5話 巨人の城壁
扉の外の陽は傾き、酒場の中だけが薄暗い光に沈んでいた。
ダリウスたちが去ったあと——
オットーは独り、黙々と酒を煽り続けていた。
カウンターに置かれた酒瓶はすでに半分を切り、
指はかすかに震え続けている。
そこへ、酔いで赤くなった中年男がふらふらと近寄ってきた。
「……ちょっといいかい?」
濁った目で、しかしどこか物言いたげに。
オットーは俯いたまま低く返す。
「あぁ」
中年男は、一度唇を湿らせるように息を吸い——
本当に勇気を振り絞るように言った。
「……俺も、冒険者やってたんだ」
その一言に、オットーははっと顔を上げる。
その目だけは、酒に曇りながらも輝く何かを宿す。
「本当か!? どこのギルドだ!?」
中年男は寂しげに笑いながら答える。
「……オルテガだ」
オットーは少し考え、腕を組み、左上を見やった。
「オルテガ……すまん、聞いたことがないな」
「そりゃそうさ」
中年男は乾いた笑いを漏らした。
酒よりも苦味の強い笑いだった。
「あんたらと違って、こっちは弱小ギルド。
その日の飯を食うのがやっと……そんな毎日だった」
オットーは相手の人生を想像するように、しみじみと呟く。
「そうか……苦労したな」
「あぁ」
中年男の声が少しだけ強くなる。
酔いではなく、過去を語る熱が戻ってきていた。
「腐りかけてた。
才能もねぇし、金もねぇし、仲間も死んじまって……
そんなときだ」
彼はカウンターを軽く指で叩きながら続ける。
「俺と同じ歳で……未踏破ダンジョンを制覇した男がいた」
オットーの視線が下へ落ちる。
「……」
「胸が躍ったよ」
中年男の声は、いつのまにか力を取り戻していた。
「その後も、そいつはいくつも偉業を成し遂げて……
腐りかけてた俺に、勇気をくれた。
生きてりゃ、まだやれるって……教えてくれた」
オットーは唇を固く結び、震える指で酒を握りしめる。
「……」
中年男の声は誇らしげで、どこか眩しい響きを帯びていた。
「巨人の城壁と言われたその男は……
誰が何と言おうと、今でも俺の中の英雄だ」
オットーは、ゆっくりと目を閉じた。
何かを耐えるように、息を押し殺す。
「……」
中年男は銀貨を一枚カウンターへ置くと、
深く頭を下げて言った。
「じゃあな。ここは奢らせてくれ——巨人の城壁」
足取りはふらついている。
だが、その背筋だけは誇らしく伸びていた。
扉が閉じると、酒場は再び静かになる。
オットーは震える手で杯を取り、
一口だけ酒を飲んだ。
そして、誰に聞かせるでもなく、静かに呟いた。
「……俺はもう……そんなんじゃねぇんだ……」
けれどその声には、微かに滲むものがあった。
酒のせいでも、悲しみだけでもない、
忘れかけていた“何か”の揺らぎだった。
中年男が去り、扉の閉まる音が酒場に落ちた。
*
オットーはふらつきながら荒野の町の大通りを歩いていた。
もう酒を飲む気も起きず、頭の奥で誰かの言葉が反響している。
——「巨人の城壁と言われたその男は、今でも俺の中の英雄だ」
あの声が、耳の奥に焼きついて離れなかった。
オットーは口の端で苦笑し、空を見上げた。
夕陽は低く沈みかけ、馬車の車輪が並ぶ街路を赤く照らしている。
その時だった。
——ガチン。
前を走っていた馬車の車輪が、小石を弾いた。
石は放物線を描き、別の馬車の馬の尻に当たる。
「ヒヒィンッ!!」
馬が悲鳴を上げ、暴れ出した。
手綱を引く御者の叫びもむなしく、車体が横に滑る。
その暴れ馬が、すぐ隣の馬車に衝突した。
「ちょ、やめろっ!」
「ひぃっ!」
混乱が広がり、三台の馬車が一斉に暴走を始めた。
