第46話 原書の魂をなぞる者
部屋の中は、ひと目で「片づける気がない」と分かる散らかりようだった。
床には魔道具らしき金属片や、紋様の刻まれた水晶板がごろごろと転がり、壁際の棚には背表紙の割れた魔導書が、歪んだ塔のように積み上がっている。
シンクには使い終わった食器が山のように溜まり、水気だけが干からびて茶色い筋を作っていた。
「お茶を入れるわ」
エリーはぶっきらぼうにそう言うと、足元のガラクタをつま先でどかしながら、棚の奥へと手を突っ込んだ。
ごそごそと何かを掘り出す音のあと、見つかったのは年季の入ったケトルだった。
彼女は慣れた手つきでケトルに水を入れ、魔道具らしき火皿の上に置く。青白い火がぼうっと立ち上がり、すぐに「コポコポ」と湯の音が部屋に満ちた。
「はい、どうぞ」
テーブルの上に、人数分のカップがコト、と置かれる。
——その瞬間、四人の視線が一斉にカップへと吸い寄せられた。
白いはずの内側には、荒々しく残った茶葉の塊。
縁には、洗いきれていない茶渋がぐるりと輪を描き、指の当たるあたりはうっすらと油でぎとついている。
ダリウスは、目の前のカップをまじまじと見つめた。
口を開きかけて、なんとか言葉を選び直す。
「あ……ありがとう」
オットーも、普段の豪快さが影を潜めている。
「き、気ぃ使わせたみたいで……悪いな」
その声色は、ゴブリンの群れを前にした時より明らかに腰が引けていた。
エドガーは、恐る恐るカップを手に取り、鼻先に近づける。
「ほ……本当ですね……」
お世辞が、ひどく上ずる。
「いい香りで……ええと、その……いい葉を使っているみたいですね」
ミラは、三人の顔と、カップとを交互に見比べた。
(……魔物はバクバク食べるのに、これはダメなんだ……)
心の中で、静かに人間への信頼がガタガタと揺れる。
エリーは、そんな視線など意に介さないとばかりに、ふんと鼻を鳴らした。
「まぁ、お茶には拘ってるの。遠慮しなくていいわ」
胸を張って言い切ると、青い瞳をダリウスに向ける。
「それで、話って?」
「ああ」
ダリウスは背筋を伸ばし、真剣な眼差しでエリーを見据えた。
「単刀直入に言う。俺たちの——」
「断るわ」
言葉を最後まで言わせる前に、エリーの声音がぴしゃりと空気を断ち切った。
「話は以上ね」
「ちょ、ちょっと待てよ」
オットーが、慌てて身を乗り出す。
交渉の糸口を掴もうと、言葉を選びながら続けた。
「なぜだ? あんたも塔を登ってるんじゃないのか?」
エリーは唇を引き結び、一拍だけ視線を泳がせた。
それから、努めて冷静さを装った声で言う。
「目的が違うの」
ぶっきらぼうな言い方の中に、ほんのわずかだけ寂しさが混じる。
「そもそも、人の子とは関わりたくないの。……ごめんなさい」
エドガーが、そこでようやく口を開いた。
テーブルの上で両手を組み、慎重に言葉を紡ぐ。
「目的? 一体、何が」
瞳に理屈と打算の光を宿しながらも、声は柔らかい。
「もしかすると、妥協点が見つかるかもしれません。
私たちの目的と、あなたの目的——まったく交わらないとは限らないでしょう?」
部屋の雑然とした空気の中で、その一言だけが、ぴんと張りつめて響き、エリーは、深く長いため息をついた。
それから、テーブルを囲む四人の顔を、順番にじろりと見回す。
そして——ふと、エドガーの膝の上に置かれた分厚い魔導書に視線が止まった。
「……そんなことより」
さっきまでの突き放すような声音とは違う、わずかに興味を含んだ声になる。
「あなたの魔導書、よく手入れされているわね。見せてもらえる?」
エドガーの口元が、分かりやすく持ち上がった。
「分かりますか……。いいでしょう、特別に披露しましょう」
どこか得意げに胸を張りながら、そっと魔導書を差し出す。
エリーは、それを両手で受け取ると、ぱらり、と一枚めくった。
二枚、三枚。
ページを繰るたびに、その青い瞳がどんどん輝きを増していく。肩口までかかる青髪が、身を乗り出すたびふわりと揺れた。
「……っ、こ、これは?」
青い瞳が、驚きと興奮で大きく見開かれる。
「まさか原書じゃないわよね? どうやって写したの?」
その問いに、エドガーは待ってましたと言わんばかりに口元を吊り上げた。
「なかなか分かってますね」
すっと背筋を伸ばし、喉を鳴らしてから——スイッチが入る。
「もちろん、原書の“くせ”、手書きの震えを再現することはします。想像するんです。古代の偉大な魔術師が、どのような気持ちで呪文を……いえ、“物語”を紡いだのか」
そこから先は、もう止まらない。
「まず序文を読み込むんですよ。文脈と筆跡の乱れ方で、その時の精神状態がだいたい分かる。焦っているのか、興奮しているのか、それとも絶望しているのか。そういう“揺れ”まで含めて写してこそ、真の写本です」
