第49話 信頼しすぎてる
「——じゃ、気を取り直して」
エリーはそっとエドガーから手を離し、わざとらしく咳払いをひとつした。指先を軽く擦り合わせ、空気の温度を確かめるように魔力を集め直す。
「《鑑定》は、ちゃんとやらないとね。エドガー、立ってて」
エドガーはどこか照れ隠しのように目線を外し、すっと胸を張った。背筋が伸び、膝の上の魔導書の角がわずかに揺れる。
淡い光が、再び足元に魔法陣を描く。青白い輪が床に広がり、紋様が一段ずつ点灯していく。エリーの視線が、彼の全身を上から下までさらりと撫でていった。
(……ふむ、デバフは老眼。あの虫眼鏡は、そういうことね)
エリーは口元だけで小さく頷く。次の瞬間、眉間にほんのりシワが寄った。視線が魔法陣の文字列に止まり、わずかに戻る。
(……それにしても、この魔力の制御精度。原書の再現も本物。
なのに——)
「エドガー」
「はい?」
「もう一度、あなたの魔導書を見せてくれる?」
声が少しだけ硬くなる。本人にその自覚は、たぶんない。
エドガーはその変化に気づかないまま、にっこり笑って魔導書を差し出した。両手の動きが丁寧で、装丁の角が欠けないようにわざとゆっくり渡す。
「もちろん。何度でもどうぞ。ページの紙質にもこだわりがありましてね——」
「はいはい」
エリーは途中で切り、魔導書を受け取ると、ぱらぱらと素早くページを繰った。紙が擦れる乾いた音。インクの匂いがふっと立つ。目が追うのは、古い色合い、筆致、記述の癖。掲載されている魔法のラインナップ。
(……ああ、そういうこと)
視線が一段落ちる。疑問が一本の線でつながり、肩の力がすっと抜けた。
息が、自然に漏れる。
「……なるほどね」
魔導書を閉じ、ぱたん、と膝の上に戻す。掌が表紙を一度だけ撫で、次に視線を横へ流した。
視線の先では——
「ふぉおおお〜〜〜〜〜……」
ミラが、謎の魔道具から出る風に口を開けて「あーーー」と言いながら、ひたすら顔面に直風を浴び続けていた。髪がぼさぼさに舞い、頬の肉がぷるぷる震える。ソファの横のカーテンが、風の脈に合わせてひっきりなしにばさばさ暴れた。
(……見ているだけで頭が痛くなってきたわ)
エリーはこめかみを押さえながら立ち上がる。足元の散乱物を避け、床のきしみを抑えるように一歩。
「次はミラ、あなたよ」
「ふぁ? あ、あたし?」
魔道具のスイッチを切り忘れたままミラが振り向き、風の向きだけ変わってカーテンがさらに暴れた。乾いた布が壁に当たり、ばちん、と軽く鳴る。
「そのままでいいから。動かないで」
エリーがすっと手をかざす。指先の光が一点に集まり、室内の影の輪郭が薄く揺れる。
「フェルン・ディスゥ・スフィアォン・——《鑑定》」
青白い光が、ミラの足元に花のように咲いた。紋様が広がり、文字列が走る。
……次の瞬間。
(……は?)
エリーの目が、ほんの一瞬、大きく見開かれる。息が詰まり、まつ毛が止まる。
(なに、この……桁外れの祝福。再生と加護の重なり方、おかしいでしょうこれ。神の奇跡の領域よ。
それに、“神光再命”の痕跡——使用回数、多すぎない?)
