第47話 帰るわよ
三十二階層の湖は、静まり返っていた。
街並みが途切れた先——湖のほぼ中心に、ぽっかりと大穴が開いている。
水面をくり抜いたようなそこから、黒い石で組まれた螺旋階段が、塔のさらに奥へと伸びていた。
水音も、風の音も、ここでは遠い。
ただ、下から吹き上がるひんやりとした空気だけが、「この先は別世界だ」と告げている。
「簡単にあなたたちの実力を知りたいのだけど」
エリーが、階段の上にぼんやり浮かぶ転送陣を見上げながら口を開いた。
「ここまで、どんなボスを倒してきたの?」
「十階層がオーガ、二十階層でワーウルフ、三十階層でエルダードラゴンだったよ」
ダリウスは手すりに軽く手を添えたまま、淡々と答える。
自慢でも謙遜でもなく、事務的に過去の戦歴を読み上げるような声で。
「……エルダードラゴンを」
エリーの長い睫毛が、わずかに揺れた。
青い瞳に、ほんの一瞬だけ驚きの色が走る。
「原書写しもいることだし……あなたたち、相当な実力者ってことね」
「まぁな。昔は俺たち、相当ならしてたぜ」
オットーが鼻を鳴らし、腹をぽんと叩いてみせる。
「ダリウスは——シュバーン」
ミラが剣を振り下ろす真似をして、空中に一閃を描く。
「オットーはガッキーン」
両腕を広げ、見えない大盾で何かを受け止める仕草。
「エドガーは、どかーんだよ」
最後に両手を大きく広げ、爆発のジェスチャーで締めくくる。
階段の上に並ぶ影が、ひととき柔らかく笑いに揺れた。
「……楽しみね」
エリーは小さく微笑んだ。
その笑みには、長命のエルフらしい余裕と、未知への好奇心が入り混じっている。
「あぁ、行こう」
ダリウスが一歩、螺旋階段を踏みしめる。
水面からの光が、彼らの影を長く歪ませた。
先頭にダリウス、そのすぐ後ろにオットーとエドガー。
最後尾でミラが振り返ると、遠く水上都市の喧噪が、かすかなざわめきとなって届いていた。
*
転送陣を抜けた先——三十三階層。
そこに広がっていたのは、あまりにも現実離れした風景だった。
目の前いっぱいに広がる、まぶしいほどの海。
エメラルドグリーンの水面が陽光を反射し、きらきらと細かな宝石のように砕けている。
波は穏やかで、規則正しく白い砂浜を撫でては戻っていく。
空は高く澄み渡り、雲ひとつない。遠くの水平線は、絵の具で引いた線のようにくっきりとしていた。
潮の香り。肌を撫でる暖かい風。
どこからか、鳥の甲高い鳴き声が聞こえてくる。
「いい天気だなぁ」
オットーが、能天気な声で空を見上げた。
陽光は穏やかで、海風は心地いい。
——が、その両腕はいつでも盾を構えられる位置に上がっている。
「そうですね」
エドガーは視線を手元の魔導書に落としたまま答えた。
ページをめくる指先はなめらかだが、その足取りは砂を踏む音ひとつ乱さない。
周囲への警戒は、一瞬たりとも解かれていなかった。
その中で、一番早く空気の変化を嗅ぎ取ったのは、やはりダリウスだ。
「——来るぞ。前方、五体。サハギンとマーメイド!」
声と同時に、剣が鞘から抜けていた。
刃が陽光を弾き、きらりと光る。
沖の方——波間の影がゆらりと揺れ、甲高い咆哮とともに五つの人影が浮かび上がる。
魚の鱗と人の体を併せ持つサハギン、そして上半身だけ人の女に似せたマーメイドたち。
海辺の楽園のような光景に、不自然な殺気がゆっくりと混じり始める。
(ふふっ、なるほど……百戦錬磨ってところね)
少し離れた位置でそれを眺めながら、エリーが唇の端を上げた。
青い髪を風になびかせ、その瞳だけが鋭く光る。
ダリウスの気配が、すっと変わる。
余分なものがそぎ落とされ、一本の線のような鋭さだけが残る。
——“超集中”。
「行くぞ」
短く呟いた瞬間、オットーもまた足を一歩踏み出していた。