言葉がどんどん早く、熱くなっていく。
オットーとダリウス、ミラは、顔を見合わせて同時にため息をついた。
「……あーあ、始まっちまったか」
「今日は長くなりそうだな……」
三人は揃って頭を抱え、椅子にもたれかかる。
「しかし——ここからが味噌です。紙とインクです!」
エドガーは人差し指を立てて、力説した。
「まずは原書そのものの匂い、インクの染み方、紙の繊維の方向をしっかりと堪能します。紙を透かして、光にかざして、どの部分が何度も読み返されて擦り切れているかを確認するんです。そこが、その魔術師が一番こだわった箇所でしょう?」
エリーは身を乗り出し、完全に話に取り込まれている。
「そこから、紙とインクの配合を合わせていくんです。特にインク。ここが重要です。
樹液ベースか、鉱物ベースか、油脂をどれだけ混ぜているか——一滴でも配合を間違えれば、インクの乾き方も、光の吸い方も変わってしまう。そうなったら、すべてやり直しです」
エドガーの指先が、空中に見えない文字を書く。
「線の太さ、かすれ方、縦線と横線の力の入り方。あれをそのまま再現するには、一行ごとに“慣らし”が必要なんですよ。筆を紙の上で走らせながら、原書の筆圧を指に覚え込ませる。だいたい——一行に一週間はかけますね」
さらっと、とんでもないことを言う。
「文字の端に、ほんのわずかに滲んだインクの“にじみ”がありますよね? あれは、書いている途中で手が震えた証であり、感情の乱れの痕跡なんです。そこまで含めて再現してこそ、“原書の魂をなぞる”と言える」
さらに熱は上がる。
「そして、ページ順すら疑います。古い写本はしばしば順番が入れ替わっている。だからこそ、構文と魔法式を読み解き、どのページが本来何番目だったのか推理しながら写す。
そうやって“解体”し、“再構築”しながら写したとき——初めて、原書の魔力は完全にここに蘇るんです」
気づけば、エドガーは身振り手振りも大きくなっていた。
両手で空中に見えもしない書棚を描き、目は完全に“自分の世界”へ飛んでいる。
「魔術師は物語を創造し、私たち魔法使いはその物語をなぞる。
だから私は、一本の線、一つのしみ、一つのかすれも、取りこぼしたくない。そういう覚悟で、この魔導書を写しました」
——沈黙。
部屋の隅で、ダリウスが虚空を見つめていた。
オットーも同じ方向を見ているし、ミラも同じく、目の焦点がどこにも合っていない。
「また始まった」という顔である。空気と化す、というやつだ。
一方で、エリーは机に身を乗り出したまま、目を皿のように見開いていた。
「素晴らしいわ!!」
先ほどまでの無愛想が嘘のように、声に尊敬が滲む。
「人の子の“有限の時間”で、そこまでかけられるなんて! 私たちエルフでもそこまでできない!」
エドガーはわざとらしく天井を仰ぎ、遠くを見つめるポーズをとった。
「ふっ……いえ、大したことはありませんよ。
魔術師は物語を紡ぎ、私たち魔法使いはその物語をなぞる——それだけのことです」
「ち、ちなみにその装丁は!?」
エリーはごくりと唾を飲み込む。
「いい質問ですね。もちろん、これも私が作りました。
私のバイブル、《炎渾の黙示録》をイメージしていまして」
「《炎渾の黙示録》……!」
エリーの指先が、装丁の縁を震えるようになぞる。
「そ、その……それで、出力は?」
「百です」
エドガーは淡々と、とんでもない数字を口にした。
「完全に模倣できます。
まぁ、私、冒険者界隈では——“原書写しの魔法使い”と言われてましてね」
どやぁ、と音がしそうな笑みだ。
エリーの目が、そこでさらに見開かれる。
「あ、あなたが“原書写しの魔法使い”!? 噂は聞いていたわ」
次の瞬間、彼女はぱん、と手を打った。
かつて共に笑い合った魔術師たちの熱が、この人の子の魔法に、もう一度だけ蘇るところを見てみたくなったのだ。
「わかった。仲間にはならない——少しの間、手伝うわ」
「よかったね、エドガー!」
ミラが椅子から半分飛び上がる。
「あのカッコ悪い名前って、こういう時に役立つんだね!」
いつもならぐさりと刺さるはずの一言だが、エドガーは珍しく微動だにしなかった。
胸を張ったまま、余裕の笑みすら浮かべている。
「ふふっ、ミラ。今の私には、そういった精神攻撃の類は通用しませんよ」
その様子に、エリーの口元も思わず緩む。
「じゃあ——さっそく三十三階層で、あなたたちの実力を見せてちょうだい」
「ああ、わかった!」
ダリウスは力強く頷く。
こうして、エリーを迎え入れた一行は、
次なる戦場——三十三階層へと歩みを進めていくのだった。




