角の牙を覗かせている。
その全長は六メートルか、七メートルか——見上げるだけで膝が笑いそうになるサイズだ。
「……リヴァイアサン、か」
ダリウスが低く呟き、前へ一歩出た。
剣の切っ先が、雨粒を弾いて微かに震える。
少し後ろで、エドガーが魔導書と虫眼鏡を構え、ページに走る術式を一瞥する。
ミラは三人を包むように指先を動かし、結界の術式を紡ぎ始める。
オットーは前衛と後衛のあいだ——どちらにも飛び込める距離を測りながら、盾と斧を構えた。
(速攻で決める)
(ここで長引かせたら、持たない——《深き森》)
ダリウスの意識が、すとん、と落ちていく。
雨音が、遠ざかった。
世界から余計な情報が剥がれ落ち、視界には巨大な影——リヴァイアサンの輪郭だけが、やけにくっきりと浮かび上がる。
(大丈夫だ。見える……)
(右上から噛みつき——)
(体をひねれ。軸はぶらさず、そのままの勢いで——)
巨体が海水を撒き上げながら襲いかかるより、わずかに早く。
ダリウスの身体が、地を蹴った。
がばりと開いた顎の下を、紙一重でくぐり抜ける。
海水と生臭い息が頬を掠め、濡れた鱗が視界をよぎる。
次の瞬間には——ダリウスは、リヴァイアサンの顔の真正面にいた。
「——《ダブルスラッシュ》!」
一段目。
振り上げた刃が、弧を描いて眼窩を裂く。
二段目。
返す刀が、逆方向から瞳を断ち割った。
上下の二連撃が、ひとつの軌跡になってリヴァイアサンの片目を切り裂く。
血と海水が混じった飛沫が、雨の中へ細かく散った。
「ぎょおぉおおおおお!」
耳をつんざく咆哮が、鈍色の空に突き刺さった。
片目を潰されたリヴァイアサンが、海面の上で大きく身を仰け反らせた。
鞭のようにしなる長大な胴が、波を叩きつけて白い飛沫を上げる。
顎が、ぐわり、と開く。
その口腔の前に、空気ごと巻き込むような水流が集まり始めた。渦巻く海水が一点に凝縮され、青白い光を帯びて震える。
「ブレス来ます!」
エドガーが短く叫び、すぐさま呪文に入る。
「《魔導糸》!」
魔導書のページから、細く鋭い光の針と糸が飛び出した。
それは一直線にリヴァイアサンの顔へ突き刺さり——
ぶちん、ぶちん、と音がした。
分厚い唇と歯茎、上顎と下顎を、強靭な糸が縫い合わせていく。
瞬きする暇もなく、リヴァイアサンの口は固く縫い付けられた。
「今だ!」
その隙を逃さず、オットーが前線へ飛び出した。
雨を弾きながら走り、巨体の懐へ滑り込む。
「——《阿修羅》!」
大斧に、黒い気迫が噴き上がるようにまとわりつく。
振り下ろされた一撃は、斬るというより、殴りつけるような質量を帯びていた。
ごしゃり、と嫌な音がする。
鋼鉄のような鱗が一帯ごと陥没し、リヴァイアサンの胴体に深い凹みと裂傷を刻み込んだ。
そこへ——
「——《グランドスラッシュ》!」
ダリウスが、低く深く身を沈めた姿勢から跳躍した。
狙いはただ一点。オットーがこじ開けた、その傷口だ。
(これで……決まった——)
意識はまだ、深き森の静寂を引きずっている。
見える。軌道も、角度も、肉と骨の位置さえ——。
……はずだった。
その瞬間、世界がぐにゃりと歪んだ。
リヴァイアサンの輪郭が、溶ける。
切りつけようとしている傷口と、自分の腕の境界が曖昧になる。
海と空の色が混ざり合い、上下の感覚すら、ふっと消えた。
(——また、かよ……)
頭の奥が、ぐらりと揺れる。
剣を振り抜くはずの腕に、力が入らない。
視界の端で、リヴァイアサンの巨大な影と、自分自身の影が、ぐしゃぐしゃに重なっていく。
次の瞬間、足元が抜けた。
「——っ……!」
ダリウスの身体が、力の抜けた人形のように崩れ落ちる。
剣が手からこぼれ、濡れた砂を転がった。
それを追うように、リヴァイアサンの尾がしなる。
