第57話 戻れない前衛
三十六階層の浜辺に、またサハギンの群れが現れた。
波打ち際を蹴立てて迫ってくる十数体。ぬらぬらと濡れた鱗が陽光を弾き、手にした槍が水滴を飛ばす。塩気を帯びた風の中に、生臭い匂いが混じった。
前衛では、いつものようにオットーが盾を構えて突っ込んでいく。
「あと正面三体だ!」
大盾が怒鳴り声と同時にサハギンを弾き飛ばし、砂煙が上がる。
その背後で、エドガーが魔導書を戦況を読み詠唱をタイミングを図り、ミラが素早く結界を張る。彼女の指先から淡い光の膜が広がり、飛び散る水の弾丸を弾いた。
少し離れた岩の上で、エリーは腕を組んだまま、相変わらず「戦場を観察する目」に徹している。踏み込もうと思えばいつでも踏み込める距離で、しかし決して前には出ない。
(正面三体……ここからは、俺が)
ダリウスは額の汗をぬぐいもせず、サハギンだけを見据えた。
波音も、仲間の声も、視界の端をよぎる動きも、意識から切り捨てる。
砂を蹴る。
足裏から伝わるざり、とした感触が二歩、三歩と続き、気づけばサハギンとの距離は一息で詰められるところまで縮まっていた。
「――《深き森》」
小さく呟いた瞬間、世界の音が一段、遠ざかった。
海のざわめきも、甲高い鳴き声も、すべてが薄い膜越しになり、代わりに目の前のサハギンの動きだけが、異様なほどはっきりと浮かび上がる。
肩がわずかに引かれ、重心が左足から右足へ移る。
胸郭の動き、槍を握る指の強さ――そのすべてが、「次に来る一撃」の形を教えてくる。
(そこだ)
刃を構え直すまでもない。
ダリウスは踏み込みながら、流れるように剣を振り上げた。
「《スラッシュ》」
斜めに走った光の線が、サハギンの胸元を裂き、そのまま深々とえぐり取る。
硬い鱗の感触が手に伝わり、骨を断つ手ごたえが腕に響いた。
次の瞬間、胸郭がぱかりと割れ、鼓動の止まった心臓が、まるで最初から狙われていたかのように、真ん中から綺麗に二つに分かれていく。
返り血が、遅れて頬に飛んだ。
「……っ、はぁ、はぁっ……!」
意識が浮上する。
途端に肺が空気を求めて悲鳴を上げ、ダリウスの呼吸は一気に荒くなった。胸が焼けるように熱く、喉の奥がひゅうひゅうと鳴る。
(……くそ……やっぱり、長くは保たないな)
倒れゆくサハギンから目を離さないまま、ダリウスは荒い息を何とか整えようと、奥歯を噛みしめた。
息を荒げるダリウスの背後で、ぱしゃり、と嫌な水音がした。
「……チッ」
魔導書から顔を上げたエドガーが、海側へ鋭く視線を投げる。
「伏兵です、海から二体!」
雨混じりの波間を裂いて、別動のサハギンがぬうっと姿を現した。
砂浜にぬらりと足を乗せると、二体とも口の端をニタリと吊り上げる。
正面の混戦に釣られた獲物を、横から噛み千切ろうと言わんばかりの笑みだった。
(……やっぱりか。姑息な真似を。階層を登るごとに知力が上がってる)
エドガーは心の中で毒づきながらも、視線の一部は前線に釘付けだった。
前では、まだダリウスが立っている。
(深き森は、さっきのでかなり危ないところまで潜ったはず……ここから先は、間合いと足運びだけで時間を稼ぐつもりか)
「はぁ……オットー! 伏兵を、はぁっ……頼む……!」
振り返ったダリウスの声は、もう余裕の欠片もない。
肩が大きく上下し、剣を握る腕からは力がだだ漏れになっているのが、遠目にもわかった。
その一瞬、オットーは歯を食いしばる。
(本当に行けるのか、ダリウス……? いや――考えるな。信じろ。俺が信じなくて、誰が信じる)
「了解だ!」
大盾を構え直すや否や、オットーは砂浜を蹴って海岸線へと走り出した。
盾と鎧ががちゃんがちゃんと騒がしい音を立てるたび、彼自身の腹も揺れる。
「《伸縮紐》」
ほとんど溜めもなく、エドガーが低く呟く。
次の瞬間、透明な魔力の紐が、ミラとエドガーの腰にするりと巻きついた。
反対側の端は、すぐ背後のヤシの木に絡みついている。
「わっ――」
ミラの身体が、するすると後ろへ引き寄せられた。
軽い浮遊感のあと、二人はヤシの木の根元まで一気に下がる。視界の前には、オットーとダリウスの背中だけが、くっきりと残された。
「すごい! こういう使い方もあるのね!」
ミラは目を輝かせ、結界を張ったままきょろきょろと紐を観察する。
新しい魔法の応用例に出会った子どものような、純粋な興奮がそこにはあった。
「ええ……」
エドガーはといえば、その返事に感情を乗せる余裕はない。
視線の先、砂浜でサハギン二体と対峙するダリウスから、目が離せなかった。
(ダリウス……行けるんですか?)