金属の擦れる音、木の軋む音、土煙。
そしてその先——
路地の先の広場で、子どもたちが十人ほど遊んでいた。
追いかけっこの笑い声が、轟音に飲み込まれる。
オットーの心臓が跳ねた。
頭より先に、身体が動いていた。
「なっ——!?」
気づけば、彼は馬車の正面に走り出していた。
地面を蹴るたび、酒で鈍っていた脚が軋む。
肺が焼け、視界が揺れる。
それでも止まらない。
風が耳を裂く。
土煙の中、三台の馬車が迫ってくる。
御者たちの悲鳴、子どもたちの泣き声。
——あの日、守れなかった仲間たちの顔が浮かんだ。
——それでも盾は、前に立つ者だろう。
オットーは両足を踏み締め、腰を落とす。
巨体がどっしりと地に根を下ろす。
「シールドは身体の技……!」
低く、呟くように言葉を刻む。
手は空。盾はない。
だが、その両腕がわずかに光を帯びた。
筋肉の軋む音が空気を裂き、周囲の砂が巻き上がる。
「——シールド・バッシュ!!!」
轟音。
オットーの両腕の前に、光の壁が展開した。
それは金属でも魔法陣でもない、
長年の戦いで身体に刻まれた“防御の軌跡”そのものだった。
暴走した馬車の一台目が突っ込み、轟く音を立てて弾き飛ばされた。
二台目、三台目も、壁にぶつかって次々に止まる。
子どもたちはその背後で、目を丸くして立ち尽くしていた。
光の壁はゆっくりと消えていく。
オットーの腕は震え、膝が土に沈む。
荒い息を吐きながら、彼は笑った。
「……盾は、まだ……割れちゃいねぇ……」
夕陽が完全に沈み、
空は紫色に染まっていく。
子どもたちの泣き声が次第に笑い声に変わる頃、
“巨人の城壁”は、再びその名を取り戻していた。
*
——《シールドバッシュ》。
それは、盾職が最初に覚える最も基本の技だった。
敵の攻撃を受け流し、体勢を崩し、味方を守るための初歩の防御術。
範囲を広げれば薄く、範囲を狭めれば分厚くなる。
ただそれだけの、誰もが数日で習得し、次のスキルへ進む通過点のような技。
だが、オットーは違った。
誰よりも頑固に、その技だけを鍛え続けた。
理由は、説明できない。
根拠のない直感——
「この技には、まだ先がある」と信じたのだ。
仲間たちは笑った。
「あいつはおかしい」「セオリーじゃない」「盾職は多様性が命だ」
そんな言葉を何度も浴びた。
だがオットーは聞かず、毎日、同じ構え、同じ衝撃、同じ反動を繰り返した。
五年が経った。
その頃には、盾を構えるだけで空気がわずかに震えるようになっていた。
彼の“シールドバッシュ”は、通常よりもわずかに分厚く、
押し返す衝撃は、まるで岩壁のように重かった。
冒険者たちは次第に距離を置いた。
「あいつ、何かおかしい」「気が狂っている」
笑いはやがて、恐れと侮りが混じった視線に変わっていった。
十年が経った。
オットーの“シールドバッシュ”は、もはや技の域を超えていた。
それは一人で数十人を守る壁となり、
彼が立つ場所は、まるで要塞の一部のように見えた。
仲間を守る時、彼の前には常に光の盾が展開し、
火炎も雷撃も、触れる前に弾かれた。
誰かが言った。
「……あれはもう人間の盾じゃない。城壁だ」
そして、誰かがそれを呼び名に変えた。
——「巨人の城壁」
*
「大丈夫か!?」
オットーは膝をつきながら声を張り上げた。
耳鳴りで自分の声すら遠くに感じる。
腕が痺れ、腰には鈍い痛み。
だが、それでも立ち上がった。
子どもたちがゆっくり顔を上げる。
恐怖にこわばっていた瞳が、少しずつ変わっていく。
不安から驚きへ、驚きから、憧れへ。
「すごい!」
「かっこいい!」
「ほんとに止まった!」
「壁みたい!」
