第59話 〇・〇〇八の敗北
その時エドガーが、ぱん、と手を打った。
「ちょっと待ってください!」
ぴしゃり、と雨より鋭い声がタープの下に落ちた。
ダリウス、ミラ、オットーの三人は、同時に嫌な予感に肩をすくめる。
――あ、これは始まる。
「何よ? まだ不満なの?」
エリーが眉をひそめる。腕を組み、さっきまでの得意げな気配を一瞬で消した。
しかし、エドガーは譲らない。椅子から立ち上がり、プレゼンでも始めるかのように手をひらひらと動かし始めた。
「三節目の発声のピッチが半音高いです。ここで出力が、そうですね……およそ〇・〇〇三落ちます」
さらりと言いつつ、指で「0.003」と空中に数字を書き出す。
「それからリズムです。途中、裏打ちが続く箇所で三拍子のうち、四分の三拍ほど遅れました。これは致命的だ。ここでさらに〇・〇〇五。合計で〇・〇〇八のロスです。わかりますか、この重さが」
ダリウスたちは、全くわかっていなかった。ただ場の空気だけが、じわじわと重くなっていく。
「ほ、ほら見てください、あそこの炎の残滓――あれは本来ならもっと細かく分解されて……それに、詠唱の第二小節。『テリィ』の母音を伸ばす長さが……いや、これはもう最初に戻るべきです。なぜなら――」
早口のまま、エドガーは延々と手を振り、指を立て、空中に見えない譜面と数式を描き続けた。
説明されている「ロス」はどれも、実戦的には誤差と言っていいほど微々たるものばかりだ。
「――つまりですね、古代の魔導詠唱は一音一音に意味があり、その一音のズレが百年単位で連なる系譜を――」
「もういいでしょ!」
堪えきれなくなったように、エリーが叫ぶ。頬は真っ赤に染まり、耳まで赤い。
「大事なのは実用性よ! ちゃんと海もえぐれたじゃない! 威力出てたわよね!?」
エドガーは、きっぱりと言い返した。
「実用性……? 確かに、そういう人は多い」
そこで、ぐっと目を細める。
「ですが、我々は“古代の人々が描いた原書を紐解き、この世に再臨させる”という使命があるんです!」
拳を握りしめ、ぐいっと前に踏み出す。
「詠唱ひとつ疎かにするのは、作者への冒涜だ! ここはもう少し説明が必要なようですね――」
「ああもうわかったから!!」
エリーは両手をばっと前に突き出した。
「ごめんなさい! 悪かったわよ! 私が間違ってました! これで許して!!」
必死の形相に、さすがのエドガーもぴたりと口を閉ざした。
そして、ふっと穏やかな笑みを浮かべる。
「わかってもらって良かったです」
その笑顔は、魔導院の優等生そのものだった。
……その分、余計にタチが悪い。
ダリウス、ミラ、オットーの三人は、そろってエリーに同情のまなざしを向ける。
あぁ……可哀想に。
天才長命種でさえ、オタク学者の情熱には勝てないのだ。
「……まぁ、前置きはこれぐらいにしましょう」
さっきまで熱弁していたのが嘘だったかのように、エドガーがさらっと言った。
ダリウス、ミラ、オットーの三人は、同時にうな垂れる。
――今のが、前置き……?
「ま、前置き……だったの?」
エリーの顔から血の気が引いていく。さっきまで赤かった頬が、今度は真っ青だ。
「えぇ。何か?」
エドガーは本気で不思議そうだった。
「…………」
エリーは額に手を当て、そのまましばらく固まる。
雨音と波音と、タープを叩くしずくの音だけが、タープの下を満たした。
やがて、エドガーがふっと嬉しそうに微笑む。
「『楽しいお裁縫・全編』の魔法――これは実に素晴らしいです」
瞳が、完全に研究者のそれになる。
「詠唱が短い。その割に応用が利く。紡ぎ、結び、留める……対象の拘束、補助、延長。構造魔術として、完成度が高い」
エリーの頬が、また少しずつ色を取り戻していく。
「そうでしょう!!」
思わず一歩前に出ていた。
「あなたにぴったりだと思ったの。集中力もあるし、精度も高いし――」
そこまで言って、はっとする。
自分が全力で褒めていることに気づいて、耳まで赤くなった。
「……べ、別に、あの本が余ってたからよ。他に貸す相手もいなかったし……!」
取り繕うようにぶつぶつ付け加えるが、誰も本気にしていない。
エドガーは、そんな彼女の様子には気づいているのかいないのか、きりっと真面目な顔に戻った。
「ですが、問題は火力です」
場の空気が少し引き締まる。
「オットーの火力は上がった。ダリウスも同様です」
指を折りながら、順に見ていく。
「ただ、このパーティで“最大火力”を持つのは、今も昔も私に変わりありません」
「そうね」
エリーはあっさり頷いた。
「原書を百で再現できるんだもの。当然ね」
その言い方は、誇張でもお世辞でもなかった。ただの事実確認だ。
「えぇ。だからこそ――」
エドガーは、魔導書の背をそっと撫でる。
「『楽しいお裁縫・全編』の詠唱をしている間、攻撃魔法が詠唱できなくなっている。これは致命的ですよ」
「……え?」
エリーが小首をかしげる。
「?? 二重詠唱すればいいじゃない? 何も問題はないわ」
「…………」
エドガーが瞬きをする。
「?? 二重詠唱とは???」
「どういうこと?」
今度はエリーの方が、心底不思議そうだった。
「知らないの…………???」
「いえ」
エドガーはきっぱり首を振る。
「二つの魔法を同時に詠唱すると、魔力回路が干渉して術式が混ざり、発動不能になる。児童院でも習いますよ。基本中の基本です」