縫い付けられた口の代わりに、巨大な鞭と化した尾が、倒れたダリウスめがけて振り下ろされる——。
「まずい!」
テーブルを叩くような鋭い声とともに、エドガーが魔導書を掲げた。
「《伸縮紐》!」
ページの間から、透明な光を帯びた紐が撃ち出される。
それは一直線にダリウスの身体へ伸び、絡みついた次の瞬間——
ぐい、と強く収縮した。
ダリウスの身体が、砂を滑るように一気に後方へ引き戻される。
直後、リヴァイアサンの尾が地面を叩きつけ、砂と飛沫が爆発した。
吹き上がる白砂の向こうで、リヴァイアサンが、縫い付けられた口を無理やりこじ開けようともがいていた。
鋼鉄のような顎の力が、魔導糸を一本、また一本と引きちぎっていく。
ばちん、ばちん、と嫌な音が続き——
ついに、口が完全に解放された。
その喉奥に、先ほどとは比べものにならないほどの水流が収束していく。
海水が圧縮され、青白い光を帯びて震える。まるで、海そのものを槍にして吐き出そうとしているかのようだった。
「来るぞ!!」
オットーが吠え、前へ飛び出した。
半ば本能のままに盾を構え、リヴァイアサンの正面に立つ。
「《シールドバッシュ》!!」
高圧水流と盾とが、正面からぶつかり合った。
轟音。
海風が一瞬でかき消されるほどの衝撃が、砂浜に圧力の波を走らせる。
「ぐぅうううう……っ!」
オットーの足が、ずるずると後ろへ押し下げられていく。
砂を削りながら踏ん張るが、膝にかかる負荷は常軌を逸していた。
——バキン。
嫌な音が、オットーの膝から鳴った。
「……っだぁあああああ!!」
顔を歪め、奥歯を噛み締める。
さきほどまでの痛風の鈍い痛みが、一気に刃物のような鋭さを帯びて膝を襲う。
(ここで……膝かよ……!)
それでも、一歩も退かない。
盾を前へ押し出し続け、ただ、仲間とブレスの間に立ちふさがる。
背後では、ミラが素早くダリウスの側に膝をついていた。
「ダリウス……!」
治癒術式の光が、彼の身体を優しく包む。
それでも、彼女の視線は何度も前線へと吸い寄せられていた。
(今すぐ前に行きたい……オットーを助けに走りたい……)
(でも、私が前に出ちゃダメなんだよね……私が倒れたら、誰かが死ぬ)
エリーの声が、頭の中で響く。
——『あなたはもう前に出ちゃダメなの。あなたが傷付けば、誰かが死ぬと思いなさい』
胸の奥で、何度も何度も揺れる感情を、ミラはぎゅっと押し込めた。
(だったら——信じる!)
「……お待たせしました」
静かな声が、聞こえた。
エドガーが、雨に濡れた砂浜を一歩踏み出す。
魔導書の上に浮かぶ術式が、炎色に変わった。
「《二重詠唱・業火の抱擁》」
次の瞬間、リヴァイアサンの周囲の空気が歪んだ。
海上に、炎の大蛇が現れる。
紅蓮の蛇はうねるようにリヴァイアサンの胴へ絡みつき、その鋼鉄の鱗を焼き始めた。
高圧の水ブレスと炎がぶつかり合い、蒸気が爆発するように立ち上る。
焼けた鱗がばちばちと弾け、白熱した亀裂が体表を走る。
しばらくは、圧力と炎が拮抗していた。
だが、徐々に——本当に少しずつ——ブレスの勢いが弱まっていく。
オットーの盾を叩く圧力が、わずかに軽くなる。
(……効いてる)
エドガーの眼鏡越しの瞳が、揺れずに炎を見つめた。
やがて、リヴァイアサンの喉奥から響いていた唸り声が、かすれる。
高圧の水流が途切れ、代わりに、焼けた肉の匂いと、黒煙だけが立ち昇った。
——静寂。
波音と雨音が、ゆっくりと戻ってくる。
炎の大蛇がふっと掻き消えた時、そこに残っていたのは、黒く炭化した巨体だけだった。
かつてリヴァイアサンだったものは、もう、ただの焼け焦げた巨大な肉塊にすぎない。
その沈黙こそが、この海域の主の死を、誰より雄弁に物語っていた。
