第55話 即興の連携
三十三階層。
相変わらず空は抜けるように青く、海はエメラルドグリーンに輝いていた。
波は穏やかに白い砂浜を舐め、風は潮の匂いを運んでくる。どこからどう見ても、のんきな観光地のそれだ。
——ただし、前方から歩いてくるサハギン四体と、海中から頭だけを覗かせたオオウツボを除けば。
ぬめった鱗を光らせるサハギンたちが、錆びた槍を握りしめてこちらを睨む。
海の中から顔を出したオオウツボは、丸い目をぎょろりと光らせ、裂けた口をゆっくりと開きかけていた。
全員の身体が、ぴんと張り詰める。
ダリウスが一歩前に出て、剣を構えた。
エドガーは既に魔導書を開き、低く詠唱を紡ぎ始める。
オットーは盾と斧を構えたまま、半歩ずつ位置を変え、敵との距離と角度を測る。
ミラは素早く杖を構え、後衛を包み込むように薄い結界を展開した。
そしてエリーは、一歩だけ下がった位置で彼らの動きを見つめていた。
あくまでも「同行者」。戦線には出ないが、視線だけは一瞬たりとも離さない。
(……ここからは、この子たちと関わり合いが始まる……しっかり線を引かなきゃ)
オオウツボが、ぐわりと口を開いた。
その口の周りで、水が渦を巻き始める。
海面から盛り上がるように水流が集まり、ブレスの予兆として圧力を帯びていくのが、誰の目にもはっきりとわかった。
「ブレス来る! オットー、シールドバッシュ!!」
ダリウスが叫ぶ。
——しかし。
オットーは盾を構えたまま突っ込むのではなく、まるで別のスイッチが入ったかのように、オオウツボへ一直線に走り出した。
結界の内側から、砂を蹴り上げて迫る巨体。
そのまま真正面から、オオウツボの懐——噛み付き一発で死ぬ距離——へと飛び込んでいく。
斧が振りかぶられる。
エリーはわずかに目を細めた。
その瞬間、エドガーの詠唱がぴたりと終わる。
「《魔導糸》」
ぱん、と乾いた音が鳴ったような錯覚があった。
エドガーの開いた魔導書から、細い糸と光る縫い針が数本飛び出す。
針は海風を切り裂き、オオウツボの大口へと正確に飛び込んだ。
次の瞬間には——
オオウツボの裂けた口が、がちん、と音を立てる勢いで閉じられていた。
堅く縫い合わせられた唇の端から、水流がだらしなくこぼれ落ちるだけで、圧力を帯びたブレスはどこにも放てない。
オットーの目が、それを見てすぐに細くなる。
判断は一拍も遅れなかった。
「——じゃあ、こっちだ」
巨体が弾かれたように向きを変え、サハギンの群れへと突っ込む。
短く息を吐いた瞬間、周囲の空気がぴり、と軋んだ。
「《阿修羅・二連》!!」
斧が爆発したかのように加速する。
一撃目。
重く振り下ろされた大斧が、目にも止まらぬ速度でサハギンの首をはね飛ばした。
骨が砕け、鱗が飛び散り、頭部は宙を回転しながら砂浜へ転がる。
間髪入れず、二撃目。
さらに加速した斧が、二体目のサハギンの首元を横から叩きつけるように薙ぎ払った。
爆発的な衝撃に、鱗だらけの首がへし折られ、そのまま胴体から千切れる。
斧が通り過ぎた軌跡の向こうで、二つの影が、まだ状況を理解できていない顔のまま、時間差で砂に崩れ落ちた。
この十数秒、ダリウスの思考はぐしゃぐしゃにかき乱されていた。
ブレスを塞がれたオオウツボ。
阿修羅でサハギンを薙ぎ払ったオットー。
縫い針と糸で魔物の口を“封じた”エドガー。
(……なにが、どうつながって、こうなってる)
一瞬だけ、状況の把握が遅れる。
だが、その「一瞬」でさえ——彼の体は、もう次の行動へと滑り出していた。
「《深き森》」
超集中状態。エリーがそう名付けた、ダリウスだけの“森”
