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【完結済】息切れ・痛風・老眼おっさんパーティ、“老齢の塔”に挑む 旧:塔の頂きへ  作者: けんぽう。


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第53話 最初の一口


 エリーの自宅は、相変わらず「生活魔法が敗北したあと」のような有様だった。


 ソファには読みかけの魔導書と丸めた服が積み上がり、床には用途不明の魔道具と空になったカップが散乱している。

 キッチンのシンクには、いつから放置されているのかわからない皿と鍋が山になり、怪しげな匂いがほんのり立ち上っていた。


 そのシンクの前で——。


「……ふぅ。やれやれ、ですが、多少はマシになりましたかね」


 ファンシーなくまさんエプロンを身に着けた中年魔法使いが、真剣な顔で皿を洗っていた。

 胸元には、にっこり笑うクマの刺繍。フリルまでついている。

 似合うか似合わないかで言えば、圧倒的に「似合わない」側だったが、本人は至って真面目だ。


 エドガーは、泡まみれの手をエプロンで拭いながら、ちらりと窓の外に目を向ける。


「しかし……遅いですねぇ」


 ため息をひとつ落とした、その時——。


 ガチャリ、とドアの鍵が回る音がした。


「今戻ったわ。始めるわよ」


 扉が開き、エリーが入ってくる。

 青い髪をかすかに乱し、少しだけ疲れの見える顔だったが——次の瞬間、その表情が固まった。


 視線の先には、くまさんエプロンのエドガー。

 泡をすすいだ皿を、律儀に水切りかごへ並べている。


「……」


 エリーの脳内で、何かが数秒遅れで爆発した。


「ちょっ、ちょ、ちょっと!!! それ、私のエプロン!! なんで!!」


 いつもの無表情気味な仮面が粉々に砕け散り、素の叫び声が部屋に響き渡る。


 エドガーは、エプロンの裾をつまみ、まるで高級品を鑑定するかのように真面目な顔で見つめた。


「いえ、臭いも酷かったので、せめてシンクだけでもと思いまして。……しかし、このクマの刺繍、なかなかの仕事ですね。糸の縫い取りが非常に繊細で——」


「やめてぇーーー!!」


 エリーは本気で顔を赤くしながら、エプロンめがけて飛びかかる。


「言わないでね!! 絶対に!! 今のなかったことにして!!」


「なぜですか? 生地も良いですし、私も欲しいくらいですけれど」


「欲しがらないで!!」


 バタバタとした攻防の末、エリーはどうにかエプロンをもぎ取った。

 くるくると丸めて背中に隠し、扉の方へとすばやく放り投げる。


 ——ばさっ。


 ファンシーなくまさんは、無残にも部屋の隅に叩きつけられた。



 数分後。


 エリーはようやく、くまさんエプロン騒動から立ち直ったらしい。

 ソファに腰を下ろし、こほんとわざとらしく咳払いをしてみせる。


「……じゃ、気を取り直して」


 その声に、エドガーも表情を引き締めた。

 さっきまでシンクで皿を洗っていた男とは思えないほど、真面目な魔法使いの顔だ。


「魔導書の構成を見直せ、ってところですかね?」


 淡々とした言葉だが、その目は期待と高揚で静かに光っている。

 エリーは指を一本立てると、パチンと軽快な音を立てて鳴らした。


「さすが。話が早いわね」


 エドガーは、少しだけ肩を落としてため息をついた。


「ですが、原書がここには無い以上、やれることも限られます。

 さすがに今から塔を降りて取りに戻るのは……現実的ではないでしょう」


 常識的な判断だった。

 ——常識的な、という点を除けば。


 エリーは、そこでふっと口角を上げる。


「私を誰だと思っているの?」


 胸をそらし、どこかいたずらっぽく、どこか誇らしげに。

 そのひと言に、エドガーの瞳が大きく見開かれた。


「……まさか!?」


 エリーは立ち上がり、部屋の隅へと歩いていく。

 乱雑に積まれた本や箱の奥——そこに、重そうな鉄の金庫がひっそりと置かれていた。


 カチリ、カチリ、と手慣れた動きで錠前を外していく。

 最後のロックが外れ、蓋が静かに開いた。


 中には、黒ずんだ革表紙の分厚い本が、整然と並んでいた。

 一本一本が、魔力を帯びた鉱石のように、重い気配を放っている。


 エドガーは、その光景を目にした瞬間、喉の奥がひくりと鳴った。


(……原書、だ)


