第56話 触れない距離
三十四階層の夜は、焚き火の音と、寄せては返す波音が溶け合っていた。
薄雲越しの月明かりと、吊るされたランプの灯り、焚き火の炎が、野営地に三色の光を落としている。濡れた砂と岩場が、ゆらゆらと揺れる影を長く引き伸ばしていた。
じゅうう、と肉の焼ける音が、静かな夜を気持ちよく破る。
脂が弾け、焚き火の上で立ちのぼった煙が、雨に混じりながら香ばしい匂いを一帯に広げた。
「できたぞ」
ダリウスが笑顔で振り返る。
「キタ! キタ!」
ミラはよだれを拭うのも忘れ、椅子の上でぴょんと跳ねた。
魔導書を読んでいたエドガーが「ほう」と立ち上がり、丸くなって居眠りしていたオットーも「んあ?」と目をこすりながら起き上がる。
皿が、即席の木のテーブルに次々と並べられていく。
「ハンバーグ!!」
ミラの目が、ランプの光を反射して星のように輝いた。フォークとナイフを手に、完全に“臨戦態勢”である。
皿の上には彩りの良いサラダと、丸く盛り上がったハンバーグ。
表面にはこんがりとした焼き色がつき、その上からとろりとしたソースが、艶やかな筋を描いていた。ソースから立ちのぼる、わずかに酸味を含んだ香りが、否応なく空腹を刺激する。
「いただきまーす!」
ミラが勢いよくナイフを入れる。
さくりと表面が割れた瞬間——中から、熱でとろとろに溶けたチーズが、ゆっくりとあふれ出した。白と黄色の境目がぐつぐつと泡立ち、肉汁と混じり合って皿に滝のように流れ落ちる。
「……これはまた、暴力的な見た目ですね」
エドガーが喉を鳴らした。
「美味けりゃなんでもいいんだよ」
オットーが、へっへっへと喉の奥で笑う。
「本当に味、わかってるんですか? あなた、九割が“量”で判断してません?」
「バカ野郎」
オットーは自分の腹を、どん、と叩いた。
三段腹がぷるんと揺れる。
「酒と飯に関しては俺はうるさいんだ。この腹が証拠だ」
あまりにも真剣な顔で言うものだから——
「そんな真剣に言わないでくれ、信じてるから!」
ダリウスは腹を抱えて笑い出した。
「ふっふっふ……さすがオットーね。じゃあ、これも食べる?」
ミラが得意げに袋をごそごそと漁り、一粒の丸いものをつまみ出す。
「お?」
「サハギンの目玉か!!」
オットーの目が見開かれた。
「酒のつまみに合うんだ! わかってきたじゃねぇか、ミラ!」
「お酒は、一日二杯までですよ」
エドガーが、釘を刺すようにさらりと言う。
いつものように、バカみたいで、くだらなくて、どうでもいいことで笑い合う――そんな温かくて、愛おしい食事の時間が、焚き火のまわりに広がっていた。
肉を頬張ってむぐむぐ喋るミラ。
それに真顔で突っ込もうとして、結局巻き込まれて笑ってしまうエドガー。
「この腹が証拠だ」と胸を張るオットーに、ダリウスが肩を揺らして笑う。
焚き火の火花がぱちぱちと弾け、そのたびに四人の影が砂の上で揺れた。
――その輪の、少しだけ外側。
エリーだけが、そこに加わらなかった。
彼女は焚き火から少し離れた岩に腰をかけ、干し肉を片手でつまむと、気の抜けた仕草でがりりと齧る。
味わっているようにも見えなければ、空腹を満たそうとしているようにも見えない。ただ「噛む」という行為だけを、義務のように繰り返しているだけだった。
目の前には、闇に溶けかけた海が広がっている。
月の光を受けた波が、ゆらゆらと白い線を引き、寄せては返すたびに、かすかな光の破片が砕けた。
けれど、エリーの視線は、その光景を捉えてはいなかった。
青い瞳は、目の前の海ではなく、もっとずっと遠く――
今ではもうどこにも存在しない場所と、二度と戻らない時間だけを、じっと見つめているようだった。
エドガーは、焚き火の輪からそっと離れた。
砂を踏む足音をできるだけ殺しながら、海辺の岩に腰を掛けているエリーの方へと近づいていく。
干し肉を齧る横顔は、焚き火のオレンジではなく、月の淡い光だけを受けていた。
「今日も一緒に食べないんですか?」
すぐ後ろまで歩み寄り、エドガーはできるだけ柔らかい声で問いかける。
エリーは、振り返らない。
短くも長くもない沈黙。
波の音だけが、二人の間を往復した。
「……」