「おじさん強い!」
「助かった!」
その細い声が幾重にも重なり、風に乗って震える。
そして、その中の一人が呟いた。
——「巨人の城壁だ!」
その言葉が、まるで鐘の音のようにオットーの胸に響いた。
オットーは、自分の手を見下ろした。
皮膚は赤く腫れ、震えている。
腰は痛い。息も荒い。
だが——胸の奥に、懐かしい熱が灯っていた。
あの頃、仲間を守るために立っていた時と同じ熱。
守れたという確信と、生きている実感。
彼は思わず笑った。
歯の間から漏れる息は、夕暮れの風に溶けていく。
「……まったく、年甲斐もねぇな」
だがその目は、かつての“巨人の城壁”のものだった。
赤く染まる夕陽が、彼の背を照らす。
子どもたちはまだ彼を見上げていた。
その視線に照らされるように、オットーの肩がわずかに震える。
かつて守るために生まれた盾が、再び息を吹き返していた。
夕陽は沈みかけ、空の端が赤く燃えていた。
街道を吹き抜ける風は冷たいのに——
オットーの身体は汗でびっしょりだった。
三段腹を揺らし、髪を乱し、
肩で息をしながら、彼は必死に走っていた。
「まだ……間に合うか!?
街道を出たところか……!?」
声は自分でも驚くほど荒く、震えていた。
だがその震えは酒のせいではない。
「待ってくれ! ダリウス!!」
胸の奥で別の声が響く。
(間に合うよな……間に合うはずだ……)
ふと、遠くにほのかなランプの灯りが見えた。
それは、仲間の灯りだ。
「待ってくれ!!」
その瞬間、小石に足を取られ——
ドサッ。
「ぐっ……!」
膝をつき、手のひらが土をえぐる。
痛風が走り、足首に激痛が広がった。
だが、彼は諦めない。
泥だらけになりながら、地面を這った。
(……醜くてもいい)
(……這いつくばってでも……)
地の匂い。泥の嫌な冷たさ。
一歩、一歩、腕で身体を押し出すように進む。
(もう一度……やりなおすんだ……)
しばらくして、ついにオットーは立ち上がった。
痛風が走る足を引きずり、片足で踏ん張りながら、
それでも街道を進む。
息は荒く、服は泥まみれ。
それでも、声を張り上げた。
「ダリウス!! エドガー!!」
振り返った三人の目が、驚きで見開かれる。
「オットー……」
ダリウスの声には、驚きと、微かな喜びが混じっていた。
オットーは肩で息をしながら、それでもまっすぐに言った。
「……酒がないと……手が震える……
それでも、いいか?」
ダリウスはほんの一瞬だけ沈黙して、
そして力強く頷いた。
「——生きて帰るなら」
その答えが、オットーの胸の奥に火を灯した。
「あと……腹も出てる……痛風も、腰痛も……ある」
エドガーはやれやれと首を振る。
「まずは生活習慣を見直しましょう……」
オットーは泥だらけの顔で笑い、叫んだ。
「俺も! 俺も行ってもいいか!!」
ミラは満面の笑みで、力いっぱい言う。
「もちろんだよ! バリアのおじさま!!」
夕陽が沈むギリギリの空。
四人の影が街道に並び、老齢の塔へ向かって伸びていく。
——中年三人と少女一人の、新しい旅路の始まりだった。
……ただこのときのオットーとエドガーは、まだ知らない。
道中でミラのたった一言が、
自分たちのプライドを粉々に砕きにくることを——。
一旦、パーティー結成編はここまでです。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
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次章・老齢の塔編は、12月上旬更新予定です。
どうぞお楽しみに。