 思わず唾を飲み込む。

 視界の端がじわりと熱を帯びるほどの興奮が、全身を駆け巡った。


「原書を……個人が所有している、だと……?」


 今度は、指先が震えた。


 魔術師たちが半生をかけて探し求める「始まりの本」。

 王宮の最奥や、神殿の禁書庫に封じられているはずのそれが——無造作ではないにせよ、ひとりのエルフの部屋の金庫に収まっている。


「ふふん」


 エリーは、ひときわ厚みのある一冊を抜き出し、表紙を撫でるようにしてから——

 その面表紙を上に向け、両手で大事そうにエドガーへ差し出した。


「どうぞ。特別よ」


 エドガーは、恐る恐るその本を受け取る。

 革の感触、重み、紙の古びた匂い——すべてが、彼の知るどの写本とも違っていた。


「し、しかも……こっ、これは……!」


 息が荒くなる。

 胸の奥で鼓動が早まり、全身の血が指先に集まってくるような感覚。


「失われた魔導書……! 文献でしか存在が確認されていないはずの……!」


 エリーは真剣な目で彼を見つめ、そのままニヤリと口元だけで笑った。


「そうよ。原書のタイトルは——」


 少しだけ間を置き、もったいぶるように言葉を落とす。


「『楽しいお裁縫・全編』」


「…………ふはぁあ!」


 思わず、歓喜の声が漏れる。


 しかし次の瞬間には、彼はもう腰から虫眼鏡を抜き取っていた。

 癖になった所作は、思考よりも先に動く。


「しかし……この魔法を一体……針と糸と布で、どのような魔術構造を——いや、そんなことを言っている場合ではありませんね!」


 虫眼鏡を構え、原書の文字を追う。

 古いインクのかすれ、筆圧のムラ、そのひとつひとつに目を輝かせながら、エドガーは息を呑んだ。


「さっそく取り掛かりましょう! 構造を分解するところですかね、いや構文の読解か!」


 その横顔は、すでに戦場ではなく「研究室」のそれだった。


 エリーは、そんなエドガーの熱に満ちた横顔を、どこか満足げに見つめると——軽くウィンクしてみせた。


「ふふっ。素直な子は、嫌いじゃないわよ」



 そのころ——。


 三十二階層、水上都市の一角にあるサハギンの料理屋は、今夜も大盛況だった。


 水音と笑い声が混じり合う店内。

 串焼きの匂いとスパイスの香りが渦を巻き、魚の脂が焼けるじゅうじゅうという音が、食欲を容赦なく刺激してくる。


 そんな喧噪の真ん中、ミラは一人テーブルに座っていた。


 目の前の皿には——堂々たる一品が鎮座している。


 こんがりと焼かれた皮は、ところどころ気持ちいい焦げ目がつき、ニンニクとハーブオイルの照りでつやつやと光っていた。

 腹はぱっくりと割られ、その中には、きゅっと固めに炊かれたピラフがぎゅうぎゅうに詰まっている。

 炒めた玉ねぎの甘さと、バターの香り、刻んだ香草の緑——ひとさじすくえば、湯気と一緒に胃袋を直撃する香りが立ち上がった。


 ——完璧に「美味そうな料理」の条件は満たしている。


 問題は、その形だった。


 皿の上のそれは、どう見ても。


「……ゴブリンの、丸焼き、なんだよねぇ……」


 顔が、ある。

 しかも、こっちを向いている。

 歯を見せて笑っているようにすら見える。


 今にも「コンニチハ」と言い出しそうな、微妙に愛嬌すらある顔だった。


 ミラは、じっとその顔を見つめた。


「こ……こんにちは」


 思わず挨拶してしまう自分が情けない。


 喉がひくひくと震える。

 胃がひやりと縮こまり、視界の端で、さっき見たサハギンウェイターの姿がよぎった。


(……無理じゃない? やっぱり、無理じゃない?)


 そのとき、脳内にあの時の声が蘇る。


——「いや、まず初心者は耳だ。カリカリしてて香ばしい」


 オットーの、やけに得意げな講釈だ。


(み……耳よ……まずは耳……!)


 ミラは深呼吸をひとつ。

 震える指でナイフを取り、ゴブリンの耳へ刃を添える。


 ——ざくり。


 意外と、あっさり切れた。


 皿の縁にコロンと転がった耳は、こんがりと揚げ焼きにされたように、表面がカリカリとしている。

 そこにニンニクとハーブの油がまとわりつき、照りと香りを増幅させていた。


 ミラはごくりと唾を飲み込む。


「……行くわよ、ミラ」


 自分に言い聞かせるように呟き、耳をそっとつまんで口元へ運ぶ。


 意を決して——ぱくり。


 瞬間、鼻腔を抜けたのは、強すぎない程度に効いた香草の香りだった。

 バジルとタイム、それにレモンピールの爽やかさが、油の重さをすっと中和する。


 一度噛めば、表面は「カリッ」と小気味よく崩れ、その直後、内側の肉が「ぷに」と弾力を主張してくる。

 噛みしめるたびに、じゅわりと熱い肉汁が染み出し、ニンニクとハーブのオイルを巻き込んで舌の上を暴れ回った。


 喉の奥に落ちていく直前、レモンの果汁がふっと立ち上がり、後味をすっきりと締める。


「…………っっ!!」


 ミラの体に、びりっと電流が走った。


 背筋がぞくりと震え、握ったフォークに力がこもる。

 視界の端で、ゴブリンの「顔」が再びこちらを向いたような気がしたが——今度は怖くなかった。


「こっ、これは……!」


 よだれが、つうっと口角からこぼれそうになる。


「行けるわ!!」


 思わず椅子から半分立ち上がり、フォークを握り直す。


 耳に続いて頬肉、腕、腹のピラフ——

 次々とナイフを入れ、フォークですくい、躊躇なく口へと運んでいく。


 香草とニンニク、肉汁とレモン。

 異様な見た目と、圧倒的な「美味しさ」のギャップが、頭の中の何かを決定的にぶち壊していった。


(……そっか。食べるって、こういうことなんだ)


 敵であり、素材であり、命であるものを、丸ごと受け止める。

 その事実が、ようやくミラの中で、言葉ではなく感覚として結びついた。


 気づけば皿の上のゴブリンは、ほとんど骨だけになっていた。


 ミラはフォークを置き、息をひとつ吐く。


「……ふぅ。オットーの言うとおり、耳からで正解だったかも」


 ぽつりと呟き、ちょっとだけ誇らしげに胸を張る。


「あっおかわりお願いします。」


 こうして——。


 ダリウスが暗闇の中で「深き森」のさらに奥を目指し、

 オットーが呪い付きの《阿修羅》と格闘し、

 エドガーが失われた原書とにらめっこしている、その裏側で。


 特訓組四人の中で、一番乗りで「新しい扉」を開けたのは。


 誰でもない——ミラだった。


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