エリーは視線を海から動かさないまま、喉の奥で何かを押しつぶすように息を吐いた。
エドガーは、それでも微笑みを崩さない。
「ダリウスのご飯は、とても美味しいんですよ。それから、みんなで笑い合って……」
ちらりと焚き火の方を振り返り、少し照れくさそうに続ける。
「……実は、私はこの時間が好きでして」
その言葉にも、エリーは反応を見せない。
ただ、海を見つめる瞳の奥で、細く硬い線が一本、きゅっと引かれたようだった。
「私は嫌い」
ぽつりと落とされた声は、波打ち際に投げ捨てられた石のように、感情の色をほとんど含んでいなかった。
――しっかり、線を引かないと。
心の内で、エリーは自分に言い聞かせる。
踏み込まれる前に、距離を決める。名前を呼ばれる前に、関係に蓋をする。
そうしなければ、また同じところへ戻ってしまうから。
「そうですか……」
エドガーは、軽く肩をすくめた。
唇には穏やかな笑みを保ったまま、少しだけ目元だけが寂しそうに揺れる。
「……すいません。余計なことでしたね」
背を向けかけたその時、エリーの声が鋭く飛んだ。
「あなたがいちばん、困るのよ」
エドガーの足が止まる。
「……私の気持ちに、ずかずか入ってこないで」
ピシャリと打ちつけるような声音。
その強さとは裏腹に、握りしめたエリーの指先は、わずかに震えていた。
――ごめんなさい、エドガー。
――でも私はもう……もうダメなの。
心の中でだけ、言葉がこぼれる。
わざと冷たく、拒む。
エドガーは、少しだけ目を伏せ、それからまた顔を上げた。
「そうですか……」
微笑みは崩さない。
けれど、その笑みは先ほどよりもずっと静かで、どこか遠くに置かれたもののようだった。
「……失礼しました」
それだけ言うと、彼は本当に今度こそ背を向けた。
焚き火の方へと戻っていく背中は、いつもと同じように真っ直ぐで、余計なことは何も言わないままだ。
エリーはその背中を見送ろうとはしない。
ただ、暗い海の向こうを睨みつけるように見つめたまま、小さく吐き捨てた。
「だから嫌なのよ……」
温かい輪の中で、最後まで手を離さなかった夜を思い出してしまう。
頬を伝った一粒の涙が、顎の端からつうっと滑り落ちる。
海から吹き上がった風が、その雫をさらっていく。
月光に溶けたその一滴は、波に紛れて、すぐに見えなくなった。
ダリウスは、焚き火のそばで一人、食器を洗っていた。
木皿にこびりついたソースを布でこそげ落とし、水桶にちゃぽんと沈める。
ジューと肉が焼けていた音はもう消え、今は皿と皿が擦れ合う、かさり――という音だけが、彼の耳に反復して届いていた。
(オットーもエドガーも、新しい力をつけて……確実に、攻撃のパターンは増えた)
さっきの戦闘の光景が、頭の中で再生される。
縫い合わされたウツボの口。
爆ぜる斧。
その隙間を縫うように、炎と糸が踊る。
(じゃあ俺は、なんだ……)
自分の動きだけが、妙に鈍く見える。
今日も前線で息切れを起こし、足がもつれ、エドガーの魔法で後衛に引き戻されたあの瞬間。
(今日も前線で息切れ……エドガーに後衛まで戻された)
桶の中で器がぶつかり合う、鈍い音が胸に刺さる。
ダリウスは、無言のまま皿をすすぎ、布で拭き取りながら、もくもくと考え続けた。
――かしゃ、かしゃ、と、乾いた音が焚き火のはぜる音と混じり合う。
その音がやけに耳についてきたので、ダリウスは眉間に皺を寄せると、突然、自分の頬をぱしんと叩いた。
「……っ」
じん、とした痛みが、頭の中のぐるぐるを一瞬だけ止める。
(いかんいかん。考えすぎるのが、俺の悪い癖だ)
苦笑いを噛み殺しながら、心の中で言い聞かせる。
(もう若くない。若い頃みたいに、全部一人でなんとかしようとするな)
皿を一枚、丁寧に重ねる。
(無理をせず、少しの歩みでいい。わずかでもいいんだ)
次の一枚を拭きながら、焚き火の向こうで笑い合う仲間たちの声に耳を傾ける。
(一歩、一歩……進もう)
そうやって自分に言い聞かせないと、足元が崩れそうで。
賑やかな食卓の笑い声は、変わらず温かく響いている。
だが、その輪のすぐそばで――エリーの孤独な背中と、ダリウスの胸のざらつきが、ほんのわずかに、静かな歪みとなって膨らみはじめていた。