「シールドバッシュ、出力最大——!」
号令とともに、盾に魔力が走る。
オットーの突進と、ダリウスの踏み込みがぴたりと重なり、二人は砂浜を抉るように前へと飛び出した。
(……もっと深く、潜れ)
ダリウスは、自分の思考を水底へ沈めるようなイメージで、雑念をすべて切り捨てる。
視界の端で揺れる波、陽光、風——すべてが遠のき、
残るのは、敵の動きだけだ。
サハギンの一体が、槍を構えて飛びかかってきた。
だが、その突きが完成するより前に——ダリウスの身体はもう懐に入り込んでいる。
剣が、下からすくい上げるように走った。
「——《スラッシュ》!」
刃が鱗と肉を断ち割り、サハギンの首が、空中で一瞬だけ止まる。
次の瞬間、影が砂の上に崩れ落ちた。
「……なるほど」
エリーは、青い髪の先を指先でつまみながら、静かに目を細めた。
(“深き森”に沈めるのね——)
何度も死線をくぐり抜けた者だけが辿り着ける、意識の底。
そこに潜ってから、敵との距離だけを見る——その戦い方を、彼女は一目で理解したのだった。
「戻れ!! ダリウス!!」
オットーの声が飛んだ。
砂を蹴っていたダリウスの足が、すっと引く。
彼は反転し、再びオットーの背中——分厚い盾の陰へと滑り込んだ。
「……はぁ、はぁ……もう三十秒か?」
剣を杖代わりに突き立て、肩で息をしながらダリウスが問う。
「いや、二十秒だ。数が多い、慎重に行こうぜ」
オットーは短く答えながら、前方から飛び込んでくる槍と爪を、シールドバッシュの軌道だけで弾き返していく。
盾が打ち鳴らされるたび、鈍い音と衝撃が周囲の空気を震わせた。
(……えっ!? なんで止めたの? なんで息切れしてるの?)
そのやり取りを見ながら、エリーの眉がぴくりと動く。
彼女の感覚からすれば、いまの一連の攻防は「まだまだ余裕」な距離と時間だ。
だが、目の前の人間たちは違うらしい。
オットーの構える盾は、エルフの感覚から見ても“異常”な代物だった。
分厚さも、重さも、そして練り込まれた強度も——本来なら長命種の戦士が、百年単位で人生を賭けてようやく扱えるレベル。
(人の子で、その盾をあそこまで……狂っているわね。
一つのスキルに、人生を全部賭けた顔をしてる)
マーメイドの一体が、後方で両手を掲げた。
海水がふわりと浮かび上がり、魔力の光が螺旋を描き始める。
「後方を狙ってくるぞ! オットー、下がる!」
ダリウスの声が飛ぶ。
「任せろ!!」
オットーがひと呼吸おいてから、後退へと体重を移そうとした——その瞬間。
膝の奥で、なにかがブチリと悲鳴を上げた。
「ぐぅぅぅ……っ!」
顔を歪めて、その場で蹲りそうになる。
「痛風か!? 俺の肩につかまれ!!」
ダリウスが素早く横へ回り込み、空いている肩を差し出す。
「わりぃな、リーダー……!」
「問題ない。俺がお前を、お前が俺を支えるんだ!」
短く交わされた言葉に、無駄な照れも装飾もない。
ただ、長年並んで戦ってきた者同士だけが持つ、濃くて、重たい信頼だけがにじむ。
(……今、“痛風”って言わなかった?)
エリーは一瞬、自分の耳を疑った。
(聞き間違いよね。そうよね。あれだけ動ける盾役が、まさか……病名で膝をやられているなんて。怪我よ、きっと怪我。そうじゃないと、私の常識が崩れる)
エリーは、ちらりと後方へ視線を流した。
そこでは、ミラが慣れた手つきで光の紋様を空中に描き、きゅっと結界を張り直している。
その少し前に、一歩進み出たエドガーが——
きらり、と虫眼鏡を掲げた。
「フィオナ……ルーイン…………エドゥ」
涼しい顔で詠唱を紡ぎながら、風になびく前髪を、これ見よがしにかき上げる。
(んん!? 虫眼鏡!!?? しかも詠唱、遅っ!!
どういうこと? なんであんな堂々と“虫眼鏡構えポーズ”をキメていられるのよ!?)