低く呟いた瞬間、世界の輪郭がすっと遠ざかる。
音が、色が、自分の呼吸さえも、どこか水の底から聞こえてくるように遠くなる。
代わりに、敵の体温、筋肉の張り、足場の砂の沈み方……そういった「戦いに必要なもの」だけが、やけにはっきりと浮かび上がった。
砂浜を蹴る。視界が、流れる。
——気付けば、サハギンの背後にいた。
「《スラッシュ》」
剣が、音もなく横一文字に走る。
サハギンの胴体が、まるでそこだけ別の現実に属しているかのように、するりと二つに別れた。
鋭い切り口にはしばらく血が現れず、その“遅れ”が、ダリウスには妙に心地よかった。
遅れて、赤が噴き出す。
胴の上半分がずるりと砂の上に崩れ落ちた。
剣を振り抜いた勢いのまま、ダリウスは腰をひねり、足を踏み換える。
視線の先、まだ状況を掴みかねている別のサハギンが、ぎょろりとこちらを振り向いた。
「——《スラッシュ》」
今度は縦、いや斜めか。振り下ろした剣が、サハギンの首を易々と断ち切る。
刃が抜けきるまで、敵の顔はまだ「自分が死んだこと」を理解していない。
そのまま首だけが、ぽーん、と軽い音を立てて宙を回り、砂浜に転がった。
呆けた表情のまま、目だけが泳いでいる。
(……あとは、オオウツボ——)
視界の端で、まだ巨大な影が蠢いている。
ダリウスは息を整えながら、ちらりとオットーの位置を探った。
(オットーからの撤退指示はまだ来ない……まて、一旦距離を取るか)
その瞬間、頭の奥底から、浴びせられた声が甦る。
『——あなたの歪んだ慎重さ、卑屈な臆病さ、間違った成功体験が、この先の階層では仲間を殺すわ』
エリーの、冷たくも真っ直ぐな声。
(違う……違うだろ)
喉の奥で、何かがきしむ。
(違う!! 俺が仕留めるんだ!!)
ぷつん、と。
糸が切れるような音が、確かにした。
次の瞬間、静まり返っていた世界が一気に押し寄せる。
波の音、鳥の声、自分の荒い呼吸、血の匂い——すべてが一度に戻ってきた。
「——っ、は、はぁっ、はぁっ……!」
足に力が入らない。膝が笑う。
ただ立っているだけで苦しくなるほどの息切れが、胸を容赦なく締めつけた。
(くそ……ここでか……!)
そのとき、視界の端に、太い影が横切る。
オオウツボの尾が、しなる。
巨大な鞭のような尾が、息も絶え絶えのダリウスめがけて薙ぎ払われようとしていた。
(しまった……! 間に合うか、シールドバッシュで——)
オットーを呼ぼうとした、その瞬間。
「ガルゥ……ジィン——《伸縮紐》!」
背後から聞き慣れた詠唱と、エドガーの声が重なった。
「!?」
次の瞬間、何かが腰に巻き付く感触が走る。
見ると、巨大なゴム紐のような魔力の帯がダリウスの体をぐるりと絡め取っていた。
ぐん、と世界が引き寄せられる。
「うおっ——!」
抵抗する間もなく、身体が後ろへと引き倒されるように飛ぶ。
砂を擦る感触と共に、視界が一気に遠ざかり、オオウツボの尾がさっきまで自分のいた場所を薙ぎ払った。
空振りした尾が、砂浜をえぐる。
ダリウスの体は、その少し後方——後衛の足元まで、一気に引き戻されていた。
砂まみれになりながら起き上がったダリウスの視界の先で、すでに別の影が動いている。
オオウツボの首元、その死角へと滑り込む巨体。
「よぅ、久しぶりだなぁ」
オットーの笑い声は、どこか懐かしそうで——しかし、底冷えするような気配を纏っていた。
「《阿修羅》」
低く呟かれた瞬間、周囲の空気が震える。
オットーの全身に、黒い霧のような“何か”がまとわりついた。
血走った目がぐわりと見開かれ、握られた斧が、常識を嘲笑う速度で振り抜かれる。
ドゴォッ——!