手の中の魔導書を握る指先に、じわりと汗が滲む。
(もしダメなら、その瞬間にでも引き戻しますよ。……あなたが倒れる前に)
ダリウスは、ぎりぎりのところで足を運んでいた。
一歩踏み込みすぎれば、サハギンの爪が頸動脈を裂く。
一歩退きすぎれば、砂に足を取られ、噛みつきに晒される。
唸り声とともに振るわれる水かきのついた腕が、何度も頬のすぐ横を掠めた。
肌に塩気を含んだ風と、生臭い飛沫が貼りつく。
(ここだ――いや、まだだ)
左のサハギンが突き、右が横薙ぎに払う。
ダリウスは上体だけを捻り、膝を折る。ほんの指一本ぶんの隙間を縫い、斬撃の軌道をずらす。
水音と、心臓の音だけが世界を満たしていく。
しかし――身体は正直だった。
肺が焼けるように熱く、喉は砂を噛んだようにざらつく。
酸素が足りない。視界の端が暗く欠け、思考が一拍、二拍と遅れ始める。
(……最適解だ。今のが、最適解だ)
自分に言い聞かせるように、ダリウスは心の中で繰り返した。
距離を取りすぎない、突っ込みすぎない。かつて幾度も生き残りをもたらした「安全圏」の間合い。
だが、その瞬間――脳裏に別の声が、冷水のように差し込んだ。
『——あなたの歪んだ慎重さ、卑屈な臆病さ、間違った成功体験が、この先の階層では仲間を殺すわ』
(……バカか、俺は)
ひゅっと、胸の底から何かが抜ける感覚がした。
(なぜ、同じ型を繰り返してる。あいつらは、もう先に進んでるんだぞ。
着いていけ。遅れるな。しがみつけ、ダリウス!)
ダリウスは歯を食いしばり、砂を蹴る。
「《深き森》――!」
世界が、また音を失った。
先ほどまでとは違う沈み方だった。
足元の砂のきしみも、潮騒も、サハギンの呼吸すらも、すっと薄紙の向こうへ遠ざかる。
残ったのは、線と点だけの世界。
右のサハギンの重心が、半足ぶん前へ。
胸郭の膨らみと収縮、そのわずかなズレ。
皮膚の下で脈打つ血流が、透けて見えるような錯覚。
(ここだ)
考えるより早く、身体が動いていた。
「《スラッシュ》!」
音のない世界で、銀の弧が一閃する。
サハギンの首筋に細い線が走り、次の瞬間、頭部がするりと胴体から滑り落ちた。
切断面から血が噴き出すのは、ほんの少し遅れてからだった。
まるで時間が、斬撃に追いついてこられなかったかのように。
(……残り一体)
ダリウスは浅く息を吐き、さらに意識を沈めようとする。
(もっと深く――潜れ)
地面を蹴る。残るサハギンの懐へ、再び飛び込もうとした――その時だった。
世界が、ひどく歪んだ。
サハギンとの距離が、遠く、そして近くなる。
一歩踏み出したはずなのに、自分の足がどこにあるのか分からない。
あらゆる線が一度に見えすぎて、どれが“今”なのか分からなくなる。
振り下ろそうとした腕が、ぬるりと溶けて、輪郭を失っていくような奇妙な感覚。
「……っ、なに、だ……これ……」
視界の中で、水平線がぐにゃりと曲がった。
空と海の境界が溶け、サハギンの輪郭も、砂浜の白も、すべてが混ざり合っていく。
遠くで、誰かが息を呑む気配があった。
エリーの青い瞳が、わずかに見開かれる。
その瞳の色が、さっきまでよりもほんの少しだけ深く見えた。
握りしめた拳に、白い指がきゅっと食い込む。
それが怒りなのか、恐怖なのか、あるいは――別の何かなのか。
少なくともこの場の誰にも、ましてやダリウス自身には、知る由もない。
喉の奥から、酸と共にこみ上げるものがあった。
「――――っ、げほっ」
ダリウスは膝から崩れ落ち、その場に手をつくと、堪えきれず胃の中身を吐き出した。
