第51話 一度、崩そう
翌朝。
巨大な湖は、昇りきった太陽の光を受けて、鏡のようにきらきらと輝いていた。
穏やかな波が岸辺へ寄せては返し、そのたび光の粒が弾ける。どこかで水鳥が鳴き、涼しい風が草を揺らした。
湖畔の少し開けた場所に、四人と一人の影が並ぶ。
「今日から、あなた達を鍛えるわ」
エリーは湖を背にして腕を組み、まっすぐ彼らを見据えた。
朝日を受けた青い髪は、いつもよりいっそう鮮やかに見える。
「ミラは?」
ダリウスが、不思議そうに尋ねた。
その問いに、エリーはほんの一瞬だけ目を伏せる。
すぐに顔を上げた時には、いつもの無愛想な表情に戻っていたが、その奥にかすかな陰りがよぎった。
「必要ないわ」
ピシャリとした口調で言い切る。
「あの子に、これ以上頼らないで」
その言葉の端に、わずかな悲しさが滲んでいた。
「……そうだな」
ダリウスは短く返すまでに、少しだけ間を置いた。
何かを噛みしめるように目を伏せ、それから真剣な眼差しでうなずく。
「で、私たちは何を?」
エドガーが顎をさすりながら、様子をうかがうように問う。
「ここでは言えないわ」
エリーは腕を組み直し、順番に三人の顔を見渡した。
「それぞれ別に鍛える。個別に課題を渡すから」
「ちょっと待て」
オットーが苛立ったように口を挟む。
腕を組んだまま、指先で肘をトントンと叩き続けている。
「お互いの新しい技や成長したとこが見えねぇと、連携が崩れるだろうが」
エリーはその指先のリズムごと、視線で打ち止めた。
「それも狙いよ」
鋭い眼差しを真っ向からぶつける。
「他の仲間が何をするのかわからない状態で戦う。その中でも、状況を見て柔軟に連携できるようになってもらう」
そこで一拍置き、全員を見渡す。
「私はね、一旦あなた達の“型”を壊した方がいいと思ってるの」
「ちょっと待てっての」
オットーは苛立ちを隠さず眉をひそめた。
「わざわざ今ある連携を、完全に捨てることはねぇだろ。ここまでそれで生きてきたんだ」
「……ダリウスは、どう思いますか?」
エドガーがゆっくりと問いを投げる。
ダリウスはすぐには答えなかった。
過去の戦い、失敗、仲間の傷——それらを一つひとつ思い返すように目を閉じ、しばし沈黙する。
やがて、静かに目を開いた。
「…………一度、崩そう」
言葉を選ぶように、ゆっくりと。
「俺たちの連携を」
「……ちっ」
オットーは舌打ちし、視線をそらす。
「ダリウスが言うならしょうがねぇか……。わかったよ」
「話が早くて助かるわ」
エリーは小さく頷き、懐から数枚の紙片を取り出した。
そこには、それぞれ違う場所を示す簡単な地図と時刻が書かれている。
「これが待ち合わせ場所。全員バラバラ」
一枚ずつ配り終えると、紙を持つ手を軽く叩いた。
「じゃあ、私が指定した場所で待機していて頂戴。そこで“課題”を渡すわ」
湖からの風が、四人の外套とエリーの青い髪を同時に揺らした。
それぞれの紙片には、まったく違う方向が示されている。
四人はしばらく顔を見合わせ——そして、ばらばらの方角へと歩き出した。
共に戦うために、一度、バラバラになるために。
*
巨大湖の北側は、さっきまでの喧噪が嘘のように静かだった。
水上の街から伸びる桟橋が途切れた先、崖の割れ目のようにぽっかりと口をあけた洞窟がある。中からは、ひんやりとした空気がゆっくりと流れ出てきていた。
ダリウスは、その入口の前に立っていた。足元では、ぽちゃん、と水滴の音が響く。
奥は、もう何も見えない。光も、色も、上下の感覚さえ怪しくなりそうな、真っ黒な空間が口を開けている。
「あなた、《深き森》に入れるのよね?」
静寂を破ったのはエリーの声だった。
彼女はダリウスの正面に立ち、青い瞳でじっと覗き込んでくる。
ダリウスはぽり、と頬をかき、少し首を傾げた。
「深き森……? 超集中のことか?」
エリーは、盛大なため息をついた。
「……は? 知らないでやってたの?」
「ああ」
ダリウスはあっけらかんと答える。
「ここで死にかけた時に、できるようになった。それからは、なんとなく使ってる」
エリーは視線を洞窟の奥へ流し、それからまたダリウスに戻した。
顎に指を当て、何かを確かめるように尋ねる。
「塔に入ってから?」
「そうだな」
「成功確率は?」
「ほぼ百パーセントだ」
事務的に告げるダリウスの声に、エリーの指先がぴくりと止まる。
(天賦の才ね……。なぜその才能を、そこで止めておくのよ)
驚きと呆れを、なんとか表情の裏側に押し込める。
「……あなた、今まで本当に“長所”を伸ばさなかったのは罪よ」
その声音には、先ほどよりも冷たさが混じっていた。
「昔、何があったかは知らないし、知りたいとも思わない」
ダリウスの目がわずかに揺れる。
「ただ——あなたの歪んだ慎重さ、卑屈な臆病さ、間違った成功体験が、この先の階層では“仲間を殺す”わ」
胸の奥を、ぐさりと刺す言葉だった。
ダリウスは何かを言い返そうとして、唇を開く。が、声にはならない。
(……確かに、オットーの呪い、阿修羅。あれ以来、俺は慎重になった。でも……それが、悪いのか?)
喉の奥で、反論とも戸惑いともつかないものが渦を巻く。
エリーは一度だけ目を閉じ、感情を整えてから続けた。
「……深き森には“深度”がある。それは、なんとなくわかるわね?」
「ああ。だんだん深く入れるようになってきてると思う」
ダリウスは真剣にうなずく。
洞窟の奥から、ぽちゃん、と水滴が落ちる音が響いた。
暗闇が、こちらをじっと見ているように感じる。
「でも、あなた——まだ“意識”があるでしょう?」
「当たり前だろう?」
ダリウスは眉をひそめる。
「意識がなければ、動けない」
「違うわ」
エリーは静かに首を振る。
「身体も意識も、そもそも“無い”の」
「……は?」
意味がわからない、という顔をするダリウスを無視して、エリーは淡々と続ける。
「無いのよ。そこまで達すれば、最低でも十分は《深き森》を継続できる」
ダリウスの喉が、ごくりと鳴った。
「十分……どうすればいい?」
問いは、短く。それでも重い。
エリーは振り返り、洞窟の奥——光の届かない真っ暗な闇を指し示した。
「洞窟の奥の暗闇で、“座ってるだけ”でいい」
「は?」
「ご飯以外の時間は、そこに座るだけ」
当たり前のことを言うように、さらりと言い切る。
「以上よ。——じゃ、頑張って」
青い髪が、くるりと振り向きざまにふわりと揺れた。
エリーはそれ以上何も言わず、スタスタと洞窟を背に歩き出す。
足音が遠ざかり、やがて湖のざわめきと水滴の音だけになる。
「……まあ」
ダリウスは大きく息を吐き、肩の力を抜いた。
「とりあえず、やってみるか」
そう呟き、暗闇の中へ一歩足を踏み入れた。
光のない“森”へ、自分の身体と意識を手放すために。