エリーの脳内常識が、音を立てて崩れかける。
だが彼女の戸惑いなど意に介さず、エドガーはページをめくる指先すら優雅に動かし、最後の一節を紡いだ。
「——下がってください!」
短く告げて一歩踏み出す。
「《穿炎連鎖》——!」
その瞬間、赤い魔方陣が重なった。
きしゃあ、と高い音を立てて空気が軋み、彼の足元から細い炎の線が無数に走り出す。
砂浜を這う炎は、残り四体サハギンとマーメイドの足下へと一気に伸び——
槍のように立ち上がって、その身体を貫いた。
刺さった炎は、ただ燃やすだけでは終わらない。
次の瞬間、炎は逆流するように、敵の身体の内側で連鎖的に爆ぜた。
肉が、骨が、内側から焼き切られ——
サハギンもマーメイドも、悲鳴をあげる暇すらなく、光と灰になって弾け飛ぶ。
砂浜には、焦げた匂いと熱気だけが残った。
(……本当に、“完全再現”するのね)
エリーは、虫眼鏡を静かに下ろしたエドガーの横顔を見つめ、一転して奇妙な敬意に満たされる。
——自分たちエルフでさえ、原書魔法の完全再現には、何十年もかける。
それを、この短命な人間が、汗だくで息を切らす仲間たちと肩を並べながら、当たり前のような顔でやっている。
少しだけ、胸が痛んだ。
彼女はふと、昔の友人たちの顔を思い出してしまう。
長命であるがゆえに、置いてきたものたちの顔を。
かすかな寂しさが笑みに紛れ、エリーは小さく息をついた。
砂浜には、短い沈黙が降りる。
ダリウスは剣を突き立てて肩で息をし、額の汗を手の甲で拭った。
オットーは全身汗まみれになりながらも盾を支え続け、膝をさすりつつ座り込む。
エドガーは魔力酔いで少しふらつきながらも、本能的に虫眼鏡を布で拭いている。
ミラはオットーの膝に手をかざし、光の加護で「文明病」を淡々と癒していた。
「……どうだ、俺たちの実力は?」
ダリウスが、荒い息の合間に問う。
そこには自慢でも虚勢でもなく、「これが全部だ」という誠実さがにじんでいた。
「…………」
エリーは口を開かない。
「まぁ俺のシールドバッシュを見れば、そうなるよな」
オットーが、どん、と胸を叩いて笑う。
肩で息をしながらも、その顔にはいつもの陽気さが戻りつつあった。
「魔法の完全再現をその目で見られたのです。驚くのも、無理はありませんよ」
エドガーは海風に髪を揺らしながら、言葉を重ねる。
ふたりとも、「エリーが言葉を失っている理由」を完全に間違えていた。
(今の連携、最大火力は出てる。なのに回復込みで消耗が早すぎる。——この階は“序の口”
……実力は、本物。だけどこのまま上がれば……)
エリーは心の中でそう結論づけると、くるりと踵を返した。
「帰るわよ」
「え?」
四人の声が揃った。
ダリウスは「評価待ちの顔」で固まり、
オットーは胸を叩いた手を宙ぶらりんのまま止め、
エドガーは決めポーズの角度で虫眼鏡を持ったまま凍りつく。
ミラだけが、なんとなく状況を察したように目をそらした。
「い、今の見て、帰るのか?」
オットーが思わず聞き返す。
「言いたいことは、一旦セーフエリアに戻ってからよ。このまま行けば、次の階で誰かが死ぬわ」
エリーはきっぱりと言い、それ以上何も説明しなかった。
「まずは——そこの食材を解体しましょう」
彼女が顎で示した先には、さっきまで牙と爪を向けてきたサハギンとマーメイドたちの、焼け焦げた残骸が転がっている。
ミラの顔がぐにゃりと引きつった。
(やっぱり……食べるんだ……)
「どうしたの?」
エリーが振り返る。
「い、いや……食べるんだと思って……」
ミラは、目を泳がせながら正直に言った。
「当たり前じゃない」
エリーは、きっぱりと言い切る。
「命のやり取りをしたのよ。負けた方は食べられ、勝者の血肉になる。
——自然の摂理でしょう?」
ミラは、何か言い返そうとして口を開いたが、言葉にならなかった。
「で、でも……なんか、その……」
「なるほど」
エリーの声が、少しだけ厳しくなる。
「じゃあ、あなたたち人の子はどうなの? 害意のない、可愛い家畜を一方的に殺して食べている。
どちらが残酷か——今日は一晩、よく考えなさい」
「……っ」
ミラは何も言い返せず、俯いた。
胸のあたりがじんわりと熱くなり、頬がかすかに赤くなる。
(さっきまでサハギンのムニエルを“おいしいお魚”って笑って食べてたの、私じゃん……)
(……言葉にできないけど、なんか、すごく恥ずかしい)
ダリウスもオットーもエドガーも、何が何だかわからないまま顔を見合わせる。
「と、とりあえず、戻るか……」
「……ああ」
「解体は、まぁ……私がやっておきましょう」
息を切らせ、痛む膝や脇腹をさすりながら、五人はぞろぞろと三十二階層へ引き返していく。
背後では、さっきまで「観光地」に見えていた海が、静かに波を打っていた。