さらっと言い切る。
タープの下に、しん、と沈黙が落ちた。
エリーの神経質そうな横顔に、ふっと陰が落ちる。
「そっか……この時代では、もう失われたのね……」
ぽつりと零した声は、さっきまでのきつさとは違い、どこか寂しげだった。
雨音がタープを叩く音と混ざって、その小さな嘆きはすぐにかき消えてしまう。
けれど、彼女はほんの一瞬だけ目を伏せると、すぐに表情を切り替えた。
「……まぁいいわ。しおりを使えばできるもの」
「しおり?」
エドガーが首をかしげる。
エリーの口元に、ゆっくりと得意げな笑みが浮かんだ。
「二重詠唱を“転写”したしおりよ」
エドガーの喉が、ごくりと鳴る。
悔しさと好奇心がないまぜになった、いつもの顔だ。
「くっ……詳しく……」
「ふっ、いいわよ」
完全に“講師モード”のドヤ顔になるエリー。
「このしおりを、二重詠唱したいページに挟むの。そうすれば、ひとつ目の詠唱を途中でやめても――」
右手で空中にページを開く所作をし、左手で別の線をなぞるようなジェスチャーをする。
「もう一つの魔法を、その途中から詠唱できるってわけ」
「す、素晴らしい!!!」
椅子から立ち上がらん勢いで、エドガーが叫んだ。
「はっ……!? ということは、別系統の魔法同士を組み合わせることも――」
「いいところに気づいたわね」
エリーは満足そうに頷く。
「そうよ、水と雷、風と炎……。組み合わせることもできるわ。
“混ざって暴発する”んじゃなく、“縫い合わせて繋ぐ”のが二重詠唱なの。しおりが“縫い目”の役割をするのよ」
エドガーの目が、完全に星になった。
「ダリウス!!」
くるりと振り向き、隊長へ視線を向ける。
「問題はありません! 進めますよ、次の階層に!!」
胸に魔導書を抱きしめながら、満面の笑みで宣言した。
「私が、すべてを焼き払います!!」
ダリウス、オットー、ミラの三人は、同時に視線をそらした。
――ああ、もうわかったから……。
「……あぁ」
ダリウスは、スプーンを静かに置いた。
(さっきまでの“危険な編成”とは条件が違う。
エリーの前線参加はリスクじゃない。“最後に全部ひっくり返せる保険”だ。
エドガーも、『楽しいお裁縫』があっても、いざとなればいつでも最大火力に戻せる)
(最悪の時は、以前の安定パターン――オットーの盾と、俺とエドガーの火力、ミラの結界と回復で“下がる”形に切り替えられる。安全マージンは、ギリギリだが……戻った)
「……よし」
自分に言い聞かせるように、一度だけ頷く。
「進もう」
それは諦めではなく、“隊長としての判断”としての声だった。
その横で、エリーがふいに笑う。
今まで見せたことがないくらい、柔らかな、心からの笑みだった。
「ふふっ……エドガー。あなた、本当に魔法が好きなのね」
雨音の中、焚き火の明かりに照らされたその笑顔に――
ダリウスも、オットーも、ミラも、思わず目を丸くする。
(……笑った?)
(エリーが……?)
(え、なにこれレア?)
エドガーだけが、その変化をまともに受け止めきれず、心臓が早鐘を打ち始めていた。
エリーは、ふっと我に返ったように肩を震わせる。
(……だから嫌なのよ、エドガー。あなたは困るの)
(あの人に、あまりにもそっくりだから)
胸の奥で誰かの面影を追い払うように、エリーはくるりと背を向けた。
古い傷痕がかすかに疼いた。
「わ、私はもう寝るわ! おやすみなさい!」
早口でそう言い捨てると、タープの外れに張られた自分用の小さなテントへ、足早に消えていく。
残されたダリウスは、手元のスープを一口すすり、ごくりと飲み下した。
「……『おやすみなさい』、か」
ぽつりと呟く。
「これも、初めてだよな」
「いいんじゃねぇのか」
オットーがパンを齧りながら言った。
「こういうのは、ちょっとずつだ。無理なく、な」
「そのうち一緒にご飯も食べられるかもね!」
ミラが、パンを口に詰めたまま笑う。言葉が少しもごもごした。
エドガーはと言えば、耳まで赤くして俯き、スープを見つめている。
「そ、そうなると……いいですね……」
早くなった鼓動をごまかすように、スプーンでさざなみを作った。
雨音は相変わらず強く、海は荒れている。
それでも、タープの下だけは、久々に柔らかいぬくもりが戻ってきていた。
ミラは、ふと顔を上げ、雨越しに暗い海を眺める。
顎に手を当て、ふんす、と小さく鼻息を鳴らした。
(ほほぉ……)
(エドガーさん、恋愛警察ミラの勘をなめてもらっちゃ困りますよ)
さっきのエドガーの横顔を思い出す。
エリーが笑った瞬間、視線を逸らして、耳まで真っ赤にして、やたらとスープばかり見つめていたあの顔だ。
(前は“すごい博識のエルフだなぁ”って尊敬してる目だったのに今のはもう、“理由のわからないドキドキ”が混ざってたわね)
当のエドガー本人は、その変化にまったく気づいていない。
自分の胸のざわつきを、「魔法の新発見で興奮しているせいだ」と本気で思っているあたりが、実にエドガーらしい。
青い髪のエルフと、オタクの魔法使い。
その間に流れる、まだ名前のない感情に、誰よりも早く気づいたのは――
やっぱり、このパーティ唯一の思春期女子ミラだった。
その夜、塔の海辺のキャンプでは、外の嵐とは裏腹に、静かにいろいろなものが動き始めていた。




