第58話 安全マージンの外側
三十七階層の夜は、雨と荒波が競い合うような音を立てていた。
海岸線から少し離れた小高い砂地に、ダリウスたちはキャンプを張っている。
頭上にはタープ、その奥にはテント。布を叩く雨粒がぱちぱちと弾け、跳ね返った水滴がランプの灯りの中できらりと光った。
タープの下、簡易テーブルを囲んで四人が腰を下ろしている。
湯気を立てる木椀の中には、熱々のポタージュ。膝の上には、表面がカリッと焼かれたパン。
スプーンでポタージュをすくえば、とろりとした液体が舌の上でやわらかく踊る。
最初にくるのは、炒めた玉ねぎの甘みと、煮込まれた根菜のほっこりした旨み。
そのあとで、ほぐれた豆の粒が舌の上でほろりとほどけ、素朴な豆の風味がじんわりと口いっぱいにひろがった。
雨で冷えた身体の芯に、ゆっくりと火を入れていくような、そんな温かさだった。
少し離れたタープの端では、エリーがひとり、椅子にも座らず支柱にもたれかかって干し肉を齧っている。
雨の夜ばかりは、彼女もさすがに距離を取りきれず、同じ屋根の下にいた。
――それでも、テーブルを囲む空気は、どこか重たい。
「み……みんな、新しい技、すごいよね!!」
ミラが、パンを皿に置いたまま、ぎこちない笑顔を作って口を開いた。
その声には、沈みかけた空気をどうにか浮かせようとする、無理やりな明るさが混じっている。
「ああ……そうだな」
ダリウスも、同じようにぎこちない笑みを返した。
だが、その表情の裏では、別の思考が渦巻いている。
(あの“溶ける”ような感覚が来てから……)
あの瞬間。
世界がぐにゃりと歪み、距離の感覚も、自分の腕の輪郭すら曖昧になった、あの感覚。
(《深き森》に入っていられる時間も、成功率も落ちた……。
このままで、本当に……いいのか?)
スプーンが椀にあたる小さな音が、やけに耳につく。
「……ちょっといいか?」
普段なら真っ先に「おかわり!」と言い出すはずのオットーが、珍しく、そろそろと手を挙げた。
いつもより低い、その声に、三人の視線が集まる。
「このまま進むのは……やめた方が良くねぇか?」
雨音の隙間に落ちたその言葉は、重く、真剣だった。
「そうかもしれませんね」
エドガーもまた、静かに頷く。
椀を置き、両手を組んでテーブルの上に乗せると、声を抑えて続けた。
「一旦、それぞれのスキルを見直して、もっと連携を高めてから上の階層に行く。
その方が、リスクは少ないでしょう」
「……俺の《阿修羅》、連発は危ねぇ」
オットーは、視線をテーブルの木目に落としたまま、低い声を絞り出した。
「失神したら盾がなくなって、お陀仏だ……。
それに、その……言いにくいが……言う。……ダリウスも、調子が悪い」
ちら、と申し訳なさそうにダリウスの方を見る。
傷つけたくはない。だが、言わなければならない――そんな迷いが、その目の揺れににじんでいた。
「気を使わなくてもいいよ、オットー」
ダリウスは、ふっと微笑んだ。
自分への指摘を否定することもなく、むしろその不器用な気遣いそのものに、感謝を込めるように。
「問題ないわ。進みましょう」
タープの端、干し肉を齧っていたエリーが、スープの残った椀をテーブルに置きながら、あまりにもあっさりと言った。
冷静で、淡々としていて。
まるで「明日は晴れるわよ」とでも告げるような、当たり前の口ぶりで。
「ちょっと待て」
その言葉に、ダリウスの声が低く跳ねた。
普段は滅多に怒気を含ませない男の声が、はっきりと尖る。
「安全マージンを超える。止まるべきだ。全員の安全――そこは、譲れない」
雨音と波音の中でも、その一線だけは崩さないという固さが、声に滲んでいた。
「え、えっと、その……!」
ミラがパンを握りしめたまま、あたふたと視線を行き来させる。
オットーを見る、エドガーを見る、エリーを見る――だが、どの顔にも答えはなく、ただ重たい沈黙だけが返ってきた。
「問題ないわ」
エリーは、ひらりと片手を返した。
雨粒ですべりそうな手つきなのに、その口調だけは揺らがない。