砂浜に簡易の寝台が広げられ、その上でダリウスが静かに寝息を立てていた。
額にはミラの治癒術式の名残りがかすかに光を残している。
エドガーはしゃがみ込み、ダリウスの顔色と呼吸の深さを確かめた。胸がゆっくりと上下しているのを見て、ほんの少しだけ肩の力を抜く。
「……早いですが、今日はここまでにしましょう」
魔導書を閉じながら、穏やかながら逆らわせない声音で告げる。
「あぁ、そうだな。無理しちゃいけねぇ」
オットーも、痛む膝をさすりながら同意した。
荒れた海を背に、彼らはそれ以上先へ進むことなく、その日は早めに休息を取ることに決めた。
*
その夜。
雨はまだやまず、タープの上でぽつ、ぽつ、と根気強く音を立てていた。
ランプの灯りが小さな卓と、食べ終えた皿の上に丸い光の輪を落としている。
ダリウスは、黙々と食器を片付けていた。
木椀を重ね、スプーンをまとめ、布で軽く拭っては桶に移す。
(このパーティの──穴は、明らかに俺だ)
(オットーも、エドガーも、新しい力をものにしてる)
(俺は……どうすればいい? 本当に、ここに必要なのか?)
重ねた木椀の山が、ぐらりと揺れたような気がした。
実際にはびくともしていないのに、足元の砂だけが、すうっと沈んでいく錯覚を覚える。
(現役時代でも、そうだったじゃないか)
(剣では役に立てず、補給と雑用でなんとか席を守っていた。「お前がいて助かるよ」と笑われるたびに、胸のどこかがひりついていた)
(だからこそ、歳を取って「間合いでの戦い」を褒められて、《深き森》を手に入れた時、やっと前に立つ場所をもらえたような気がしたのに……今度は身体のほうがついてこない)
(役目を失った俺に、残るものなんてあるのか?)
目の前の木椀の山が、今のパーティにおける自分の居場所みたいに思えて、ひどく情けなくなる。
(……泣き言は後だ。役目がないなら、擦り切れるまで動け。ここに要るって言い張れる何かを見つけろ、ダリウス)
「ダリウス、はい、これ」
残っていた皿を、ミラが差し出してくる。
いつも通りの、真っ白で、まっすぐで、見ていると目がくらみそうな笑顔を浮かべて。
「……ありがとう、ミラ」
ダリウスは、無理に口角を引き上げた。
自分でもわかる。頬の筋肉だけ引きつった、固い笑顔だ。
「テーブルはこっちで片付けておくからよぉ」
オットーが、照れ隠しのようにほっぺたをぽりぽりと掻きながら言った。目線はわざと外している。
「お前は今日は、早く寝ろよ」
「悪いな、そうさせてもらうよ!」
ダリウスは、少し大袈裟なくらいに手を振ってみせる。
声も、わざと明るく張った。
(……演技だな。自分でもわかるくらいには、下手な)
ミラも一緒に皿を運びながら、ダリウスの横に並ぶ。
手は休めない。木椀を重ね、布で拭き、その視線はずっと食器のままだ。
「ねぇ、ダリウス?」
ぽつりと、ミラが声を落とした。
「なんだ、ミラ」
ダリウスは微笑んでみせる。けれど、さっきよりもさらに固い。頬だけが引きつっている。
ミラはやはり皿から目を離さないまま、静かに言った。
「ダリウスは、やっぱり笑顔が下手だね」
「えっ?」
ダリウスの手が止まる。
拭きかけの皿の上で、布が中途半端にしわを作った。
ミラは、そこでようやく顔を上げる。
真っ直ぐな瞳でダリウスを見て――少しだけ、困ったように微笑んだ。
ミラは、また視線を皿に落とし、布でていねいに縁をなぞりながら続けた。
「辛い時は、しんどいって。泣きそうな時は、かなしいって。苦しい時は、もうダメかもって……私は、言ってほしいな」
その声音は、いつもの明るさより少しだけ、柔らかかった。
「ミラ……」
ダリウスは固まったまま、名前を呼ぶことしかできない。
ミラはくるりと回って、今度は正面からダリウスを見上げる。