酸味の混じった苦い液体が砂を濡らし、鼻腔を焼く。
「ぜぇ……ぜぇっ……なっ……なんだっ……今の……」
呼吸が咳に変わり、視界が暗転と点滅を繰り返す。
「《伸縮紐》!」
エドガーの声と同時に、透明な魔力の紐が砂浜を走った。
それは倒れかけたダリウスの胴と腰に巻きつき、一気に収縮する。
「っ……!」
ダリウスの身体が砂を削りながら後方へと引き戻され、ミラの足元でどさりと横たわった。
「ダリウス!!」
ミラがしゃがみ込み、その顔を覗き込む。
ダリウスのまぶたは固く閉じられ、息は荒く浅い。さっきの嘔吐のせいで、胸元には砂混じりの汚れが残っていた。
呼びかけにも応えない。
けれど、かすかに上下する胸が、生きていることだけは教えてくれる。
(……やっぱり、無理だったのか!?)
伏兵のサハギン二体を斬り捨てたオットーは、ちらとその光景を見やった。
伸縮紐で回収されたダリウス、必死に支えようとするミラ。
胸の奥に、嫌な引っかかりが生まれる。
(何か……ずれてきたぞ、このパーティ)
だが立ち止まっている暇はない。
波打ち際には、まだ一体サハギンが残っていた。海水を滴らせながら、槍を構え直し、ギロリとこちらを睨んでいる。
オットーは舌打ちをひとつ飲み込むと、大斧を構え直し、砂を跳ね上げて駆け出した。
サハギンとの距離が一足分まで詰まった瞬間、オットーの口元が歪む。
「《阿修羅》」
低く吐き出したその言葉と共に、空気が変わった。
オットーの周囲に、目には見えない圧が立ち上がる。
血流が一気に加速し、鼓動が耳の奥で雷鳴のように反響した。
筋肉という筋肉が軋み、皮膚の下で炎のような熱が渦を巻く。
大斧が、爆発するように振り抜かれる。
斧頭が触れた瞬間、骨と肉と内臓がまとめて引き千切られ、上半身ごと海へ吹き飛ばされる。
水飛沫と血飛沫が混じり合い、紅い花のように夜の海辺に散った。
「っ、は、はぁ……」
一撃を振り抜いたオットーは、その場でぐらりと揺れた。
握った斧の感触は確かにあるのに、自分の腕の太さも重さも、急に遠くなったように感じる。
(しまっ……た……制御が……)
心の中でそう呟いた瞬間、視界の端が白く滲んだ。
喉から噴き出したのは、人のものとは思えない咆哮だった。
「ぶぅぉおおおおおおおおお!」
十秒を超え立っているのか、倒れているのかも分からないくらい、世界がゆっくりと傾いていく。
「……っお、おお……」
喉から洩れた声は、言葉にならない。
膝が砕けたように力を失い、巨体が砂浜に崩れ落ちた。
白目を剥き、口の端から涎を一筋垂らしたまま、オットーは仰向けに動かなくなる。
「オットー!!」
ミラが悲鳴のような声を上げる。
潮の匂いと、血と焼けた魔力の匂いが混じった風が、四人と一人を包み込んだ。
波の音だけが、妙に落ち着き払って寄せては返す。
「……なるほどね」
少し離れた位置からその一連の光景を見ていたエリーは、そっと視線を落とした。
砂に倒れ伏したままのダリウスとオットー。
その傍らで、慌ただしく治療の準備を始めるミラと、額の汗を拭いながら周囲の警戒を続けるエドガー。
エリーは腕を組み、雑音のように押し寄せる波音の中で、しばし黙り込む。
(……限界を踏み越えた。もう“ただの前衛”には戻れないわね)
その青い瞳の奥に宿った感情が、失望か、憂慮か、あるいは――ほんのわずかな期待なのか。
表情は崩れず、誰にも読み取れない。
やがて夜風が血の匂いをさらい、三十六階層の浜辺には、戦闘の終わりを告げる静けさだけが残った。