「何かあれば、私があなたたちを守るから」
その物言いは、傲慢というよりも、事実の確認に近かった。
「……実力を、見せてくれ」
ダリウスは、まっすぐにエリーを見た。
睨みつけるわけでもなく、ただ真剣に。その一点を確かめるためだけに。
「いいわよ」
エリーは小さく笑うと、椅子の背に立てかけていた剣に手を伸ばした。
抜き払う――というより、“滑るように”剣が鞘から出る。
刃がランプの光を一瞬だけ掠め、そのままダリウスへと伸びた。
「《月下無痕》」
名前を告げた次の瞬間には、もう終わっていた。
鋭い風の線が、ダリウスの目の前を走り抜ける。
頬をかすめた何かが、ひやりとした冷たさだけを残して消えた。
「……っ!」
刃が通ったあと遅れてダリウスは反射的に身を引いた。
頬に触れる。指先に、うっすらと血が滲んだ。
薄皮一枚。
本当に“紙一重”という言葉通りの距離で、刃は彼の顔を通り過ぎていた。
(これが――)
ごくり、と喉が鳴る。
(俺が《深き森》に入り込んで、全ての雑音を切り捨てて、ようやく届かせていた一撃……)
(それを、こんなふうに……息一つ乱さず、軽く)
エリーの呼吸は乱れていない。
握った剣先は、まるでまだ何ひとつ振るっていないかのように、静かに止まっていた。
「次」
彼女は短く言うと、今度は背中のケースに手を伸ばした。
そこから抜き出されたのは一本の弓。
雨に濡れないようタープの端ぎりぎりまで移動すると、静かに矢を番える。
「《射法八節》」
その所作には無駄がなかった。
足を運び、腰を据え、背筋を伸ばす。
肩、肘、指先へと力が流れ、弦を引き絞る――その一連の動きは、まるで古い教本に描かれた「理想的な姿勢」の挿絵を、そのまま現実に抜き出してきたようだった。
放たれた矢は、音すら置き去りにする。
ごう、と低く空気を割る音がしたかと思うと、少し離れた場所に立っていたヤシの木の幹が、えぐり飛ばされるようにして裂けた。
太い木が、ぐらりと揺れ、そのまま砂地に倒れ込む。
「はっ?」
オットーが目を剥いた。
(……いやいや、待て。今の、ただの基礎技だろ?)
《射法八節》――弓使いなら誰もが習う、構えの基本。
命中精度を上げるための“型”であって、そこに特別な威力は宿らない、はずなのに。
(なんであの速度と威力になるんだよ……!?)
「さてと」
エリーは弓を背負い直し、今度は腰のポーチから一冊の魔導書を取り出した。
ページを開くと、くるりと足を運び、踊り出すようなリズムで詠唱に入る。
「フィログゥル・テリィ・ウェル……《穿炎連鎖》」
言葉に合わせて、彼女の足元に炎の紋が刻まれていく。
そこから伸びた細い火線が、砂浜をかすめて一直線に海へと走った。
火線が海面に触れた瞬間――“突き刺さった”。
炎は槍のように細く鋭く伸び、その一点から周囲の海水を一気に貫く。
次の瞬間、そこだけ水が抜け落ちたかのように巨大な“穴”が生まれ、露出した岩肌が赤く灼けていた。
遅れて、周囲の海水がその空洞へと雪崩れ込む。
触れた瞬間、蒸気爆発のように白い水蒸気が爆ぜ上がり、視界一面が真っ白な霧に包まれた。
波しぶきと熱風が浜辺まで押し寄せ、タープの端がばさりと揺れる。
海は、ぽっかりと空いた焦げ跡を中心に、しばらくぶくぶくと泡立ち続けていた。
「わあ!」
ミラがテーブルに両手をバンッと叩きつけた。
「今のって、ワーウルフ倒した貫通術式だよね!? すごい!!」
あのとき、ようやく詠唱し、仕留めた大技。
それを、エリーはまるで“デザートを一品追加した”程度の気軽さで放ってみせた。
「どう?」
エリーは剣を鞘に収め、魔導書をぱたんと閉じた。
ほんの少しだけ、口元が上がる。
「これでも“役不足”かしら?」
自信とも、挑発ともとれるその言葉に、
ダリウスたちは、返す言葉を見失っていた。
(……さっきまで俺が想定していた“エリー込みの危険な前線”とは、もう前提が違う。あの剣と弓と魔法があれば、いざとなれば“押し切る”か“全員を下げる”かを、むしろエリー側から選べる)