さっきまでの背中越しの声とは違う、まっすぐな笑顔だった。
「だって、私たち家族でしょ?」
ひと言言ってから、急に恥ずかしくなったのか、ミラは指先で自分の金髪をくるくるといじる。
「……まぁ、血は繋がってないけどね」
波音と、小さな雨音だけが続く。
タープの下に、短い沈黙が落ちた。
「……まいったな」
ダリウスが、ぽつりとこぼした。
皿を拭く手が止まり、視線はテーブルの木目に落ちたまま。
「ミラにそんなこと言わせるくらいには……しんどいらしい」
喉の奥にたまっていたものが、少しずつ言葉になって出てくる。
「俺だけ……」
いつもだ。
若い頃からずっと──自分だけが一歩遅れている感覚を、どこかで抱え続けてきた。
ミラは、その横顔をじっと見つめる。
いつもの能天気さはどこにもなく、珍しく、真剣な目つきだった。
「大丈夫だよ」
はっきりと、言い切る。
「ダリウスが倒れたら、みんなが怪我したら、全部治しちゃうから。絶対に」
それは、無根拠な楽観じゃない。
自分の力と、自分の役割を知った上での、強い約束の言葉だった。
「ミラ……」
ダリウスの胸の奥で、静かに何かがほどけていく。
こぼれ落ちるように名前を呼び、彼女を見た。
さっきまで無理やり作っていた笑顔とは違う。
自分でも驚くくらい、力の抜けた自然な笑みだった。
「あぁ……頼むよ」
(こんなおっさんが、何ミラに心配かけてんだよ)
(……こないだまで、皿一枚運ぶのにも両手でふらふらしてたのにな)
ダリウスの目に、かすかな光が戻った。
*
少し離れた岩陰で、焚き火の灯りが届くか届かないかという場所。
海風が横なぐりに吹きつけ、雨粒が時折まじる。
エリーは、荒れ気味の海を見つめていた。フードの影で、その表情はよく見えない。
「ダリウスの、あの状態……どういうことなんですか?」
背中越しに、エドガーの声が届く。
振り返ればすぐそこにいる距離だが、エリーは視線を海から外さない。
「良いとも、悪いとも言えないわね」
ぽつりと、海に向かって言葉を落とす。
「……でもね。ゆっくり調整して、万全になってから挑みましょう、なんて悠長なこと言っていられる時間は、もうないの」
「時間?」エドガーが眉を寄せる。
エリーは答えない。
波頭が砕ける音が、代わりに会話の隙間を埋めた。
(──ミラの石化は、本来もっと先のはずだった)
(奇跡の行使で、時計の針は前に進んだ。あの子のためにも、ここで立ち止まっていられる猶予なんてない)
ダリウスも、オットーも。
形は違えど、もう“入口”には立っている。あとは、どれだけ死線をくぐり抜けるか──それだけの段階だ。
エリーはそこでようやくエドガーの方を振り向く。
一瞬だけ視線を合わせてから、くるりと踵を返し、テントの方へ歩き出した。
「エドガー」
背中越しに、短く名を呼ぶ。
「あなた、魔法以外にも……もう少し、仲間に目を配りなさい」
その言い方はきつくも優しくもなく、ただ事実を告げるだけの調子だった。
「だから、どういうことなんですか?」
エドガーはなおも食い下がる。
「あなたの話は抽象的すぎます。もっと、簡潔に、具体的に言ってもらわないと……」
エリーは足を止め、肩越しにだけ振り返る。
焚き火の赤い光が、その横顔の輪郭をかすかに照らした。
「話はここまでよ」
わずかに口元をゆるめる。
それは、笑みと呼んでいいのかどうか迷うほど、かすかな表情だった。
「おやすみなさい、エドガー。いい夢を」
それだけ告げると、幕をめくってテントの中に消えていった。
「……はぁ」
残されたエドガーは、深いため息をひとつ。
振り返った視線の先に、タープの下で皿を拭くダリウスとミラの姿を見つけた。
(……魔法以外に、目を配るですか)
ぼそりと胸の内で繰り返した。