鈍い破砕音が、砂浜に響いた。
オオウツボの胴体が、まるで紙細工か何かのように、途中からごっそりと引きちぎられていた。
断面から、どろりとした血と臓物が海辺へと流れ出す。
巨体が、ゆっくりと崩れ落ちる。
オットーが砂浜にどすんと着地した、その刹那だった。
「……っっぐあぁぁぁっ!」
腰の奥で、嫌な音がした気がした。
次の瞬間、稲妻じみた激痛が背骨を駆け上がり、オットーの顔が一気にゆがむ。
「いってぇぇぇぇ……っ、こ、腰が……!」
巨体ががくりと折れ、片膝を砂に突く。
「オットー!!」
ミラが反射的に叫び、駆け出そうとする——その肩を、すっと細い手がつかんだ。
「ダメよ!」
エリーの声は、いつもの気怠さの欠片もない、鋭く澄んだ声だった。
ミラが振り返ると、真剣そのものの青い瞳が、まっすぐに自分を射抜いている。
「あなたはもう、前に出ちゃダメなの」
エリーはきっぱりと言い切った。
「あなたが傷つけば——その瞬間、誰かが死ぬと思いなさい」
喉元まで出かけた「でも」が、ミラの口の中で凍りつく。
正論だった。
悔しいほど、痛いくらいに。
ミラは両手をぎゅっと握りしめ、唇を噛んだ。
拳を震わせながらも、その場から一歩を踏み出すことはできない。
「エドガー」
短く名前を呼ぶと同時に、エリーは視線だけを後衛へ送る。
「わかってます」
エドガーはすでに、魔導書に手を置いていた。
短く息を吸い、滑らかに詠唱に入る。
「ガルゥ……ジィン——《伸縮紐》!」
今度はオットーの腰に、先ほどダリウスを引き戻したのと同じ、半透明の紐が巻きつく。
「おおっ!? ちょ、ちょっと待——」
巨体がぐい、と引き倒され、そのまま砂の上を滑ってくる。
腰を押さえたまま情けない悲鳴を上げつつ、オットーは後衛の足元まで無事に“回収”された。
ミラはすぐさま駆け寄り、治癒の光をオットーの腰へと流し込む。
淡い光が滲み、オットーの苦悶の表情が、ほんの少しだけ和らいだ。
「すまん……情けねぇな、ぎっくり腰なんざ」
「いいから黙ってて。動いたら治りが遅くなるから!」
ミラは涙目になりながらも、手を止めない。
その横で、エドガーはマナポーションの瓶を傾けていた。
喉を上下させながら飲み干し、息を吐く。
「……ふぅ。だいぶ魔力を持っていかれましたね、しかし——」
視線を横にずらすと、そこには砂に手をつき、肩を上下させているダリウスの姿があった。
悔しさと不甲斐なさとがない交ぜになった表情で、荒い息を繰り返している。
(まだだ……まだ、十秒も保てない……)
歯を食いしばるダリウスを、エリーはじっと見つめていた。
(……エドガーに簡易術式を組み込ませたのは正解ね。再現率百なら、威力も十分。老眼でも発動は速い。
オットーも……想像以上に《阿修羅》を“扱えている”。呪いの制限が、いい方向に働いてるわ)
そこまでは、エリーの予想通りだった。
いや——一つだけ、大きく外れたものがある。
(でも……いちばん驚いたのは、そこじゃない)
本当はもっと連携が崩れると思っていた。
それぞれに別メニューの特訓を課し、型を壊した直後。
戦場では噛み合わず、どこかで自分が介入しなければならない、と。
(状況の変化に対する瞬間的な判断力。即興で戦術を組み替える柔らかさ。
……長年の経験がそうさせるのかしら。それとも——)
視線を、ダリウス、オットー、エドガー、そしてミラへと順に滑らせる。
(お互いを信頼し過ぎている、なんて言ったけれど……その“過ぎた信頼”ですら、今の彼らの力になっている)
砂浜を撫でる潮風が、青い髪を揺らした。
(……これなら、いける)
小さく、誰にも聞こえない声で呟く。
三十三階層での旅路は——
こうして、驚くほど順調すぎるほどの滑り出しを見せたのだった。