額にじわりと冷や汗がにじむ。指先がわずかに強張り、空中で止まった。
(この年齢で、この密度。……完全に人の子の器、越えてるじゃない)
魔法陣の光がすっと消える。床の白さが戻り、耳にカーテンのばさばさだけが残った。エリーはゆっくりと息を吐き、ソファに腰を戻した。座面が沈み、背もたれが小さく鳴る。
「……分かったわ」
静かな声に、三人の視線が集まる。ダリウスは身を乗り出しかけて止まり、オットーは腕を組み直し、エドガーは指先で魔導書の角を押さえた。
「あなた達の弱点——そして、塔に来た目的も」
沈黙。ダリウス、オットー、エドガーの三人は息を飲んでエリーを見つめた。
エリーは人差し指をすっと立てる。爪が灯りを拾って光る。
「まず、弱点の一つ目」
視線が、ミラの方へと滑る。煤けかけた前髪がまだ風で揺れている。
「ミラに頼りすぎ。
……多分ね、あなた達、ミラがいなかったら——十階層のボスで、もう死んでたんじゃない?」
「——っ」
三人の肩が、同時にぴくりと震えた。
オーガの巨大な斧。
吹き飛ばされたオットーの右足。
血溜まりの中で消えかけるシールドと、崩れかけた陣形。
そして——
『暖かき女神の息吹よ、肉体を再び編み直せ』
泣きそうな声で叫びながら、眩しい光を降らせたミラの姿。
切断されたはずの右足が、あり得ない速度で再生していった、あの“奇跡”。
エリーは彼らの顔色の変化を一瞥し、指を二本に増やした。
「二つ目の弱点」
今度はひとりひとりの目を覗き込むように、視線を移動させる。逃げ場を塞ぐみたいに、順番が正確だ。
「お互いを——信頼しすぎてる」
「……は?」
ダリウスの眉がぴくりと跳ね上がる。
「いいことじゃねぇか?」
オットーが、ぽりぽりと頭を掻いた。指先が髪の根元で止まり、照れたように咳払いする。
「実際、何年もそうやって生き残ってきたんだぜ?」
「ここまで連携がなかったら、とっくにやられてたぞ」
ダリウスが、きっぱりと言う。言い終えたあと、唇の端がわずかに引き結ばれる。
エドガーは腕を組んだまま、視線だけを落とした。
(……信頼しすぎ、か。何が悪い? と、言い切れないのが、厄介ですね……)
「——エドガー」
エリーの声が、その思考を断ち切る。青い瞳が、正面から彼を射抜いた。
「なぜあなたの魔導書には、詠唱の長い大火力の攻撃魔法しかないの?」
問いは淡々としている。だが、言葉の端が冷たい。エドガーは一度だけ指先を握り込み、ゆっくり俯いた。
「……必ずオットーが、時間を稼ぐからです」
短い答え。言い切ったあと、唇がわずかに乾いた。
エリーはすぐに視線を横へ滑らせた。
「オットー」
「お、おう」
「なぜあなたは、他のスキルを覚えないの?」
オットーの喉が、ごくりと鳴った。胸板が一度だけ上下し、広い肩がいつもより小さく見える。
「……エドガーとダリウスが、絶対に敵を倒すからだ」
言い終えると、拳が膝の上で固まった。
エリーの視線が、最後にダリウスへ向く。
「ダリウス」
呼ばれた名に、彼は顔を上げた。目だけが先に動き、次に顎が上がる。
「あなた、自分の弱点を潰すように鍛錬したわね?」
エリーの声は冷たいが、観察だけは正確だった。
「体力、反応、筋力。突出こそしてないけど、どれも平均以上。
“穴がないように”きれいに整ってる」
ダリウスの顎がわずかに硬くなる。奥歯が一度だけ鳴った。
「……だが、それの何が——」
「なぜ長所を伸ばそうとしてこなかったの?」
エリーが切る。
「あなた、リーダーでしょう?
この歪な関係性を、なぜ見逃してきたの?」
声は静かだ。けれど、言葉は逃げない。ダリウスの拳が、膝の上でゆっくり握り込まれる。爪が掌に沈む。
「……っ」
言葉が喉で止まり、息だけが出る。脳裏に浮かぶのは、何人もの背中だ。ダンジョンの途中で置いてきた影。守れなかった命。選んだ、選んでしまった戦い方。
「あなた達が若いころには通用した、力押しの戦術」
エリーは脚を組み替え、背もたれに軽くもたれかかった。布が擦れ、ソファが小さく鳴る。
「今は、それぞれが“老いた”の。
昔のままの役割で、同じ勝ち方を繰り返せると思う方が無理よ」
長い睫毛の影が、頬に落ちる。
「本当なら、もっといろいろな戦術を試して、
“もしもの時”のための手を、それぞれが持っているべきだったわ」
「俺は……」
ダリウスが、かすれた声で口を開く。舌が乾き、言葉が喉に絡まる。次の音が出ない。
沈黙が落ちる。
窓の外の水上都市のざわめきが、遠くで揺れていた。笑い声と足音が混じり、ここだけ取り残されたみたいに聞こえる。
やがて——。
「……別に、責めてるわけじゃないのよ」
エリーが、ふっと肩の力を抜いた。指先が膝の上でほどける。
先ほどまでの硬さが少しだけ和らぐ。声の温度が、ほんのわずか上がる。
「あなた達の“信頼”——まともな冒険者じゃ無理よ。
幾度もの死線と、犠牲と、鍛錬を越えた証だもの」
その言葉に、三人の背筋が、ほんのわずかに緩む。オットーの肩が一度だけ落ち、エドガーの指が背表紙から離れた。
「ただ、今は歯車がずれてるだけ」
エリーは椅子から立ち上がった。腰に手を当て、やれやれと言わんばかりに息を吐く。
「……私が鍛えるわ」
ぽかんと口を開ける三人を見て、エリーはわずかに口角を上げた。
「文句は?」
誰も、何も言えなかった。ダリウスは膝に手をついて立ち上がり、深く頭を下げる。髪が落ち、背中がまっすぐに折れる。
「……頼む」
「いい返事ね」




